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【推しの子】3期はなぜ炎上しなかったのか?(4期ネタバレ無し)

🔷はじめに

3月25日放送の通算第35話をもって、【推しの子】アニメ第3期が終了した。

さてこの3期は原作連載時、歴史的大炎上を引き起こした名高い最終回(4期相当)に次いで、ネット上で最も激しく叩かれ続けた部分に相当する。
それならば、(僅かなアレンジこそあれ)原作をほぼそのまま映像化したアニメ3期もやはり大炎上しただろうか?
──これが周知の通り、一切しなかった

同時期放送の前衛アニメ『死亡遊戯で飯を食う。』が「意味不明」「原作無視」などと(不当にも)叩かれている一方で、【推しの子】3期は終始至って平穏なままに最終回を迎えたのである。

本noteでは、こうした非対称が一体なぜ生じたのかを、4期相当分の原作ネタバレを極力避けつつ簡潔に解説する。



🔷原作とアニメ、4つの相違点

◆そもそも原作3期分はなぜ叩かれたのか?

このマガジン[↩︎](ネタバレあり)にて以前詳細に述べた通り、原作連載時に3期相当部でのバッシングポイントは大きく4点あった。

(1)盛り上がり過ぎた「2.5次元舞台編」(2期)からの落差に対する失望
(2)いわゆる「闇堕ちしたルビーへの幻滅
(3)読者に対して余り心情を見せなくなり、感情移入しづらくなったアクアへの不満
(4)有馬の枕営業未遂への怒りと、その後全く「反省」が見られない彼女の態度への憎悪

これらがアニメ化に際して一体どうなったかを順次見て行く。


◆相違点①:バッシングエコーチェンバーの不在

まず話数配分からも明らかな通り、【推しの子】のプロットは「2.5次元舞台編」「プライベート編」までの第一部(1-80話/アニメ1・2期)と、「中堅編」以降の第二部(81-166話/3・4期)とに整然と分けられている。

「2.5次元舞台編」はもちろん第一部の山場なのだから盛り上がるのは当然で、「プライベート編」での短いクールダウンを挟んだ後の第二部の入りが相対的に盛り下がるのもまた、作劇上の必然である。
いよいよ作品の本題である「復讐」が始動する第二部が、まだしも「スポ根アイドル漫画」っぽかった第一部に対して、明らかに終始シリアスなタッチで描かれているのだからなおさらだ。

要するに「中堅編」は多かれ少なかれグダるのがフィクションの摂理なのだが、大部分が『少年ジャンプ+』(ジャンプラ)で毎週タダ読みしていて、なおかつ単行本を買って再度通読することもない連載当時の乞食読者たちおっと失礼)に、そんな理屈の分かろうはずも無い。

連載が「中堅編」に入るや否や(2022/5/26)、「今週もつまらない」「ネタ切れだな」「打切りくるか?」などと『ジャンプラ』コメ欄でボロクソにけなしまくり、こうした酷評のコンセンサスがまもなくSNSに波及する──という流れが毎週のテンプレと化した訳である。

補足
こうした批判コンセンサス形成の構造は、本作の完結まで一貫して続いた。
ちなみに、『ジャンプラ』コメ欄の平均的民度は非利用者の想像を絶する。(詳細はこの記事参照[↩︎]

さて一方のアニメ3期にあっては、『ジャンプラ』に相当する強力なバッシングエコーチェンバーがそもそも存在しなかったのはもちろん、2期終了から3期開始までに1年3ヶ月の間があったことが大きかった。
早い話、原作未読のアニメ勢はこの1年3ヶ月のクーリングダウン期間に、2期までで味わった興奮を適切に忘却できたのである。

ゆえに心機一転・虚心坦懐に3期を観始めたアニメ勢の多くは、ごく自然に「ああ、3期はシリアスで行くんだなと納得できた。
「なんか3期つまんなくね? 切ったわ」といった意見もまた当然ながら散見されたものの、これが多数派意見となることは遂に無かったのである。

結局、(1)は発表媒体の相違に由来する不可避的な「失望」であり、決して作品そのものの非ではなかった

補足
同様の現象は、並行して『呪術廻戦死滅回遊編のアニメ化においても起こったし、また『チェンソーマン第二部のアニメ化においても起こるはずである。(周知の通り、両作とも連載時には低評価された)
要するにシリアスものを週刊連載する場合、原作よりアニメの方が圧倒的に有利なのだ。


◆「読者拒絶演出」の緩和

いわゆる「闇堕ち」によって唐突に読者の感情移入を拒むようになったルビーへの幻滅と、やはりその心情・意図がほぼ説明されなくなったアクアへの不満は、第二部全体にまたがる低評価因子であった。
我々が誰よりもまず心理的な拠り所にすべきはずの「主人公」2人が、揃って我々のもとから「離れ」て行ってしまったように思われたからである。

これは一見、ただリーダビリティを損なうだけの「不親切」のようだが、しかし実の所は、「あえて唐突に読者を"突き放す"」というごく基礎的な作劇技法であった。
(例えば『進撃の巨人』の後半で、主人公エレンの心理がほぼ描かれなくなることなどと同様。この記事参照[↩︎]

ところが原作においては、この常識的演出が必ずしも読者に理解されなかった。
それは第一には『ジャンプラ』読者の平均的リテラシーの低さに由来したが、また一方では毎週の絶え間無い脳汁放出・カタルシス供給を要求する週刊連載という媒体が、「意図された不愉快さ」を読者に対し継続的に強いる上記の演出技法と致命的に両立し得なかったことがあった。

一言で言えば、そもそも推しの子第二部は週刊連載に向いていなかったのである。(これは『チェンソーマン』第二部と似ている)
この根本的問題は、圧倒的に進行の速いアニメ版の放送においては自動的に解消されたのだった。

補足
原作計39話(1-39話)→アニメ1期計11話(通算1-11話/実質計13話)
原作計41話(40-80話)→アニメ2期計13話(通算12-24話)
原作計47話(81-127話)→アニメ3期計11話(通算25-35話/実質計12話)

アニメ1期1話・3期35話の拡大話数を一旦無視すると、平均してアニメ1話には原作3.3話分が含まれると分かる。
言い換えれば、連載時の原作が3.3話分(16.1日の心理的持続を読者に要求する展開・演出と同じものを、アニメであればただの1話(25分)で味わえる訳である。
その上で単位時間当たりのストーリー進行速度を比較すれば、【推しの子】1-3期の場合、平均してアニメ1話分は原作1話分の900倍以上の情報密度を有すると見做せるのだ。
週刊連載時の原作が読者に与えた「退屈さ」や「不快さ」が、同じ毎週放送のアニメにおいては綺麗に解消されてしまうのは当然であった。

この外的要因に加えて、アニメ3期の脚本・演出は明らかに、アクア・ルビーによる視聴者への感情的拒絶を逐一やわらげていた
以下それぞれ見てみよう。


◆相違点②:「不気味な狂気」から「明確な闇堕ち」へ──ルビー

まずルビーについて言えば、次のシーンが象徴的であろう。
『深掘れ☆ワンチャン!!』の炎上が始めから自身の謀略であったと認めたルビーと、その異様に陰湿な手法をなじるアクアとの応酬である。

(10巻93話43頁)
(3期28話2:14)
(同49頁)
(同3:46)
(同56頁)
(同5:40)

場面自体は至って原作通りであり、ルビーの眼の黒い光がアップで強調される演出もまた原作のものである。
とは言え原作では全体的に淡白な対話となっており、アニメほどには印象的に描かれていない。

例えば、ルビーの眼がアップになるカットは上の通りの計2回で、これ自体は原作のままなのだが、しかしその印象はかなり異なっている。(特に下まぶたの形状の違いと、シワの入れ方に注目)
T字路
での対話の後に二人が別れ去る象徴的な趣向もまた、アニメ独自のものである。(原作では普通に住宅街中の一本道での会話)

(同4:38)
(同5:52)

更に、この場面は原作では夜間に設定されていたが、アニメでは日没前後彼は誰時かわたれどき)になっており、なおさらルビーの狂気を印象付けている。
(予告編のカラースクリプトでは一層そうである)

本編とカラースクリプト違い。
予告では一層ルビーの狂気を強調していた

3期第2PV, 0:12[↩︎]

これらのアレンジの結果として、アニメではルビーの「闇堕ち感がかなり強調されており、一見すると視聴者(特にルビー推し勢)の「幻滅」をむしろ増大させ、原作の二の舞になってしまいそうである。

──がしかし、これは実は逆であって、人はしばしば「少しだけ狂っている者」よりも「完全に狂っている者」にこそ容易に感情移入し得るものだ。
不気味の谷現象」が示すように、「何かが少しだけおかしい」状況は名状し難い不安を誘い、「明らかに異常」な状況はかえって強い安心を与える。(曖昧性忌避認知的完結欲求

原作のルビーが読者の反感を買ったのは、アイとゴローの仇を「絶対に殺してやる」と誓った(79話)後の彼女が、アクアとの和解エピソード(123話)に至るまでその心理描写を比較的省かれ、彼女が何を考えているかよく分からない状態が44話分(連載にして1年2ヶ月)も続いたからであった。

「何を考えているかよく分からない」ルビー
(2期24話12:36)

これは先述の通りごく常識的な作劇技法フック)であるが、天真爛漫で純真無垢なルビーを眺めることに毎週の慰みを見出していた連載読者(特にルビー推し)からすれば、そんな彼女を奪われてから延々1年2ヶ月も待たされた訳で、結局は焦らされる不愉快さが「作劇技法」うんぬんの審美的評価を凌駕することとなった。

一方で、この1年2ヶ月の連載期間をアニメはわずか2ヶ月の放送期間で済ませられたのだから、言ってみれば「ヘイトが溜まる前にさっさと駆け抜ける」ことができたのである。

「何を考えているかちゃんと分かる」ルビー
(3期35話28:32)

この利点は当然ながら、視聴者に対し継続的な心理的負荷を強いるシリアス調の第二部においてこそ大きく作用した。
アニメはこうした内在的優位に加え、「不快なフック」の張本人たるルビーの「闇堕ち感をあえて繰り返し強調することで、「この反動として遠からず救いが待っているはずだ」との期待と安心を視聴者に与え続けた。

かくして、「救いというカタルシスは遠からず来ねばならない。
ゆえに3期は展開を速め、挿話を削り、最終話を1時間に拡大してでも、絶対に二人の和解シーンまで描かねばならなかったのである。

約束されたカタルシス。
原作読者はここまで実に1年2ヶ月間焦らされたのである

(同26:58)

補足
なお、「ツクヨミの子役起用」という微妙なシーンで3期を締めたことが「そこで終わるんかいw」とネタにされているが、これは4期を「本読み」(13巻128話)といういかにも映画編らしいエピソードから始めるための必然である。

つまり最終回の尺を見ると、アクルビの前世バレ・和解まででOPをカットしてさえ28分も使ってしまい、通常尺に収まらない。
ここは3期における感情的なクライマックスであるため、2話に分けるとどうしても説得力を欠いてしまい、かつ後続するミヤコ社長👩‍🦰とバイト君😎のサイドエピソードが浮いてしまう。
(もちろん4期のオープニングをサイドエピソードにする訳には行かない)

よって、『呪術廻戦』3期最終話のように中途半端な拡大尺にするよりも、いっそ1時間枠にしてしまった方が得策だったのである。
1期1話を映画並みの90分尺にしてまでも絶対にアイの死まで入れなければならなかったのと同様、物語全体の構成を周到に考慮した上で脚本が書かれていることが分かるだろう。
決して話題集めのための拡大枠などではないのだ。


◆相違点③:「悪役の顔」から「主役の顔」へ──アクア

次にアクアについて、感情表現面での分かりやすいアレンジ例を見てみよう。
「映画編」開始直前、ルビー・フリルとの個人間オーディションから帰るあかねが、一旦決別したアクアと遭遇した際の会話である。

悪役の顔
(12巻116話116頁)
相対するあかねはいかにも「主人公の顔」
(同115頁)

不敵に笑う原作のアクアは明確に「悪役の顔」であり、あかねの静止を振り切って復讐へ向け「暴走」する男──という作中での立ち位置と一致している。

主人公の顔
(3期34話10:52)
対するあかねは全く原作通りの「主人公顔」なので、
明確にアクアの表情だけを調整している訳である

(同10:38)

一方、縦の効果線演出こそ原作通りとは言え、アニメの彼はどこまでも「主人公の顔」である。
何を考えているか分からない不敵な笑み」で視聴者を拒絶し去ることが無いのだ。

このシーンでは作画のみならずセリフも多少改変されており、全体として二人が対立している印象を弱める仕上がりとなっている。
この改変は原作読者からも総じて「改良」と評価されているようだ。

補足
なお上で批判されている原作アクアの「イキってる感」「厨二感」は、復讐計画にあかねを巻き込まない為に、決別後の彼女に対し強いて超然たる態度を取っていたことによる。
どこまでも意図的な演出なのだ。

……がしかし言うまでも無く、元よりこれは「どちらがより優れているか」といった話ではない。
このシーンにおいて象徴的に表れている通り、原作とアニメとではそもそも演出の方針が違うのだ。

あえて読者を心理的に拒絶する原作の演出が連載当時、一般読者に受け入れられなかったのは或る意味 必然であるが、しかし一方、より一層 視聴者に歩み寄るアニメ版の演出が一般視聴者に受け入れられたこともまた必然である。

ゆえに優劣などと結び付くものでは無論ないのだが、それでもアニメの周到な演出が同一作品のハードルを一段下げたのは確かだろう。
その意味でアニメ3期は「前車の轍を避けた」のであったが、かと言って、その「前車が非難されるべき謂れなどどこにも無いのだ。

補足
上記シーンにおけるセリフ改変の一例。
例えばあかねによる「アクアくんの企みは私が止める」への返答は、原作ではぶっきらぼうな「あっ そう」なのに対して、アニメでは割合穏やかな「そうか…」に改められている。
ごく些細な変化だが、視聴者の心理的抵抗が周到に緩和されている訳である。


◆相違点④:「尻軽女」から「哀れな性被害者」へ──有馬

Q. なぜスキャンダル編の原作連載時、有馬が猛バッシングを受けたか?
A. 処女崇拝者のピュアガキどもが発狂して狂信的な有馬アンチと化し、彼女への醜いヘイトを募らせては「ヤリマン」のレッテルを飽きもせずペタペタ貼り続け、ギャーギャー騒ぎ続けただけです。

──終わり。しょうもないですね。(詳細はこの記事参照[↩︎]

……とは言え、スキャンダル編連載時の低評価と現在まで続く有馬バッシングの開始は、【推しの子】という作品そのものへのこいつは好きなだけ叩いていいというバッシング風潮をネット上で確立した重要イベントであったから、いくらしょうもない話とは言えど、アニメ化に当たって無視できるはずもなかった。

かくしてスキャンダル編では脚本上、ざっと以下の改変が為された訳だが…

(1)原作では有馬とシマカンが普通に待ち合わせてサシ飲みしていたのが、アニメではアザミマコも来るはずだったことにされた。
(2)有馬が連れ込まれるマンションの部屋は、原作では単にシマカンの私宅であり、かつ有馬の認識では妻が在宅しているはずだったが、アニメでは有人の事務所ということにされた。
(3)有馬が記者に撮られたのは、実はアザミマコの陰謀だったことにされた。

(10巻100話171頁)
(3期29話10:48)
(同186頁)
(同187頁)
(同16:54)
(同17:00)
(同17:17)

なるほど、この3点の改変だけで有馬の「自業自得感がかなり和らぐ訳で、苦肉の策ながらも実に上手い。
これに潘めぐみのあの演技が加われば、三重に騙された上でスキャンダルに巻き込まれただけの有馬を「ヤリマン」「自業自得」などと罵れるアニメ勢など、そうは存在しない道理である。

この重曹氏を誰が叩けるって?
(同21:16)

──がしかし、そうは言っても「苦肉の策」には違いない。
つまりは、進路に悩んだ上で別段誰に騙されることも無く、自らの意思でシマカンとのサシ飲み営業を決断し、かつ自らの意思で彼の自宅へと向かった原作の有馬がまとっていた、現状に切実な危機感を持つ者特有の「今すぐ何か行動しなくては」というあの悲壮さは、アニメではどうしても失われている。

意地悪く言えば、結果として有馬が「ただの哀れな性被害者」になってしまっているのだ。

ゆえに原作とアニメは一長一短と言うべきだが、ともかくアニメは理解と共感のハードルを下げる」方を選んだ。
そしてそれは成功したのである。

連載時に多くの有馬アンチを生んだ直後の「ティッシュ箱ぱこーん」を跡形も無くカットしてしまったのも、やはり同一の指針に基づくものであった。
(これは恐らく、1-3期を通じて最大のエピソード省略であろう)

ぱこーん、映像化ならず😢
(11巻107話126頁)

それにしてもこのシーンを脚本レベルでピンポイントに削ったあたり、原作連載時に一体どの部分が反感を買ったかを、制作陣が周到に研究していることが窺えよう。
(そうでもなければ、これもまた何の変哲も無いコメディシーンとして残ったはずである。事実「何の変哲も無いコメディシーン」であり、ただ一部の連載読者が盛大に誤読してバッシングしただけなのだから。この記事参照[↩︎]

これも「ぱこーん」の道連れで消えたようなコマ。
結果「コメディ担当有馬」はアクルビ和解後までお預けに。
いわばスキャンダル未遂後の「謹慎期間」が設定されたのである

(12巻120話184頁)

しかし結局、その「周到な研究」の上で明確に切り捨てられたエピソードが3期中ではほぼこの「ぱこーん」のみである事実は、アニメが原作を極力尊重し、それを「改良」するというよりも、どこまでも必要最低限のアレンジ」にのみ徹していることを明確に示していよう。
その「アレンジの成功が、そもそも優れた原作なくしてはあり得なかったこともまた言うまでもない。



🔷結論

  1. 原作【推しの子】の3期分(特にスキャンダル編)が連載時に叩かれたのは、週刊ネット連載という発表形態とバッシングエコーチェンバーの存在、及び端的に一部読者の読解力・忍耐力不足による。

  2. アニメ3期のスキャンダル編が炎上しなかったのは、(1)の炎上理由が媒体の相違外的要因)と巧みなアレンジ内的要因)によって結果的に全て回避されたことによる。

  3. (2)のアレンジは、全て原作のシナリオ・コマ割り・演出等を最大限尊重した上で行われており、よく言われるような意味での「改変」「改良」「原作超えなどではない

  4. 以上に加えて、そもそもシリアス作品の発表においては原作よりアニメの方が圧倒的に有利なのだから、アニメ3期の成功が原作の価値を相対的に下げることなどもちろんあり得ない


──後編へ続く──

(なお、原作ネタバレOKの方はあわせて下のマガジンもご参照下さい)


(ヘッダー画像:3期28話3:46)

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