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「夫。八十八体に試された日」 #68

「ちょっとお遍路してくる」

と高尾山へ向かった夫。
近場の巡礼だから気軽なものかと思っていたら、待っていたのは二度の登り降りと、番号まで人を惑わせる八十八体のお大師さまだった。

6月13日(梅雨の合間の晴天)

久しぶりの青空に気をよくした夫は、朝から高尾山へ向かった。
目的は登山、ではなく「高尾山内八十八大師巡り」だという。
しかも夕方から始まる壮行会の前に巡るらしい。
普通の人は飲み会の前に少し昼寝でもするものだと思うけれど、夫の周辺では、宴会前に巡礼という課題が出される。
ずいぶん健康的で、ずいぶん過酷な前菜である。

高尾山には、赤い帽子をかぶった石像があちこちに置かれている。
夫も以前から存在には気づいていたらしいが、それが明治時代につくられた八十八大師巡りだとは知らなかったそうだ。
四国八十八ヶ所を巡った薬王院の偉い方が、各地の土を持ち帰り、その上にお大師さまの石像を置いた。
高尾山で巡れば、四国を旅したのと同じご利益があるという仕組みらしい。

その話をする夫は、いたく感心していた。
「よく考えたよね。しかも実行するのがすごい」
と何度も言う。
確かに、ご利益を近くまで運んでくる発想は大胆だ。
ただし無料配布ではない。八十八体すべてを巡るには、高尾山を二度も登り降りしなければならないという。
幸せは分配するけれど、受け取る側にも相応の脚力を求める。
神仏の世界も、なかなか手堅い。

さらに石像の位置は地図上で曖昧。
番号順に並んでいるわけでもなく、同じ番号があったり、番号そのものが見当たらなかったりする。
夫は「心理戦だった」と言っていた。
巡礼とは、自分の心を見つめるものだと思っていたが、まさか「これは本当に八十八体あるのか」と運営側まで疑うことになるとは思わない。
信仰心に加えて、観察力と推理力まで必要な体験型エンターテインメントである。

それでも最後の一体を巡り終えたとき、夫は心からうれしかったらしい。
体力も気力も使い果たした顔で語るのに、声だけは妙に弾んでいた。
その顔を見ていると、私は少しだけ羨ましくなった。
効率や正解ばかり気にする毎日の中で、意味があるのかないのか分からない石像を探し、汗をかき、最後には素直に達成感を味わう。
そんな時間は、案外ぜいたくなのかもしれない。

巡礼の後は高尾山温泉で汗を流し、壮行会へ向かった。
主役の桃江さんは、夏は山小屋、冬は下界で暮らす二毛作生活の二巡目に入るという。
一度経験した厳しさを知ったうえで、もう一度同じ山へ戻る。
その意思の強さに、夫はまた感心していた。

もしかすると今回のお遍路は、これから山へ戻る桃江さんのための、小さな儀式だったのかもしれない。
便利でデジタルな下界を離れ、身体と天気に向き合うアナログな暮らしへ入る前に、みんなで歩き、迷い、ご利益を願う。
少し不器用で、でもずいぶん人間らしい。
夫が持ち帰った達成感も、桃江さんの新しい山暮らしを、どこかでそっと支えてくれる気がする。
に赤い帽子を見かけたときは、私も少しだけ足を止めてみよう。


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