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見えないコストと、消費のエンターテイメント化

副題:人件費削減は「自由」として演出されている

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序章|それは「自由」か、それとも「演出」か


現代の私たちは、買い物において驚くほど多くの「自由」を手にしているように思える。

商品を自分で選び、セルフレジで精算し、宅配便で玄関先まで運ばせる。

さらには、店に行かずともワンクリックでモノが届く。

だが、その“自由”の背後にあるのは、店側の人件費削減という構造的目的であり、
私たちがそのコストを「気づかないうちに引き受けている」という事実ではないか?

いや、むしろそれは気づかれないようにエンターテイメント化されている。


第1章|かつての店では「言えば出てきた」


100年前、商店ではこうだった。

客が「醤油を一本」と言えば、店主が奥の棚から商品を取り出し、手渡してくれた。

アメリカだと、紙に書いて渡していたと読んだ記憶がある。

これは、現在の調剤薬局に近い。

あるいはRPGの道具屋を思い出してもらってもいい。

──カウンター越しに、店主が“取り出す”というプロセス。

ここには「商品に触れるのは、店側だけ」という明確な構造があった。


第2章|客が“選ぶ”自由の代償


やがて、商品棚が開放され、ピックアップするのは客の仕事になった。

この変化は「顧客に自由を与えた」とも言える。

自分の目で見て、比較し、選べる喜び。まさに「買い物=娯楽」への進化。

しかし、構造的に見ればこれは人件費の転嫁である。

店員が棚から取り出す手間を、客自身が担っているのだ。

だが客はそれを“負担”とは感じていない。

むしろ、「選ぶ楽しみ」として喜んで受け入れている。


第3章|レジ打ちは“体験”へと変わった


近年では、セルフレジが普及している。

これは一見すると、利便性の向上に見える。

しかし、裏返せばレジ係の削減である。

本来“労働”であるはずの「レジ打ち」という行為を、“顧客体験”として転化しているのだ。

もはや、レジ係にしか許されなかった体験を、一般人が娯楽として味わえる時代。

ここでも、コストカットの構造を、エンタメの文脈で包み込む巧妙な演出がある。


第4章|Amazonは“仲介”で世界を支配する


Amazonは、モノを作っていない。

彼らがしているのは、
卸業者と顧客の間をつなぎ、配送の仕組みを最適化し、その仲介によって利益を得ることだ。

つまりAmazonとは、「店舗という空間すら持たないRPGの道具屋」なのである。

ここでは、陳列棚もレジ係もない。

客は在庫のデータをクリックし、数日後に玄関でそれを受け取る。

そこに「店舗での体験」そのものが消去されている


第5章|コストコは“省略と演出”の二重構造


では、逆に「実店舗」を残しつつ、構造的に変革している例は?

それがコストコである。

• 商品はパレットの上に山積み

• 陳列は最小限

• 商品は業務用サイズ

これは、明らかに陳列人件費のカットだが、それを客は「お得感」として受け取っている。

なぜか?

倉庫そのものに足を踏み入れ、“本物の現場”で“発見”するという娯楽になっているからだ。

つまり、コストカットとショッピングのエンタメ化が見事に両立しているのだ。

コストコは、ショッピングのテーマパークである。

と、言える。

日本では、ドン・キホーテやヴィレッジバンガード、生活創庫などが、それに該当するだろう。

まるで現代のトレジャーハントである。


結章|消費とは「構造の引き受け方」である


気づかぬうちに、私たちは多くの“手間”を肩代わりしている。

だが、それを“サービス”として認識するのではなく、
“自由”や“発見”や“快適”として受け入れている。

つまり、コストカットの構造をどう包むかが現代の消費設計における最大の鍵なのだ。

人件費の削減は、単なる“合理化”ではない。

それを「魅力」として体験に昇華できたとき、
消費は、構造の押しつけではなく「参加」になる。

ただし、その参加は完全に自発的なものとは限らない。

選ぶこと。

探すこと。

運ぶこと。

読み取ること。

支払うこと。

私たちは企業が設計した世界の中で、自分の意思によって動いているように見えながら、かつて店側が担っていた作業の一部を引き受けている。

現代の消費者は、商品を買う客であると同時に、流通システムを完成させる最後の作業者でもある。

しかし、問われるべきは「それが誰の利益になる自由か?」という視点ではないか。

“自由”が演出されるとき、その演出を設計したのは誰で、そのコストを誰が引き受けているのか。

苦労を感じさせない世界は、やがて“感じる力”そのものを弱めていく。

それでも、私たちはそれを「自由」と呼ぶのだろうか。


補章|見えないコストは、画面の向こうへ続いている


この記事では、かつて店員が担っていた作業の一部が、自由や利便性や娯楽として演出されながら、消費者へ移されていく構造を見てきた。

だが、この問題にはさらにいくつかの枝がある。

一つ目は、省略された労働が、なぜ快適さとして感じられるのかという問題である。

RPGの道具屋では、店主が倉庫へ商品を取りに行く姿も、在庫を確認する姿も描かれない。プレイヤーは一覧から商品を選び、ボタン一つで購入する。

現実なら存在するはずの工程が省略されているにもかかわらず、私たちはそれを不自然とは思わない。むしろ快適だと感じる。

この「演出としての省略」については、別の記事で詳しく考えた。

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二つ目は、客へ作業を委ねたあと、企業はどのような接客を残すのかという問題である。

有人レジでは、店員が説明し、間違いを訂正し、客の戸惑いを察していた。

セルフレジでは、その役割を画面が引き受ける。

画面の言葉、ボタンの位置、エラー表示、店員を呼ぶ方法。そこには、その企業が客をどのように扱っているかが表れる。

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三つ目は、UIには企業の理念がどこまで現れるのかという問題である。

利用者が迷ったときに説明するのか。

操作を急かすのか。

間違えても戻れるようにするのか。

企業に不利な選択肢も見つけやすくするのか。

企業の本音は、理念文よりも画面に現れることがある。

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そして四つ目は、生活に必要なUIを、いつまで企業ごとに別々に作り続けるのかという問題である。

病院、銀行、行政、交通、ホテル、飲食店。

目的は違っても、本人確認、選択、確認、支払い、取消、支援要請といった基本動作は似ている。

それならば、UIの一部は道路標識のような社会共通の基盤になり得るのではないか。

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見えないコストの問題は、セルフレジだけで終わらない。

省略された労働。

利用者へ移された判断。

企業理念を伝える画面。

社会共通の接点としてのUI。

消費者が引き受けているのは、単なる手間ではない。

企業と社会を接続する最後の工程そのものなのかもしれない。


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