サウムとは何か――ラマダーン月の断食をアラビア語から考える
もっとも優れた人種
人類はこれまで人種間に優劣をつけ、そしていまだに差別を正当化してはいないだろうか。だが、本当に優劣はあるのだろうか。分子人類学の知見[1]によれば、人種間の差異よりも人種内の差異の方がはるかに大きいのだという。たとえば、身長。筆者は172センチだが、20センチ大きい人も、20センチ低い人もそれなりの数がいる。このように同一人種内では、40~50センチの差異があったとしても、人種間に均してみれば、せいぜい10センチ内外の差に収まるという。つまり、人種間の差というのは、思われているほど大きくない。文化についても、同様で、絵を描きたい衝動が、縄文文化では、土器の表面に展開されたが、弥生文化以降は、それがより記号化され文字となり、紙の上に描かれたとしても、何かを「描いてしまう」ことでは共通している。宗教の実践を考えるうえでも鍵となる共通性へのまなざしの前提には、遺伝子レベルで見れば、人種間あるいは文化・文明間の優劣は存在しないという大前提がある。
ラマダーン月の断食
さて、今年も、2月18日の日没から、イスラーム暦では、その第9月、ラマダーンに入った。ラマダーン月はしばしば「断食月」として紹介されるため、イスラーム教徒は断食をしているのだということをご存知の方も少なくないと思うが、単に夜明け前から日没まで飲食を断つ一カ月とだけ理解してしまうと、どうも、特殊性ばかりが際立ってしまう。ある一定期間の断食の習慣は、たとえばキリスト教においても、あるいは仏教においても、確認できるが、現代の日本の生活習慣からすると、かなり奇異な行為であり、実際に、これを行なってみた時の周囲の反応を見れば、その非日常性に改めて気づかされる。
果たして、この行為は信仰を超えた共通性につながることできるのか。「断食」という訳語が当てられる「サウム」の原義から考えてみたい。
「サウム」とは
『リサーヌ・ル・アラブ』によれば、「サウム」とは、「食べ物・飲み物・性交・言葉を放棄すること」である。飲食や男女の交わりにとどまらず、言葉の放棄もまた、そこに含まれる。言語的には、「何かを控えること、放棄すること」であり、言葉、つまり、罵詈雑言、誹謗中傷、悪口陰口、反攻憤怒の類もまた慎まれる。要は、言い争いは喧嘩と言ったこともまた控えられるということである。
さらに、この語の含意は、「抑制(إمساك)」、「放棄(ترك)」、「立つこと(قيام)」、「静止(ركود)」、「均衡(اعتدال)」といった広がりを有すると言う[2]。
「飲食性交を断ち言葉を慎む」という消極性は、「立って何もしない」という姿勢に貫かれている。アラビア語で「立つ」といえば「カーマ」である[3]。この語が単に「立ち上がる」だけでなく「礼拝に立つこと」あるいは「来世での復活」も意味する。ところが「立つ」とは言っても「放棄」を基調とするサウムでは、積極的に能動的に何かすることは求められない。こう考えると、「サウム」はイスラームの信仰行為の中では、礼拝などとは異なり、アプローチしやすい行為ではないかと思われる。
サウムというゲーム
実際にこれを行なう際には、ここでも、意思の表明が必須となる。「サウムを行ないますという有声あるいは無声の誓言」によって、サウムは始まる。この宣言は、1カ月の開始日にまとめて行うこともできれば、日々更新することもできる。
こうして、決めたこと、つまり「未明から日没までは、食べない、飲まない、性交しない、喧嘩しない」をルールとし、それをやり遂げようとするゲーム[4]が始まる。
これはまた、空腹感、欠乏感をあえて作って、それに耐え続けるゲームでもある。
空腹感やひもじさに、無縁の人はいない。もちろんその感じやすさに多少の個体差はあるかもしれないが、それでも、食べなければ誰でもお腹はすく。この空腹という状態そのものは、人種、民族の違いを超えるものであろうし、持つ者か持たざる者か、あるいは、権力者か庶民か、さらには、信仰や信条も選びはしない。このようにサウムは、82億人が共有しうる感覚に根差しているゲームとも言える。
日没だ!
さて、本日も、無事に日没が迎えられた。ゲームオーバー。つまり、無事に、飲まず、食わず、交わらず、争わずで日中を過ごしきることができた。アルハムドゥリッラー。決めたことを無事成し遂げられた達成感、安堵感。そして何よりそれを感じられる自分自身の存在の実感。
そして、断食明けの飲食へ。これが、本当にやたらにおいしい。代表的な食べ物、たとえば、デーツ。口の中いっぱいに広がる濃厚な甘さが体全体に沁みていく。あるいは一杯の白湯であったとしても、まさに五臓六腑に沁みわたるとはこのことよという感覚が実感できる。生きていけている自分自身の確認だ。
ものすごい満足感と、こうして食べられていること、あるいは飲めていることに対する感謝。行き過ぎた飽食や摂食の果てに、見失っている自分自身を取り戻すことにさえつながりうる。
達成感、幸福感
こうして、ゲームのクリアは、自分自身の中で完結する。他人との比較で速さやポイントを競うようなゲームではないからだ。たとえ、クリアに失敗したとしても、その失敗もまた内面で完結する。翌日に再挑戦すればよい。つまり、サウムは誰も負けることのない、敗者のいないゲームなのである。
自分自身の中で完結するとはいえ、これだけの悦びに浴することができるのである。これをもしも誰かと行なったのであれば、その喜びは、何倍にも膨らむ。そして互いの成功を讃え合って、その幸せを一緒にいる人々すべてと手放しで共有できる。
さらに言えば、たとえ一人のサウムでも、ラマダーン月は、全世界20億人のムスリムたちにとっての断食月。20億人の同志がいると思ったときどれほど、心強いか。一人じゃない。最強のサポーターたちがついている。
イフタールの陥穽
幸せ気分も最高潮だが、あえて現代のイフタールについて、懸念を述べておこうと思う。果たして、「均衡」は保たれているのかと。
アッラーの預言者ムハンマド(彼の上にアッラーの祈りと平安あれ)は、少量で満足したとされるが、イフタールの豪華な食事はどうだろうかと。
日没と同時に、過剰な油脂、過剰な糖分を過剰な量の食事とともに、一気に流し込む。均衡は破られ反動状態になってはいないか。
デーツの一粒、白湯の一杯の余韻を過食と刺激と飽和で打ち消してはいないか。そこにあるのは、ある種の酩酊状態[5]。サウムの夜がサウムを破壊していく。
たしかに空腹は他人を選ばない。その意味で、サウムの実践は、理論的に82億人に開かれていることにはなる。
しかし、イフタールが、高級料理の饗宴となり、豪奢さの誇示の舞台となり、消費の祝祭と化したのならば、空腹の水平線は、幻と消え、再び階層化の波に飲み込まれる。
自らの意志で、あえて欠乏を選択し、サウムの完結を通じて、自己を実現し、自分自身を取り戻す、このレジリエンスもまた危機に瀕する。身体を壊すほどの暴食、翌日の倦怠、血糖値の乱高下に晒され続けるからである。ここでも自己肯定感は酩酊感にすり替わりかねない。
「敬虔さによる以外は」とは
ラマダーンと言うと、イフタールの豪華な食事、豪華なとはいかなくとも大量の食事を貪り食らうイメージがあるかもしれない。しかしそれは、誰も負けないゲームとしての、そして均衡の実践としての、さらに自分自身の回復としてのサウムを破壊しかねない危険を伴うものでもある。
ムハンマドは、『…アラブが非アラブより優れているとは言えないし、非アラブがアラブより優れているとも言えないのではないか。また肌の黒い者は、赤い者より優れているとは言えないし、赤い者が黒い者より優れているとも言えないではないか。アッラーに対する敬虔さによる以外は』と言ったと伝えられる[6]。
敬虔さのことを、積極的で能動的で、かつ人目に付くような慈善的活動の実践であるかのように、とらえる向きもある。しかし、ラマダーンの「何もせずに立ち続ける」ことが、日々反動的に負にリセットされるのではなく、82億人の安寧に向けて、イフタールにおいてもなお節制的に積み増していくというような、そんな心掛けによる義務の実践のことなのかもしれない。
まずは、空腹を避けようとどうしても食べすぎてしまう自分自身のイフタールをさらに整えることから始めたい。奇異を脱却し82億人の中の一人でも多くの方の共鳴をいただくのには、まだ時間がかかるのかもしれない。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] 「篠田謙一(前編)古代DNA 私たちは何者か?」(NHKアカデミア)
[2] 「صوم」『アルアマーニー』(アラビア語アラビア語オンライン辞書)
[3] 「カーマ(立ち上がる)」については、拙稿「アッラーは本当に「神は人間をもっとも美しい姿に創造した」とおっしゃったのか?」『オリーブの息吹:《聖典クルアーン》「無花果章をめぐって』アッサラーム文庫、kindle出版、2026年1月「補章」を参照のこと。
[4] ヴィトゲンシュタインのゲーム論(ルールと勝敗)によるイスラーム法の法的性格の抽出は、奥田敦「イスラームにおける宗教的義務の「法」的性質」『KEIO SFC JOURNAL』第1巻第1号、2002年6月、8-32頁。
[5] 拙稿「砂糖と酩酊状態:「推し活」民主主義の危うさの正体」参照。
[6] 全文は以下の通り
『人々よあなたがたの主は一つで、あなたがたの祖先も一つではないのか。アラブが非アラブより優れているとは言えないし、非アラブがアラブより優れているとも言えないのではないか。また肌の黒い者は、赤い者より優れているとは言えないし、赤い者が黒い者より優れているとも言えないではないか。アッラーに対する敬虔さによる以外は』(タバリーによる伝承、ズハイリー『タフシール・ムニール』36巻270頁。
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わが家のイフタール By raasiel - https://www.flickr.com/photos/rassiel/6068559027/, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38866964https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38866964
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