南アジアのAIガバナンス / グローバルサウスの実用主義 雑感
Ⅰ 南アジア5か国の「第三の道」
欧州がAI規則(AI Act)による包括的な事前規制のモデルを示し、米国が市場主導のアプローチを採る中、南アジアからは異なる発想が出てきている。インド、スリランカ、バングラデシュ、ネパール、ブータンの5か国(人口計17.5億人)は、いずれも個別のAI立法を制定しておらず、制定の予定もない〔注1〕。しかし何もしていないわけではない。社会課題の解決に直結するユースケースを先行させ、必要な規律を事後的に形成していくという、実用主義的なアプローチを共有している。
CeRAI(IIT Madras)のMohanty氏による報告書は、この5か国のAI戦略と法制度を比較し、地域協力の具体的な枠組みを提示したものである〔注2〕。本稿では同報告書を素材に、南アジアのアプローチが示す論点を整理する。
報告書は、先進工業国のAIガバナンスが「規制とリスク緩和(regulation and risk mitigation)」を中心に構成されている一方で、南アジア諸国は「開発上の優先課題に根ざした、異なる道(a different path forward, rooted in developmental priorities)」を切り拓きつつあると述べる〔注3〕。これらの国々は、グローバルな規制枠組みの「受動的な受け手(passive recipients)」ではなく、「グローバルサウスの能動的な声(an active voice of the Global South)」たることを志向していると、結論部は明確に位置づけている〔注4〕。筆者は、こうした南アジアのアプローチを、欧州の包括的規制モデルとも米国の市場主導モデルとも異なる、開発とガバナンスの両立を目指す実用主義(Pragmatism)の表れと理解する。
1 ユースケース指向のガバナンス
報告書が掲げる共通の優先事項の筆頭が、「ユースケース指向(Use-Case Orientation)」である。5か国はいずれも、フロンティアモデルの構築そのものよりも、社会経済開発のためのAI活用を優先している。具体的には、農業、医療、教育、市民サービス、災害管理等の分野における「AI for Good」のユースケースに焦点が当てられており、報告書はスリランカにおけるAI活用結核スクリーニング、ネパールの地滑り早期警報システム、ブータンにおけるゾンカ語自然言語処理ツール、インドのIndiaAI Missionを通じた30以上のユースケースのプロトタイピング等を例示する〔注5〕。
法整備の完了を待つのではなく、具体的な適用場面から逆算して必要な規律を形成していくという戦略は、実践的であり、リソースの制約があるからこそ合理的でもある。インドは既存法(情報技術法2000年、デジタル個人データ保護法2023年、消費者保護法2019年等)とセクター規制の運用にガイドラインを重ねていく段階的アプローチを採用しており〔注6〕、この発想が域内全体の基調ともなっている。
もっとも、報告書はこのユースケース指向の限界も認識している。短期的なユースケースへの集中が、基盤的インフラへの長期的投資を犠牲にしうること、そしてグローバルなAIモデルの訓練データが途上国の経験を十分に反映しておらず、ローカルな適応(fine-tuning)と可観測性(observability)の確保に追加的な資源投入が不可欠であることが指摘されている〔注7〕。
2 インフラ主権と言語のコモンズ
ガバナンスと並んで報告書が強調するのが、インフラの共有と言語的包摂である。
5か国はいずれもAIインフラにおける一定の自立(self-reliance)を志向しているが、基盤モデル、クラウドサービス、半導体といったAIスタックの全領域で外国のサービス提供者に依存しており、「外部依存に起因する共有された脆弱性(a shared vulnerability in the region emanating from external dependency)」が存在すると報告書は診断する〔注8〕。インドが38,000基以上のGPUをエンパネルメント(empanelment)方式で研究者やスタートアップに補助付きで提供している事例〔注9〕は域内で最も進んでいるが、スリランカやバングラデシュも国家AIクラウドの構想を掲げており〔注10〕、インフラの共有は域内共通の課題である。
また、南アジアには100以上の言語が存在し、住民の大多数が非英語話者であるという現実がある。報告書は、英語中心のモデルに依存し続けることの構造的リスクを指摘し、南アジアの諸言語に対応したデータセットとモデルを「南アジア言語のためのAIコモンズ(AI Commons for South Asian Languages)」として共有財産化する構想を提案する〔注11〕。インドのBHASHINIプラットフォーム(22公用語にわたる350以上のAI言語モデルを搭載)、バングラデシュのEkush LLMおよびTiger LLM、ブータンのゾンカ語LLM等の既存の取り組みを域内レベルで統合し、共通のメタデータスキーマ・注釈プロトコル・ライセンス条件を策定するという提言は、デジタル主権の確保という意味でも注目に値する〔注12〕。
Ⅱ 信頼できるデータ回廊と地域的協力
報告書のPart IIIにおける政策提言の中で、理論的に最も興味深いのが「信頼できるデータ回廊(Trusted data corridors)」の概念である。
1 特定目的のための越境データ流通
報告書の提案は、すべてのデータの越境移転を包括的に自由化するものでもなく、また完全な規制の調和(harmonisation)を目指すものでもない。そのいずれも時間と行政コストがかかりすぎるからである〔注13〕。代わりに、感染症監視、洪水予測、作物最適化といった「AI for Good」の特定のユースケースごとに、データの種類(個人、匿名、集計、オープン)を分類し、プライバシー基準を設定し、監査プロトコルを策定し、規制サンドボックスと紛争解決メカニズムを整備するという、「規制的マイクロ環境(regulatory micro-environments)」の構築を提案している〔注14〕。
この点、インドのData Empowerment and Protection Architecture(DEPA)、National Data Governance Framework、フィンテック分野の規制サンドボックス、Open Network for Digital Commerce等が先行モデルとして参照されている〔注15〕。報告書が挙げる具体例も実務的に興味深い。スリランカのAI活用結核スクリーニングツールをネパールに展開する際のデータガバナンスの枠組み(個人健康データの匿名化、差分プライバシーの適用、診断不正確性の責任配分等)、あるいはインドの洪水予測AIをバングラデシュに適応する際の非個人データ(気候・水文データ)の標準化と信頼性確保を、報告書は具体的に論じている〔注16〕。
包括的なデータ保護協定の締結を待たず、まず動かせるところから動かすという発想は、ここにも実用主義が貫かれている。
2 先進アジア経済国への参照と「中間的アプローチ」
報告書は、南アジアの規制モデルを位置づけるにあたって、欧州のAI規則や米国の市場主導モデルだけでなく、シンガポール、日本、オーストラリア、韓国といった先進アジア経済国のアプローチを明示的に参照点としている。シンガポールのModel AI Governance FrameworkとAI Verify、日本のAI推進法、オーストラリアの2025年国家AIプラン、韓国のAIフレームワーク法(2026年1月施行)がそれぞれ検討されている〔注17〕。
これらの国々に共通するのは、イノベーション促進型(pro-innovation)かつリスクベースのアプローチであり、包括的なAI法の制定を回避して既存法と自主規制の組み合わせを基調とする点である。報告書は、こうした先進アジア経済国のアプローチが「欧州連合のより規範的な規制アプローチ、米国の自由市場アプローチ、あるいは中国の国家統制モデルに対する、中間的な道(a middle path)」を示していると述べ、南アジアにとっての参照モデルとして位置づけている〔注18〕。
日本のAI推進法への言及は興味深い。報告書はこれを、「高次の原則を確立するが、罰則規定は明示的に回避し、自発的な事業者の協力とセクター法に依拠してリスクを管理するもの」と評している〔注19〕。
3 India AI Impact Summit 2026への接続
報告書の刊行時期は偶然ではない。2026年2月18日から20日にかけて、ニューデリーのBharat Mandapamで開催されるIndia AI Impact Summitは、ブレッチリー・パーク(2023年)、ソウル(2024年)、パリ(2025年)に続くグローバルAIサミットの系譜に位置づけられ、グローバルサウスで初めて開催される大規模AIサミットである〔注20〕。報告書にはまさに「F. Operationalizing Regional Priorities at the India AI Impact Summit」と題する節が設けられ、サミットを通じて実現すべき成果として「AI for Good」ユースケース・リポジトリ、AI Safety Commons、公共セクター向けコンピテンシー・フレームワーク、グローバル共同研究ネットワークの4項目が具体的に提示されている〔注21〕。
このことからも明らかなとおり、本報告書はサミットに向けた政策提言としての性格を帯びている。Mohanty氏はIndia AI Governance Guidelinesの起草に関与し、その起草委員会の委員長であるIIT MadrasのBalaraman Ravindran教授はCeRAI自体の責任者でもある〔注22〕。研究と政策の距離がきわめて近い環境で生産された文書であり、その学術的な客観性については留保が必要であろう。
Ⅲ むすびにかえて
報告書が描き出す南アジアの実用主義には、二重の含意がある。第一に、規制を「禁止の体系」としてではなく、社会課題解決のための技術を使いこなすための作法として捉える姿勢である。報告書の結論部は、「南アジアのガバナンスの成功は、野心と実用主義を調和させること(marrying ambition and pragmatism)」に依存すると述べる〔注23〕。第二に、データガバナンスの調和を包括的に追求するのではなく、具体的なユースケースに即した「回廊」から着手するという段階的な制度構築の方法論である。
日本もまた、EU型の包括的規制アプローチと米国型の市場主導アプローチの間で自らの立ち位置を模索する中、アジア地域内でのガバナンスの相互運用性を確保する必要があるだろう。データ回廊のような柔軟な枠組みは、十分性認定による一括承認とは別の、現実的なデータ流通の解として一考の余地がある。加えて、報告書が明示的に日本のAI推進法を南アジアにとっての参照モデルの一つとして挙げている点は、日本の規制外交にとっても意味を持つであろう。
以上、粗削りな整理にすぎないが、詳細は原典をご確認いただきたい。
(参考)
India AI Impact Summit 2026公式サイト(https://impact.indiaai.gov.in/)
CeRAI, IIT Madras(https://cerai.iitm.ac.in/)
〔注1〕 Amlan Mohanty, AI Governance in South Asia: Shared Priorities, Challenges & Future Trajectories (Centre for Responsible AI (CeRAI) / Wadhwani School of Data Science & AI (WSAI), IIT Madras, February 2026) 2頁。原文は "None of these five countries has enacted a separate AI law, and there are no immediate plans to do so" である。全文は https://cerai.iitm.ac.in/docs/AI-Governance-In-South-Asia.pdf にて入手可能(last visited Feb. 11, 2026)。
〔注2〕 Mohanty・前掲注(1)。著者はCeRAI准研究員(Associate Research Fellow)であり、カーネギー・インディアのフェロー、NITI Aayogの非常勤フェローを兼任する。インド国立法科大学校(NLSIU)にて芸術・法律の学位を取得した人物である(同報告書・著者略歴頁)。2025年11月に電子情報技術省(MeitY)が公表したIndia AI Governance Guidelines(IIT MadrasのBalaraman Ravindran教授を委員長とする起草委員会が策定)にもかかわっており、研究者と政策起草者の二重の立場にある(Amlan Mohanty and Shatakratu Sahu, "India's Advance on AI Regulation" (Carnegie Endowment for International Peace, November 21, 2024) https://carnegieendowment.org/research/2024/11/indias-advance-on-ai-regulation?lang=en (last visited Feb. 11, 2026) も参照)。なお、本プロジェクトは韓国の国家情報化振興院(NIA)の支援のもとに実施されている(同報告書・謝辞頁)。
〔注3〕 Mohanty・前掲注(1)6頁。原文は "governments in South Asia are charting a different path forward, rooted in developmental priorities" である。
〔注4〕 Mohanty・前掲注(1)35頁。原文は "They have an opportunity to be not just passive recipients of global governance frameworks, but an active voice of the Global South" である。
〔注5〕 Mohanty・前掲注(1)2頁(Executive Summary)。報告書はインドのIndiaAI Missionが「30以上のセクター横断的ユースケースをプロトタイピング段階に移行させた」と述べる(同8頁)。
〔注6〕 Mohanty・前掲注(1)7-8頁。インドは Information Technology Act 2000, Digital Personal Data Protection Act 2023, Consumer Protection Act 2019 等の既存法を適用し、セクター規制(RBIのFREE-AI、ICMRの医療AI倫理ガイドライン等)を重ねる方式を採っている。
〔注7〕 Mohanty・前掲注(1)17-18頁。Oxford Insights AI Readiness Indexが南アジアにおける「データ代表性(data representativeness)」の不足を指摘している旨が引用されている。
〔注8〕 Mohanty・前掲注(1)20頁。
〔注9〕 Mohanty・前掲注(1)8頁。IndiaAI Missionの下、38,000基以上のGPUが、エンパネルメントされたプロバイダーを通じて補助付きでスタートアップや研究者に提供されている。
〔注10〕 Mohanty・前掲注(1)20頁。
〔注11〕 Mohanty・前掲注(1)26-27頁。
〔注12〕 Mohanty・前掲注(1)4頁(Executive Summary)・26-27頁。BHASHINIプラットフォームについては同3頁・19頁も参照。
〔注13〕 Mohanty・前掲注(1)23頁。原文は "seeking full harmonisation and interoperability of data governance frameworks across the region would be time consuming and administratively challenging at this stage" である。
〔注14〕 Mohanty・前掲注(1)23-24頁。
〔注15〕 Mohanty・前掲注(1)24頁。
〔注16〕 Mohanty・前掲注(1)24頁。スリランカの結核スクリーニングツールのネパール展開とインドの洪水予測AIのバングラデシュ適応が具体例として論じられている。
〔注17〕 Mohanty・前掲注(1)21-22頁。シンガポールのModel AI Governance Framework・AI Verify(注130-131)、日本のAI推進法(注132-133)、オーストラリアのNational AI Plan(注134-135)、韓国のAI Framework Act(注136-138)がそれぞれ検討されている。
〔注18〕 Mohanty・前掲注(1)22頁。原文は "a middle path for South Asia, as a counterpoint to the more prescriptive regulatory approach of the European Union, the free-market approach of the United States, or the state-controlled model seen in China" である。
〔注19〕 Mohanty・前掲注(1)21頁。原文は "Japan recently enacted an AI Promotion Act, which establishes high-level principles rather than prescriptive rules. It explicitly avoids punitive measures and relies on voluntary business cooperation and sectoral laws to manage AI risks" である。
〔注20〕 Press Information Bureau, "India AI Impact Summit 2026: 35,000+ Registrations so far; 100+ Countries, 500+ Startups to engage across 500 Sessions" (February 2, 2026) https://www.pib.gov.in/PressReleasePage.aspx?PRID=2222090 (last visited Feb. 11, 2026). サミットのテーマは "People, Planet, and Progress" の3つのSutras(3本柱)を基軸とする。
〔注21〕 Mohanty・前掲注(1)32-34頁。
〔注22〕 Mohanty・前掲注(1)・謝辞頁。Ravindran教授は "Head, Centre for Responsible AI, IIT Madras" としてレビュアーの筆頭に名を連ねている。なお、Mohanty氏のMeitY起草関与については前掲注(2)参照。
〔注23〕 Mohanty・前掲注(1)35頁。原文は "the success of South Asia's governance efforts will depend on marrying ambition and pragmatism" である。
上記で挙げた国以外のAIガバナンスも網羅的にまとめているため、必要あらば目次を参照いただきたい。
(マガジン)「AIと法-雑感」
※目次は以下を参照
note総則規約3条2項前段
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