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24 満州事変はクーデタであり、悪政から民を救った義挙である

満州事変は日本の中国侵略であったことは現代人の常識になっているが、詳しく調べると、およそ侵略のイメージとは異なり、むしろ苛斂誅求の悪政を行う張学良政権を打倒する正義のクーデタだったと考えるべきである

 

中華民国は1938年の北伐完成で統一されたというのは、歴史事実に反しており、北伐完成後に最大の内戦が勃発、終戦後も広西軍、広東国民政府などの軍閥、地方政府が併存している状態となり、しかも蒋介石の支配域には中国共産党の解放区が混在する、分裂状態となっていた。その中で、外交交渉による不平等条約解消を目指す善隣外交の蒋介石に対して、張学良は、抗日、抗ソの暴力的な革命外交を強引に行い、ソ連と軍事衝突、それに失敗すると、続いて日本と軍事衝突するべく、軍拡を推し進め、増税、通貨発行で満州国の経済を破綻させていた。
 満州は、いつ奉天軍が居留民虐殺を起こしても不思議でない緊迫した状態のなかで、合法的に駐留している関東軍が、居留民の保護という自衛目的のために立ち上がり、奉天軍を満州から追放し、新政府を立ち上げたというのが、真相である。

1 不戦条約違反第1号は1929年ソ連の満州侵攻(張学良の実力行使が原因)|CRAFT TOOLS

 関東軍は東清鉄道南満州支線と鉄道付属地の守備隊として1905年からポーツマス条約と満州善後条約に基づき、鉄道施設と居留民保護のため合法的に駐屯していた。

8 関東軍はいつから満州にいたのか。     |CRAFT TOOLS

 1928年蒋介石の北伐完成(北京入城)のときに、張学良は、蒋介石に恭順の意を電報で伝え、満州は蒋介石から任されたということを鮮明にするため、国民党の
青天白日旗を奉天等の都市に掲げ(易幟えきし)、しかし蒋介石の軍は一歩も満州に入れず、形だけ満州は中華民国の支配下にはいった体裁にした。(1922年に張作霖は、満州東三省独立を宣言していた。)

 1930年軍閥最大の内戦が勃発、張学良は戦争の行方を見極めてから蒋介石側に付いて参戦、奉天軍は南下し中原に入り、奉天省、吉林省、黒竜江省ばかりでなく、北平(北京)、河北省、山東省、山西省、河南四省を勢力下に入れた。奉天軍の主力は北平、錦州に移動していた。

2 北伐後に起きた最大の内戦、中原大戦|CRAFT TOOLS
3 中原大戦後に広州国民政府が立ち上がる|CRAFT TOOLS

 張学良は、支配する満州において、抗日、排日扇動を行い、日本人、特に朝鮮人を狙って、農地の権利を奪い、逮捕し、追放しようとした。

4 満州事変の原因は張学良が、大隈内閣と袁世凱との条約を破棄し、主に朝鮮人の農地の権利を奪ったから|CRAFT TOOLS

 さらに張学良は、軍拡のため満州経済を混乱させ、苛斂誅求とインフレで満州の住民は苦しんでいた。(5年分の税金を一度に徴収する等法外な税を課し、また裏付けのない通貨を大量に発行し軍閥の収入にし、その収入の85%を軍事費に充てていた。)

 関東軍は、張学良奉天軍の一方的な条約破棄と排日行為を重大な侵害行為と判断して、自衛権行使を計画した。1931年9月に柳条湖付近の線路爆破を理由に治安維持出動し、満州事変が起きた。関東軍1万5千人は北平(北京)にいた張学良の意表を突き、退いた奉天軍は錦州に結集した(35万人)

 同月、満州各地の将軍たちが張学良や蒋介石からの独立を宣言、満州各地の代表者が天津を訪れ、宣統帝溥儀の助力を懇請した。
10月、関東軍石原参謀は奉天軍の拠点となっていた錦州を偵察、地上から射撃されたので、偵察機から手で爆弾を投下した。12月、装甲列車に乗って北上する奉天軍と関東軍が衝突した。
 ソ連は満州事変の影響なく東支鉄道の経営を続けており、同年12月に不介入を宣言する。
1932年1月、関東軍は錦州を占領し、居留民を保護した。奉天軍は北平に遁走した。あまりの弱さに張学良は「不戦将軍」と揶揄された。

 同年2月、奉天において
張景恵煕洽馬占山湯玉麟の諸将らほか満州の有力者が組織した東北行政委員会において満州独立が宣言され、満場一致で溥儀を執政(元首)に選んだ。五族協和(和、朝、満、蒙、漢)、王道楽土を掲げる政府の建設を目指し1932年3月、東三省に満州国が建国された。(日本は9月に満州国を承認し、日満議定書を締結、満州国の防衛は、関東軍と満州軍が共同であたることとした。1934年3月溥儀は満州国皇帝に即位した。)

 張作霖の部下で、ケシの生産地である熱河省を任されていた湯玉麟が満州国建国に賛同したため、北平にいた張学良と奉天軍は熱河省に侵攻してきた。関東軍は1933年2月に、熱河省の張学良と奉天軍を撃退(熱河作戦)し熱河省を満州国に編入した。

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 張学良と奉天軍の非道な支配から解放された満州は、国民党の高関税政策の影響も受けず経済が安定し、日本の国費投入による満州国首都新京(旧・現、長春)の都市計画に基づく壮大な街づくりや日本からの自動車、重化学工業の計画的な投資と法治に基づく統治により著しく発展した。
 満州国に対し、イタリア、スペイン、ドイツ、ポーランド、ハンガリー、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、クロアチア、タイ、デンマーク、バチカン等の国が承認し、ソ連は在満ロシア人のために公館を設置した。

 1932年満州国は、南満州鉄道を日本から譲り受け、満州国国有鉄道となった。満州国は満鉄平行線も接収、さらに1933年ソ連から東支鉄道の売却申し出を受けて、1935年買取り、線路を広軌から標準軌に改修し満州国国有鉄道に統合した。

 張学良は下野し、上海に滞在(このとき宋慶齢と会っている。)しアヘン中毒の治療後、数年以上ヨーロッパ等に滞在し豪遊した。帰国後(雇ったお抱えのイタリア人パイロットの操縦により、欧州で購入した飛行機に乗って帰国した。)は、蒋介石の指示により、陝西省の呉起鎮を拠点にした中国共産党を攻撃する任務のため西安に駐屯した。しかし張学良は、宋慶齢の紹介で呉起鎮を訪問する人々の交通手段として、自家用飛行機を提供していた。

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