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【読書】小林秀雄、吉本隆明、福田恆存――日本人の「断絶」を乗り越える (テンミニッツTV講義録 4) その3

出版情報

本記事は下記の一連の記事のうちのその3である。

思春期に終戦を迎えた世代(江藤淳と柄谷行人)と福田恆存

 本記事では、小林秀雄吉本隆明の後の世代を取り上げる。具体的な評論家としては、江藤えとうじゅん柄谷からたに行人こうじんである。また福田ふくだ恆存つねありについても、取り上げる。それぞれ本書では第6講と第7講となる。

 この辺りから、本書を貫くテーマである「明治維新敗戦という2つの断絶にあたって日本人は自然をどう捉えてきたか日本人の自然観はどう変化したのか」がはっきりと現れる。ああ、そうだ。もうひとつ断絶がある。それは高度成長期だ。

 本書の著者 浜崎洋介によると、江藤と柄谷には右派左派という違いはあるにしても、「自然」に対する感覚に驚くほどの類似点があるというp74。それは、小林秀雄と吉本隆明がやはり右派左派と分類されながら、やはり同じような自然観に到達していることと相似形のように感じられる。

 いや浜崎はもっと踏み込んで、第6講の比較的初めの方で、「文学・文芸の営みとは、「自然」に身を横たえそこから立ち上がってくる声に耳を傾けることで、自分たちが被っている断絶とその葛藤を乗り越える営み」だ、と述べているp76(これ以上のネタバレもないだろう💦)。さらに「「自然」を見失うことは、ほとんど「文学」を見失うことと同義」であるp76-p77、とまで述べている。

 高度成長期を経ると批評家=私たち(を代表している)はますます「どこに自分の根拠を置いてよいのか」わからなくなるp77。そして批評家は「誰に向かって言葉を書けばいいのか」p77、その読者すら見失うことになる。

 福田恆存もまた、「自律性は自分の内面ではなく、宇宙の有機性という自分の外部にある」という言い方で、自律性=本当の自由は自分のうちにではなく、宇宙の有機性=自然に相即そうそくすることで現れる、という趣旨のことを述べているp95。ここにもまた、日本人の自然観が現れていないだろうか?この逆説こそが本書の主題なのだ。そう、福田恆存は自然を失ってはいないのだ。ここに大いなるヒントがありそうだ。
 (そして多分…この「自然」が日本人の信仰の対象であり倫理価値基準なのだ。浜崎はそうは明言していないなようのだけれど)。

 以降は、目次をつけますので、目的のところに飛ぶのでも、ここで離脱するのでも。どうぞ、そうしたいようになさってください〜。
若干ネタバレ気味でもあるので、それが気になる方も、離脱をどうぞ〜。


時代背景:60年代安保と高度成長の影響

 1932年生まれの江藤淳は終戦時12歳、1941年生まれの柄谷行人は終戦時4歳だった。彼らはもちろん終戦にも大きく影響を受けたけれど、1960年代の安保闘争や高度成長期にも影響を受けた。どういう時代だったのだろう?
 
 吉本隆明は60年代の安保闘争の時に知識人を攻撃した。彼には「大衆の原像」という原点があった。知識人は大衆からかけ離れ、イデオロギーを紡ぎ出した。そんな根無草のような議論は許せなかった。共産党も攻撃対象だったようだ。

 だが60年代安保闘争が敗北で終わり高度成長期になると、多くの一般庶民となる人々が根無草に変貌していった。「生活感覚」の変容だ。その仕組みを浜崎は次のように説明する。

  • 60年安保闘争の敗北p75

  • 高度成長による「生活感覚」の変容p75-p76

  • 60年安保闘争の敗北の結果

    • 戦後レジームの固定化(安定化)

      • <9条ー安保>体制:戦後の対米依存の確立と持続

        • 平和憲法(平和主義)を維持(交戦権の放棄)しつつ米から安全保障を調達。

        • 経済政策に集中。

    • 「国家の当事者意識」の溶解

      • 国家最大の主権である憲法制定権交戦権を戦後日本は経験しない。

        • 口先では平和を唱えながら、裏では安保に頼るという偽善

        • →時が経てば経つほど日本人は「国家とは何か」がわからなくなる

  • 高度成長による「生活感覚」の変容の結果

    • 「生活」のリアリティの希薄化:吉本のいう「大衆の原像」の希薄化

      • 農村から都会への人口移動の激化

        • 職を求めて農村を離脱した中卒者「金の卵」たちは、日本の経済成長に合わせて成長し、戦後日本を支える中間層になっていく。

      • 年率10%の経済成長は、

        • 激しい環境変化をもたらす。つい1年前はドラえもんにあるような土管どかんが積まれた野っ原。そこに住宅が建つ。畑がマンションになる。土埃つちぼこりのじゃり道がアスファルトの道になり、普通のコンクリートの舗装道路になる。そういう中で、自分が自分であるという確かな手応えやリアリティが後退していく。

        • 物質的な豊かさももたらす。生活の必要性は後退し「必要はないけど」オシャレに見えるから買う、今のに飽きたから買う、他の人も買っているから買う。そういう自由で曖昧な消費生活で覆われていく。

        • →「必要」から自由になっていく過程は「自然」を見失う過程でもある。「必要」=「自然」なので。「土地」「生活」「家族」から自由になる=現実感覚を見失う過程p76。

 こうした中で、文芸批評家たちも「現実感の希薄さに」「焦燥感を覚える」ようになる。

 文学・文芸批評の営みとは、「自然」に身を横たえ、そこから立ち上がってくる声に耳を傾けることで、自分たちが蒙っている断絶とその葛藤を乗り越える営みだったからです。
 とすれば、「自然」を見失うことは、ほとんど「文学」を見失うことと同義だったと言っていいでしょう。これ以降、批評家は、ますます、「どこに自分の根拠を置いて、誰に向かって言葉を書けばいいのか」わからなくなっていきます。

日本人の「断絶」を乗り越える p76-p77

父性原理と母性原理:江藤淳の批評

 上でも書いたように、江藤淳は1932年生まれ。終戦時12歳。幼少期に母と死別し戦後の家族の没落なども体験しているが、思春期を戦後の新しい教育と共に過ごし、慶應義塾大学在学中に書いた『夏目漱石』(昭和31年(1956))で注目を浴び、一躍時代の「批評家」になったp77。彼には「何かがおかしい」という違和感が常にあった。ロックフェラー財団の奨学金で留学し、プリンストン大学で教えるなど経験を積み、高度成長期真っ只中の日本に帰国する(昭和39年(1964))。華やかな経歴だなぁ。満を持して同時代の文学の中に違和感を突き止めようとする。それが『成熟と喪失 ー"母"の崩壊』(昭和42年(1967))だった。浜崎は江藤淳の問いを下記のようにまとめている。

要するに<国家における父性原理を失い、伝統的な農耕社会における母性原理をも喪失したとき、果たして裸の個人=戦後日本人は、どうやって生きていけばいいのか>ということでした。

日本人の「断絶」を乗り越える p77

 「国家における父性原理」とは端的に言えば「皇国思想」のことだ。それは儒学や武士道という長い歴史を背景とし、「天皇の超越性が確固として担保され国家のアイデンティティや凝集性を成り立たせ」p77-p78ていた。では母性原理は?それは日本の農耕社会の伝統に根付いた価値観だった。明治維新が壊し、高度成長期が壊したのだp78。
 父性原理の喪失は、終戦による喪失→占領下の米国人が仮の父に→占領が終わり仮の父もいなくなる、という過程を辿たどる。江藤淳は次のようにいう。

 もしその残像があれば、それは「恥ずかしい」敗北の記憶として躍起になって否定された

江藤淳『成熟と喪失ー”母”の崩壊』講談社文芸文庫、p151
日本人の「断絶」を乗り越える p78-p79より引用

 恥辱。自虐史観と同根。
 浜崎は続ける。

…「残像」というのは、天皇の存在を指しています。つまり、私たちのなかにあった「天」に繋がる超越的価値観は全て、アメリカに敗けた「恥ずかしい」記憶として否定されなければならなかったのだと。それが「戦後」という時代なのだと。

日本人の「断絶」を乗り越える p79

戦後に「第三の新人」と呼ばれた作家たちの描く父親像は、「徹底的に不自然、かつ見すぼらしい…男たちは、家族を営む上で「父」を適切に演じることができず…上滑っていくしか」なかった。
 では母性は?

この過程はまさしく農耕社会の「自然」=「母性」が、「置き去りにされた」者の不安と恥辱感から懸命に(逃れようと:追記:記事執筆者)破壊されたのと表裏一体をなしている。先ほどいったように、今や日本人には「父」もなければ「母」もいない。そこでは人工的な環境だけが日に日に拡大されて、人々を生きながら枯死させて行く…

江藤淳『成熟と喪失ー”母”の崩壊』講談社文芸文庫、p151
日本人の「断絶」を乗り越える p79より引用

 農耕社会の「自然」=「母性」が「置き去りにされ」る、とは農耕社会が劣位なものとして産業社会に置き換わって、かつてはたとえば地母神として大切にされていたものが顧みられなくなることを指している。地母神という言い方でなくて、たとえば田の神とか村落共同体が守り祀る何か。明治維新以降、大東亜戦争敗北以降、ますます産業社会によって「母性」が見捨てられ、「父性」すらも見すぼらしいものとなった。両者ともに恥辱感にかられて、ますます破壊されていく。
 では、江藤淳は何に希望を見出そうとしていたのか?
 歴史である。だが、だがかえって何もないことを実感することになる。

…解体し、流動化して行く世界像を有機的に再構成するだけの、新しい包括的な歴史の概念がどこにも存在しないことが、私たちを限りなく苛立たせ、不安にするのである。

江藤淳「歴史・その中の死と永生」、『江藤淳著作集続3』講談社、p36-p37
日本人の「断絶」を乗り越える p80より引用

 それでも、あるいは、だからこそ江藤は、1970年代〜1980年代にかけて、GHQの占領政策や憲法制定についての研究=戦後の起源を問いただす「歴史研究」に捧げた。

 歴史を見失ったとき、私たちは、何をよすがに他者と関わり、何を根拠に他者との絆をつくればいいのでしょうか。それがよくわからない以上、「国家」を作り上げることも、「国家」を担うことも、そして「国家」の主権を行使することも不可能

日本人の「断絶」を乗り越える p81

 上は、浜崎の言葉であるが、もちろん江藤淳の中にもあったことと思う。

「現実感」の喪失:柄谷行人の場合

 柄谷行人は1941年生まれ。終戦時4歳だった。江藤淳より約10歳若い。
 柄谷行人は江藤淳に影響を受け、夏目漱石論(「意識と自然」昭和44年(1969))でデビューした。小林秀雄と吉本隆明の底に「自然」を見出していた。「小林と吉本の「自然」への信仰を頭では理解しながらも、夏目漱石-江藤淳と連なる「不安」の感覚を引き継いでもいた」p82。
 柄谷行人の現実感。

 …私自身にも現実感はほとんど希薄である。…「現実」はある、が現実感がない。とすれば、むしろ「現実」の方が疑わしいのだというべきだろうか

柄谷行人「内面への道と外界への道」、柄谷行人『畏怖する人間』講談社文芸文庫所収、p322-323
日本人の「断絶」を乗り越える p83より引用

 十分に現実に関心があり、現実に向き合った上で、「現実感がない」。江藤淳の言葉で言えば「有機的に再構築するだけの、新しい包括的な歴史の概念がどこにも存在しない」p83。
 そして、柄谷行人は、「現実」の外に出るために、「秩序」の脱構築へと向かい、それでも「現実」に変えることができない自分自身を持て余すかのように「コミュニズム」や「世界共和国」という”理念”の方向に向かって行くことになるp83。んー。それではますます頭でっかちの方へと向かうのでは?(という簡単な感想&疑問を置いておきます)。

現実感を取り戻すために:包括的な歴史観

 自分自身に自信を持つためには、包括的な歴史観が必要p86だと浜崎はいう。それは国という有機体にとっても同じである、と。

…私たちは過去の歩き方(経験)を記憶しながら次の一歩を出すのであって、そこに一切の記憶(歴史観)がなかったとしたら、私たちは、次の一歩をどこにどうやって出すべきなのかわからないでしょう。…
…有機体としての国の歴史も同じです…私たちの「包括的な歴史観」によって、国や人が生きるべき「道」を見出すのであって、それなくしては、国も人も、自信ある一歩を踏み出すことができません。

日本人の「断絶」を乗り越える p86-p87

 浜崎によると、1980年代〜1990年代にかけてポストモダニズムが流行っていた。そこでは「大きな物語の終焉」ということで「時代は未来に向かって進歩しているはずだ」という歴史観=進歩主義が否定された。そこには2つの間違いが含まれていたp87-p88。

  • 大きな物語の終焉に含まれていた2つの間違い(あるいは誤解)

    • (1) 終わった大きな物語=進歩主義の終焉をすべての「包括的な歴史観」の終焉と誤解した。

    • (2) 大きな物語=進歩主義は終わっても、他者と「包括的な歴史観」を共有し得る=共同体は継続し得る可能性に閉じていた。個々人が個々人の小さな物語と戯れていればよい、と誤解した。

グローバリズムの急拡大と弊害

 もう、この項目は浜崎の真骨頂で、本書を読んでいただくのが一番であるがp89-p92、なんとか、まとめてみようと思う。

 「包括的な歴史観」を持つことには、自分あるいは国として自信を持ち当事者意識を持つ、ということ(浜崎洋介は国家としての当事者意識とは最大の国家主権である憲法制定権と交戦権だという趣旨のことを述べている)p76。それを持たないということは、自分が誰かがわからず(当事者意識がもてず)、共同体として了解可能なメンバーではなく、バラバラな個人の権利のぶつかり合いのみが残ることになるp92。アイデンティティ・ポリティクス(ジェンダー、人種、性的指向、障害などなど)とはまさにそういうものではないだろうか?

 1990年代から2000年代に世の中を席巻したのは、新自由主義とグローバリズムだった。簡単に言えば国境をなくし(土地(=国土)の無効化)、貨幣と労働力の流通を容易にして経済効率を最大化しよう(=金儲け主義)という思想イデオロギーであるp89。2025年現在も世間で主流の考え方と言ってよい。だが1940年代、すでにカール・ポランニーは、土地労働力貨幣は本来お金に還元できるものではないと主張しているp89-p90。浜崎はそれを、労働力は人生の別名であり、土地は人を育む自然と文化の別名であり、貨幣は人と文化を包摂する国家の信用力の別名であり、お金に還元してしまえば、人生も文化も国家も壊れてしまうと説明しているp 90。まさに、現代日本で起こっていることではないか!!
 格差は広がり、中間共同体は解体され、お金という支えまで失いつつある庶民たち。「孤立し、浮遊し…心を荒廃させていく」p91。
 つまりは、行き詰まっているわけだ。

福田恆存の自然観:小林秀雄や吉本隆明との連続性

 では、その行き詰まりを乗り越えるものは何だろう?
 それは自然な流れを甦らせること。浜崎が本書で常に述べていることだ。
 ここでは福田恆存の言葉を紹介しているp94。

…ぼくたちは愛するためにはなんらかの方法によって自律性を獲得せねばならぬ。近代は個人それ自体のうちにそれを求め、そして失敗した。自律性はうちに求めるべきではない。個人の外部に宇宙の有機性そのもののうちに求められねばならなぬ。ぼくたちは有機体としての宇宙の自律性に参与することによって、みずからの自律性を獲得し他我を愛することができるであろう。愛は迂路をとらねばならぬ。それは直接に相手に向けられてはならぬ。

福田恆存「ロレンスの黙示録論について」、D・H・ロレンス著、福田恆存訳『黙示録論』ちくま学芸文庫所収、p24-p25
日本人の「断絶」を乗り越える p94より引用

 今だったら、「スピってる」とか言われそうだなぁ。どうだろ?
 直接相手に向けられた愛は、「愛して欲しい」エゴと見分けがつかない。あるいは「愛してあげる」という上から目線のエゴかもしれない。宇宙の自律性に参与するとは、「生かされている」ことに自覚的になるということだろう。何が欠けても完成しない、ありのままで完全な宇宙に私たちはすでに「参与」している(ここでいう参与とは、参加し関わり合っているということだろう)。その自覚。その時にうちから湧いてくるものが愛だ、と言っているのではないだろうか?(浜崎は全然別の説明をしている。気になる方はぜひ本書に直接当たってくださいませ)。
 あなたも自然=宇宙の一部、私も自然=宇宙の一部。その自然の中に自由=自律性がある。

そこに初めて、その同じ「自然」の一部である他者との交点が見出され、さらには、自分自身の「自然」、つまり「自由」が見出されるのです。

日本人の「断絶」を乗り越える p95

浜崎は続ける。

 そして、その「自然」は、もちろん、私たちが「どのような土地=文化の中に生まれ落ちたのか」「どのような言葉を使って他者とコミュニケーションをしているのか」「どのような文脈=歴史=宿命を担っているのか」といったことと無縁ではありません。それらを自覚し直すことで、私たちは私たちのなかに眠る「生命のリズム」を覚醒させ、私たちの共同性を自覚し直し、そこに、私たちの自由な「生き方」を、つまり伝統・文化を甦らせるのです。

日本人の「断絶」を乗り越える p95-p96

ここまでくれば、小林秀雄の<自然=伝統=直観>、吉本隆明の<自然=対幻想=大衆の原像>の思想との近さが自ずと見えてくるp96。
 福田恆存は小林秀雄が自分の「最後の弟子」と呼んだ人物なのであるp94。

おわりに

 いやいやいやいや。そうじゃなくて…ご興味を持った方はぜひ本書 『日本人の「断絶」を乗り越える』をお手に取ってくださいませ〜。


引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。
また、文言の間違い、表現のわかりやすさなど、随時訂正しています。ご了承ください。

おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために

ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。

本書と連動している動画

下記は同じく戦前戦中戦後の日本人の断絶を扱った動画。

著者 浜崎洋介は山本七平賞を受賞している

浜崎洋介の著作

江藤淳

 夏目漱石の本を詳細に読んで論文を書く。すごいなぁ。
思春期の頃、虞美人草が家にあって、なんか途中までしか読めなかった。主人公の女性の二股??男を天秤にかける様子とかが、心えぐられるようで読んでられなかった。私は非モテなので、そんな境遇になる心配はないんだけどね。思春期の頃の「不安だから何か確かなものにすがりたい、だけど結局、策に溺れ沈んでいく」というストーリーがなんか怖かった〜。

上野千鶴子が解説を書いているのが気に入らないけど💦(左翼に上書きされているような感じがなんかイヤなんす💦)。

柄谷行人

カール・ポランニー

 積読のままだ💦。


小林秀雄

デビュー作『様々なる意匠』は下記に収録されている。

映画

小林秀雄、中原中也、長谷川泰子の三角関係を描いたドラマ。

吉本隆明

「戦争と世代」が収められている。

晩年に吉本隆明が至った境地。

 共同幻想とか対幻想って、今でいえば創発とか、階層性とか言われるものについての言説ってこと??浜崎洋介は<共同幻想=イデオロギー>と言っているけど…。ま、無限通りの解釈があるってことで\(^^)/。

福田恆存


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