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イスラーム法は「厳格な戒律」なのか:シャリーアが守ろうとしているもの(前編)

AIによる要約

「厳格な戒律」という言葉で語られがちなイスラーム法を、シャリーアの目的論から読み直す試み。

巡礼や断食には確かに一定の厳しさがあるが、そこには喜び、浄化、連帯、赦しへの期待もある。イスラーム法は、人間を縛るだけの規範ではなく、信仰・生命・子孫・財産・理性という生の基盤を守ろうとする法体系として理解できる。

前編では、シャーティビーの法の目的論を手がかりに、5つのダルーリーヤート(必須事項)を確認し、シャリーアが現世と来世を貫く福利の実現を目指すものであることを論じる。


「厳格」とは

前回の投稿で、高校教科書の「論理国語」の「イスラム感覚」という教材を取り上げた[1]。その脚注にこうある。「イスラム教は、唯一神アッラーを信じ、コーランを聖典とする世界宗教。巡礼や断食など厳格な戒律を持つ」とある。イスラームに限らず、宗教の説明に言わば無自覚な枕詞になっているような「厳格な戒律」に違和感を覚える。厳格な戒律と規定されたとたんに切り捨てられてしまうものが大きすぎるからである。「厳格」が、「規律や道徳に厳しく不正や怠慢を許さないこと」[2]であるとするなら、なおさらである。
巡礼や断食には、たしかに一定の厳しさも困難も伴う。しかし、信者たちが、一生に一度、むしろ喜びに満たされて行なう巡礼にせよ、断食明けの食事で喜びを分かち合っている姿に「厳格な」という形容はそぐわない[3]。つまり、厳格さに囚われてしまうと、そこにある喜び、浄化、連帯、赦しへの期待がかすんでしまいかねないのだ。

「シャリーア」という法

この巡礼や断食は、決して伝統を踏襲する形で行われているのではない。それらは、すべて、聖典クルアーン、そして預言者ムハンマドの言行から直接あるいは解釈によって導き出されたルールに則る形で行われている。「厳格」ということで言えば、クルアーンの文言は、啓示によって降され、ほどなくまとめられた後には、約1400年間にわたって、厳格かつ厳密に守り続けられたものであり、信徒たちの生活を支え、導く規範群としてのイスラーム法(シャリーア・イスラ―ミーヤ)の、まさに不易不動の法源として現在に至るまで機能し続けている。
そこから導き出されるルールは、聖典がアッラーからの啓示であり、そのアッラーが、目に見えるものも見えないものも含め、この世もあの世も含めた創造主である以上、実に広範囲に及ぶ。その創造主による教えの射程には、好むと好まざるとにかかわらず、信者も、信じていない人々も含まれる。

法の目的論

つまり、イスラーム自体は、この世の全存在を創造主との関係の中で捉える教えである。その中でイスラーム法は、人間の信仰、身体、行為、生活関係を、創造主との関係において整える領域だと言える。しかもそれが、人間の側からの解釈によって発見される法という性質を有するものである以上、そこには、このルール群が全体として何を目指し、何を実現しようとしているのかを探究する余地が出てくる。いわゆる「シャリーアの目的(マカースィド・アッ=シャリーア مقاصد الشريعة)」の議論である。
シャリーアには、個々の規定のレベルでもまた全体においても了解可能な目的を有しているというのが、ムスリムの法学者たちの圧倒的な多数意見である。「シャリーアの持つ基本的な意図は、アッラーの下僕たちの福利(マスラハ المصلحة )の実現と、その福利の維持と(福利を妨げる)害悪の排除である」とか「イスラームのシャリーアが、その規定を法的義務負担者(つまり人間たち)の福利(マスラハ)の保持、彼らからの害悪の排除、彼らにとっての究極の善の実現を基礎に成立させていることは、いかなる研究者にとっても疑いの余地はない」などとされる[4]。

3つの福利

「福利(マスラハ)」[5]の何たるかについては、法の目的論の理論的完成者とされる14世紀のグラナダの法学者シャーティビーに詳しい。そこには3つの種類があるという[6]。
第1は、必須な目的、すなわち、必須事項としての「ダルーリーヤート(الضروريات)」。
第2は、必要な目的、すなわち、必要事項としての「ハージーヤート(الحاجيات)」。
第3は、望ましい目的、すなわち、改良事項としての「タフシーニーヤート(التحسينيات)」。
そして シャーティビーは、「立法者、すなわちアッラーは、立法によって来世および現世の福利の定立を意図しているのであり、それは、全体によらず、また部分にもよらず、さらに必須事項に属するものであれ、必要事項に属するものであれ、改良事項に属するものであれ、秩序に乱れの生じない状態でなければならない」としている。

5つのダルーリーヤート

シャーティビーは、「ダルーリーヤート」について、「来世および現世の福利の定立において必須のものである。もしそれが失われたとすれば、現世の福利は正しく(まっすぐに)進まず、腐敗と混沌と生活からの逃走が待っている。そして来世(の暮らし)においては、救済と平安の放棄であり、明白な喪失の報いである」と述べる。
そこには、 5つのダルーリーヤートがあるとされる。
宗教、生命、子孫、財産、そして理性の保持である[7]。ダルーリーヤートとしてあげられたこれら5つの事柄は、クルアーン、それもマッカ啓示に根拠づけることができる。つまりこれらの事柄は、シャリーアの普遍原則つまりクッリーヤートを構成する。個々についてシャーティビーは次のようにまとめている[8]。

宗教:

クルアーン、スンナ、そしてこの二つから引き出される教えによるイスラームへの呼びかけの基礎であり、マッカで下された最初の事柄であるとする。

生命:

《また、アッラーが神聖化された生命を、権利のため以外には殺害してはならない》(「家畜章」151節)。《(生き埋められていた女児が)どんな罪で殺されたのかと問われる時》(「包み隠す章」9節)。《彼は、あなたがたに禁じられるものを、明示されたではないか。だが、止むを得ない場合は別である》(「家畜章」119節)などのマッカ期の聖句から生命の保持が下されているのは明白である。

理性:

それを害する飲酒の禁止こそマディーナ期の啓示に見られるのみだが、全般的な形でマッカ啓示の中に言及されている。理性は、聴力視力などの諸器官と同様に生命の保持の核心にも属する。

子孫:

私通の禁止や、配偶者および右手の所有する者以外に対する貞操の保持の命令によってマッカ啓示に示されている。

財産:

マッカ啓示における不正(ズルム)、孤児の財産の着服、浪費(イスラーフ)(「高壁章」31節など)、過度(バグユ)、秤のごまかし、地上の害悪などの禁止を通じて示されている。

ダルーリーヤートの意義

シャーティビーによれば、来世および現世の福利は、上述の5つの事柄の保持に依拠するものであるという。この世の現世的な存在は、これら5つの上に成り立っており、それらが失われれば、この世にはいかなる存在(法的義務を課せられた者たちと法治、法秩序に関わる一切の事柄)も残らないという。同様に来世的な事柄についても、それなしには何も成立し得ない。
理性がなくなれば、(神に対する)敬虔さは排除されてしまう。(つまり理性こそが、神による法治の名宛人なのである)。
宗教の喪失は、(最後の審判)でもたらされるべき報いについての秩序の喪失である。生命の喪失すなわち、 法的義務負担者の喪失は、神に対する敬虔を行なう者の喪失である。
子孫の喪失は、世代交代の喪失である。財産の喪失は生活の喪失である。ここでの「財産」とは単に金銀や現金に限らず、所有権の対象として排他的に所有している経済的な財のことであるとしている[9]。

宗教とは

5つのダルーリーヤートは、一人ひとりの人間が生きていく際のまさに必須な5つのことである。これらの一つでも欠ければ、人間として生きていくことは難しいと言わざるを得ない。
「宗教」が必須のものとして、しかも5つのうちの第1に掲げられていることについては、違和感を持つ向きがあるかもしれない。少なくとも、人間が生きていくうえで、信じること、祈ること、そして善には善の、悪には悪の報いがあると待ち望むことの意味は、決して小さくない。それがあるからこそ、人間は新しい明日を生きていけるのだとすれば、必須事項の筆頭に置かざるを得ないのではないか。
この宗教も含め、必須事項の5つについてシャーティビーは、すべての共同体で守られていることだとも指摘している[10]。
そして、この5つを社会的基盤の必須要素だと考えれば、カラダーウィーが主張するように[11]、正義・同胞愛・連帯・自由・寛容が社会関係の基礎として浮かび上がる。

生活の基盤

このように、ダルーリーヤートの議論は、イスラームなりイスラーム法なりが、厳格な戒律でもって、人間を縛るだけの法ではなく、むしろ、信者たち、それ以外の者たちを問わず、人間の生を支える基盤を示し、また守ろうとする教えであり法体系であることがわかる。
法の目的論の論拠のひとつとして《われは只万有への慈悲として、あなたを遣わしただけである。》(「預言者章」107節)があげられる。すべての被造物、すべての人間たちに対する慈悲として、アッラーの御使いムハンマド(彼の上にアッラーの祈りと平安あれ)が使わされたのだ。そしてそのムハンマドを通じてくだされたのがクルアーンの啓示なのである。ムハンマドが最後の預言者である状況のなかで、人間たちがなすべきは、必ずしも伝統や慣習にこだわることではない。積極的な法発見(イジュティハード)[12]を通じて、まずは5つの必須事項の保持、実現を目的とし、アッラーの慈悲慈愛を少しずつでも温め、育て、広げていくこととは言えまいか。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。

なお、本稿は、今後「イスラーム法は何を守るのか――イスラーム法概論(仮)」として少しずつ展開していく試論の第1回でもある。
〈後編に続く〉

脚注

[1] 拙稿「砂漠は抽象的環境なのか:「論理国語」のイスラーム像を読み直す」
[2] 「厳格」デジタル大辞泉
[3] ラマダーン月の幸福感、達成感については、拙稿「サウムとは何か――ラマダーン月の断食をアラビア語から考える」参照のこと。
[4] 前者は、イラクの法学者、アブドゥルカリーム・ザイダーンの言葉、後者は、現在なお大きな影響力を持つイスラーム学者、ユースフ・カラダーウィーの言葉。
[5] 「マスラハ」の語義およびアラビア語3語根からの解析は、拙稿「国益最優先は唯一の選択肢か?」および「イスラーム法における核兵器禁止のロジック:シャーティビーの5つの必須事項とのかかわりで」を参照のこと。
[6] アブー・イスハーク・アッ=シャーティビー『アル=ムワーファカート』「法の目的の書」。
[7] シャーティビーの「法の目的の書」によれば、アル=カラーフィー(ヒジュラ暦684年/西暦1285年歿)は、この5つに6番目の要素を追加した。それは「尊厳(イルドゥ)の保持」である。「イルドゥ」とはわれわれの言い方によれば、名誉と名声のことである。したがって、シャリーアは虚証や誹謗・中傷等を禁じている。特に私通に関する虚証についてはハッド刑が定められている。一般的な虚証についてはタアジール刑である。
[8] シャーティビー『前掲』。
[9] シャーティビー『前掲』。
[10] シャーティビー『前掲』。
[11] カラダーウィー『イスラーム法学入門』。
[12] イジュティハードについては、拙著『イジュティハードの門: イジュティハードからみたシャリーアという法』(第1分冊)参照のこと。

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