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「砂漠は抽象的環境なのか」:「論理国語」のイスラーム像を読み直す

AIによる要約

高校「論理国語」の教材「イスラム感覚」に見られるイスラーム像を、アラビア文字、砂漠、クルアーン、イスラーム法の観点から読み直す論考。

教材では、アラビア文字や砂漠が抽象的なものとして語られ、イスラームも理念や厳格な戒律の宗教として描かれている。しかし、アラビア文字の背後には古いセム系文字文化に由来する具体物の記憶があり、砂漠にも水、星、ラクダ、足跡、光といった具体的な生命の徴がある。

誤解にもとづく美化は、誤解にもとづく蔑視と同じく、対象を遠ざける。イスラームを遠い他者として固定するのではなく、具体物、歴史、信仰実践、そして人々の現実に即して読み直す必要を論じる。


アラビア文字の世界

「イスラム感覚」と題された「論理国語」の教材を読む機会があった。高校生に提示される「イスラム」(以下、教材の記述から引用する場合には、鉤カッコ書き「イスラム」とし、それ以外は「イスラーム」とする)とは一体いかなるものなのか。興味津々で頁をめくった。
まずアラビア文字について、次の指摘が目に留まった。「アラビア語そのものの持つ形態もまた非常に抽象的だ」とし、さらに「「声」や「魂」あるいは「精神」を形象化したもののように見える」と述べる。声や魂や精神が先にあって、それらが文字として形を成したかのような説明である。
もちろん、具体的な語の中に用いられている、特定の文字と意味とのつながりから、文字の抽象的かつ象徴的な意味を文字ごとにまとめていく「文字学」の学的営為も存在する。しかし、その場合でも、精神や意味が文字それ自体を作り出したとするわけではない。
漢字を用いる言語を特別視することに慣れてしまうと、見落とされがちになってしまうかもしれないが、アラビア語は通常28個の文字で表記される[1]。ハムザを独立に数える場合には29個とされることもある。その一つ一つの文字には、背景をなす具体物が控えていることが少なくない。

アラビア文字の象形性

いくつか例を拾っておこう。「アリフ」は「牛」、「バー」は「家」、「ジーム」は「ラクダ」、「ダール」は「扉」、「アイン」は目、「カーフ」は「手のひら」、「ミーム」は「水」、「ヌーン」は「魚」、「ラー」は「頭」といった具体物に関係すると説明される[2]。現代アラビア語においても、「家」は「バイト」であり、ラクダは、「ジャマル」であり、頭は「ラアス」と言う。こうした例を見るだけでも、文字の背後に具体的な生活世界がうかがえる。
もちろん、アラビア文字が、漢字のような象形性をもって、これらの具象物をそのまま描いているという意味ではない。これらの対応は、現代アラビア語の語彙からそのまま直接的にわかるものばかりではない。むしろ、より古いセム系アルファベットの文字の名称に残る記憶として考えるべきである。それでも、文字の名前の系譜をたどれば、「物質から遊離した精神」ではなく、身体、家畜、家、水、魚といった具体的世界の痕跡を掬い取ることができるのである。

砂漠のラマダーン

たしかに、文字を「声」や「魂」や「精神」の形象として見ることは、美しい比喩かもしれない。しかし、比喩は歴史ではないし、論理的にも飛躍してしまう。現に、アラビア文字は、砂に描かれた風紋のような抽象形態として突然現れたのではなく、アラム文字、ナバテア文字、初期アラビア文字という具体的な文字史の中で形成されたと解されている[3]。
ところで、この教材は、アラビア文字の抽象性を砂漠の風景の中にも見出す。これほど「抽象的なものはない」ばかりか、「この風景の大半を形作る砂漠や半砂漠の中では生命という具象が乏しい」とまで言う。
ラマダーン月のリビア砂漠でサウムを行なったことがある。極限的に厳しい自然、どこまでも人間の活動を拒む灼熱の砂漠。その日は砂嵐の中での野営となったが、昨夜の飛びネズミの足跡はどこかに消し飛んでもいたし、早めに休んだ仲間は毛布にこんもりと降り積もった砂の中から起き出すことにもなっていた。

水・ラクダ・目

砂漠では生命という現象が乏しいのか?いや、逆に際立つのではないか。日没になってその日初めて喉を通す水。命をよみがえらせる水。ミームで始まる「マー」これ以上にたしかに体に沁みる水、具体的な水があろうか。
教材はさらに「砂漠には、この体で知るべき生命や自然の規範が乏しい」と断言するのだが、この体で知るべき生命や自然の規範が、むしろ一挙に押し寄せてくるとは言えないであろうか。ここで、なぜ教材は「規範」という言葉を使ったのか。規範というと、人々が社会の中で作り出すものと思わざるを得ないが、リビア砂漠が教えてくれているのは、人間の介在を許さない生命と自然の摂理そのものではなかったか。
砂漠では、ラクダ(ジャマル)を連ねるキャラバンたちが頼りにする星辰も、その動きを見逃すまいとする目(アイン)も、やがて迎える日の出も、朝の光も、すべては、具体的で、かつ象徴的なのだ。

アッラーの存在

教材は、日本の自然を「豊かなもの」ととらえて「世界的規模で眺めてみても、日本の自然の生命力は驚くほどのものである」としている。しかし、温暖湿潤気候の豊かさがすべての豊かさではない。それは、農耕民族にとっての豊かさであろうが、砂漠の民、遊牧民族にとっての豊かさを否定することはできないはずだ。
たしかに、「豊かさ」と呼ぶには厳しすぎるかもしれない。しかし、それも含めたうえでの豊かさだと考えれば、その豊かさの壮大さ、奥行きの深さがわかるはずだ。だからこそ、目の前に展開される、天と地、昼と夜、砂漠とオアシス、圧倒的な渇きと命をつなぐ一滴の水といったコントラストのきいた最大限の振幅の両端を包み込んでなお余りある存在が迫ってくるのだ。それが、万有の主たるアッラーなのであり、このアッラーこそ、イスラームの教えに生きる人々一人ひとりが向き合っている存在なのである。

「クルアーン」は「六法全書」か

そしてその創造主からのアラビア語によるメッセージが収められているのが、「コーラン」なのである(教材は「コーラン」と表記しているため、教材からの引用では「コーラン」とするが、それ以外は、アラビア語の発音に近い「クルアーン」とする)。たしかに「クルアーン」は、イスラーム世界にとってのすべてのルールの法の源とも位置付けられる[4]ので、六法全書的な意味合いはあるが、必ずしも啓示が即規範を形成するわけではない。そこには、人間による解釈が介在する。解釈によるクルアーン理解は、決してクルアーンそのものではない。したがって、六法全書的機能を有する宗教教典であるという説明は、すでにクルアーンそのものからは離れてしまっている。
さらに言えば、クルアーンが、「激しい怒りと数々の戒めによって人間とその生活を次々と律していく」としているが、アッラーへの言及なしに、激しい怒りと数々の戒めとしてしまうと、人間の恣意的な判断による規範と秩序が形成されていて、しかもそれが非常に厳しいものだという誤った先入観に結びつきかねない。

ステレオタイプに惑わされるな

これもまた知られていないことかもしれないが、イスラームの契約法は、契約自由を基本原則とするし、相続法は、一見男尊女卑の分配にも見えるが、家族あるいは共同体全体の財産保持の観点からみれば、実にきめの細かいルールが、これはクルアーンの啓示に従って用意されている。イスラーム法の目的論の立論に従えば、信仰と生命と理性と親子関係と財産の保持を徹頭徹尾、実現しようとするのがイスラーム法の一つのありようである[5]。
つまり、少なくとも、イスラーム法を「厳しい戒律の支配」とだけ説明するのは、あまりに一面的である。何しろ、アッラー自身が、寛大にしてよく御赦しになられる慈悲深き慈愛遍き御方なのである。
そしてそのアッラーが、主宰者を務めるとされるのが、最後の審判であり、来世の懲罰が始まるのはそれ以降のことなのであって、それまで信徒たちは、猶予の中で、何度も生き直しの機会を得ているとさえ言いうるのである。

高校生を見くびってはいけない

こうしてみると、教材の紹介した「イスラム」がある意味、詩的で個人的な印象に縁どられたものであることが確認できたように思う。文学作品としては一定の評価を受けてきたのであろうが、「論理国語」の教材として相応しいかどうかは別の話である。
たとえば、イスラーム的な論理では出発点でありかつ帰結点でもある「アッラー」の名前あるいは存在に言及することもなく、また歴史的事実やクルアーンという書の基本についても触れずに「イスラム」を「感覚」的に論じた教材の「論理性」は検討の余地がありそうだ。
アラビア文字の流麗さを説明する本文中に貼られている新聞記事は、「市民20名が死亡」と物々しい。アメリカ軍の空爆で20名の一般市民が犠牲になったことを伝えるというカブール発のアラビア語のニュースである。記事のアラビア文字のフォントは、流麗さとは無縁のタイムズ・ニュー・ローマン体である。少なくとも、見識を問われても仕方のない口絵である。

オリエンタリズム再来?

また、教材の終盤では、現代の日本に対して「外部に何らの規範がない」として、イスラムの民が理念や知恵によってその抽象的環境を克服したように、「ニッポン人もイスラム教徒的なるものに変質しなければならないときがやってくるのではないか」としている。日本国憲法はどこへ行ったのかが気になるが、抽象的環境という設定自体に無理がある以上、「理念や知恵によってそれを克服したイスラムの民」という図式も怪しくなる。
一見イスラームに対して好意的でありながら、実は、詩情の吐露に過ぎない文章が伝えた内容は、アッラーの存在からも、イスラームの教えの本筋からも、ムスリムたちの現実からも、残念ながら離れたものになってはいなかったか。
たとえ、そこに悪意はなかったとしても、誤解にもとづく美化は、誤解にもとづく蔑視と同じく、対象を遠ざける。

「論理国語」の将来

こうして、砂漠、文字、抽象化、遊牧、戒律、理念という語りが、個人的な印象と結びつけられながら積み重ねられることで、イスラームは理解可能な生活世界ではなく、遠く近寄りがたい他者として固定されてしまってはいないか。
「日本遊牧民族の行き先には、まだ濃い砂塵のとばりが立ち込めたままである」と教材は結ばれている。濃い砂塵の帳を取り除くために何をやらなければならないのかを身をもって示したということだったのであろうか。
砂漠の強いコントラストについては上に触れたが、「白か黒か」のコントラストの白にも黒にも段階的に色調があって、両者の境さえ実は曖昧であることを示せるのが、グラデーションの言語としての日本語である。アラビア語に感じられるデジタル的性質と日本語に感じられるアナログ的性質は、筆者の見たところ補完関係にある。こうした多言語間の接続も論理国語の主要なテーマになっていくのではなかろうか。分断と対立を乗り越えるため、「論理国語」もまた豊かであってほしいと願う。
アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。

脚注

[1] アラビア語の文字数は、通常28文字とされる。ただし、ハムザ(ء)を独[2] これらの対応は、現代アラビア語の語彙から直接説明されるものではなく、フェニキア文字・アラム文字などを含む古いセム系アルファベットの文字名に由来するとされる。現代アラビア文字の形が、それらの具体物を直接描いているという意味ではない。立した文字として数える場合には29文字とされることもある。
[3] 現在のアラビア文字は、一般にアラム文字系のナバテア文字を経て形成されたとされる。初期アラビア文字は、碑文資料などを通して4〜6世紀頃にその姿を確認できる。
[4] イスラーム法において、クルアーンは第一の法源とされる。ただし、具体的な法規範は、ハディース、イジュマー、キヤース、法学派の解釈などを通して形成されてきた。したがって、クルアーンそのものと、クルアーン解釈にもとづく法規範とは区別して考える必要がある。
[5] イスラーム法の目的論(maqāṣid al-sharīʿa)では、信仰、生命、理性、子孫・親子関係、財産の保護が主要な目的として論じられることが多い。

参考文献

藤原新也「イスラム感覚」、『僕のいた場所』所収、集英社、1998年。引用は、『❘探求❘論理国語』(文部科学省検定済教科書高等学校国語科)(212桐原論国713)桐原書店、所収本文による。

Special Thanks to: ChatGPT

Cover Image:

イフタールテーブルの朝(リビア砂漠) 2008年9月著者撮影。


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