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《前編》ムクドリ の目覚め  【小説】                                                                             

「ほら、この お面を被れば、あんたの その必死な顔も隠せるぜ!」


――前略、太宰 治 様。時代は、ずいぶん変わりました。ただ、人はまだ、お面を外せずにいます。
       

       from   唯月




 世界20カ国以上へ向けた衛星中継のランプが、赤く、規則正しく点滅している。


 赤、消灯、赤。まるで命を刻んでいるようにみえた。


 コンクリートの壁を通して、会場を埋め尽くす数万人の息遣いが、生きた波動となって舞台裏まで伝わってくる。


 胸の奥が、無数の鼓動に共振するようにざわつく。


 床が微かに揺れている。それは気のせいではない。


 巨大なホール全体が、熱を帯びた多数の人間によって、文字通り呼吸しているのだ。


「芹川さん、そろそろです……調子は、どうですか」


 マネージャーの声は、普段より一音低い。緊張を隠そうとして、かえって掠れている。


 喉の奥で何かが引っかかっているのが、はっきりと聞こえた。


 唯月は返事をしなかった。


 黒いドレスに身を包み、姿見の前に立っている。


 鏡の中の女は、整った骨格を保ちながらも、皮膚に深い溝を刻んでいた。


 ステージの照明に耐えるために厚く塗られたファンデーションが、表情の線をすべて塗りつぶしている。


 それは化粧というより、感情を封印するための仮面だった。


 左手に、名器を抱えている。


 長年の鍛錬に耐えぬいた指が、その古びたバイオリンの木肌に触れていた。


 指先がわずかに震える。


 それは緊張ではなかった。


 もっと深く、古い何かが、指の骨の芯を揺さぶっている。


 モニター画面では、自分の名前が、まばらにコールされていた。


 客席の熱気が、画面越しにさえ生々しく映る。


 赤く光るカメラのランプ。


 息を殺したオーケストラの影。


 そして、暗闇の向こうに広がる、無数の白い顔の海。


 唯月は舞台袖へと歩き出した。


 通路の隅、スポットライトの光が届かない暗がりで、足が止まった。


 視界が、突然、歪む。


 熱いものが目尻から溢れ、化粧を溶かしながら頬を伝って落ちた。


 一滴、また一滴と、冷たい床に小さな染みを作る。


 ファンデーションと涙が混じり、指先にぬるりとした感触が残る。


「……芹川さん?」


 スタッフが息を呑んで駆け寄る。声が上ずっている。


「大丈夫か、おい……!」


 唯月は震える指で涙を拭った。


 そして、フッと、口元が緩んだ。


 それは勝利の笑みでも、安堵でもなかった。


 満ち足りた、どこか狂おしい充足感が、そこにはあった。


(あんなに深かった海は、今は私の一部になっている)


 開演のブザーが、鋭く鳴り響いた。


 数十のスポットライトが、一斉に舞台袖の唯月を捉える。


 光が肌を焼き、黒いドレスの生地を白く飛ばす。


 広大な客席から、厳粛なざわめきが波のように広がった。


 それが、すぐに割れんばかりの拍手へと変わる。


 熱気が、物理的な圧力となって押し寄せてくる。


 耳が詰まり、視界の端が白く溶ける。


 唯月は、その熱狂の中を、穏やかな笑みを浮かべて歩き出した。


 一歩、また一歩。


 足裏にステージの床の感触を確かめるように、ゆっくりと踏みしめる。


 木の温もりと、無数の足音が染み込んだ微かな軋み。


 背後で、何十もの弦楽器と管楽器が、息を殺して出番を待っている。


 弓が弦に触れる直前の緊張が、空間全体を張り詰めさせている。


 ステージの中央に立った。


 視線は、スポットライトの向こう側、客席の遥か向こうを見据えている。


 熱気も、無数の視線も、唯月には見えていない。


 見えているのは、恋に似た熱を持って世界を震撼させた、

 あの「ムクドリの旋律」が生まれる、ずっと前の景色だった。


 時は、立ち止まることを許さない。


 どれほど鮮烈な記憶も、昨日の出来事のように胸を締めつける思い出も、

 容赦なく過去という流れの奥へ消し去ってしまう。


 それでも、消えない景色がある。


 油の匂いが染み付いた、狭い定食屋のカウンター。湯気と、安価な揚げ物の音。


 そこから、すべてが始まった気がする――。 


 そうだ。あの頃、世界はまだ淡く、空はもっと無邪気だった。 



◆◆◆



 定食屋の換気扇が、遠くの潮騒のように低く唸っている。

 油と使い込まれた木の匂いが染み付いたその店は、唯月(いつき)が学生時代から通い詰めている馴染みの場所だった。


 卒業して就職し、会社からは少し距離ができた今でも、こうして足を運ぶことがあった。


​ 湯気が立ち上る定食を前に、唯月は割り箸を割る手を止め、独り言のように漏らした。


​「……おやじさん、最近ね、毎日、海の夢を見るんですよ」


​「おや、海ですか。夏先取りでいいじゃないですか」

 主人は濡れた布巾でまな板を拭きながら、ふと動きを止めた。


​ そして、常連への親愛を込めるように、柔らかい笑みを浮かべて尋ねた。

「そういえば、お姉ちゃん。すっかり久しぶりじゃないですか。……ヴァイオリンの方はどうした?

 学生の頃は、プロを目指すくらい相当いいところまでいってたんだろう?」

 その言葉に、店内の空気が微かに凍りついた。

 唯月はコップの水の表面を見つめたまま、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。

 ――音楽の道なんて、とうの昔に諦めた。


 日々の忙しさと終わらない満員電車の生活にすり潰されて、今や楽器ケースを開く気力すらない。

 胸の奥をチクリと刺すような痛みを隠すように、唯月は少し上気した顔でコップから顔を上げ、

 別の話題でそれをかき消すように身を乗り出した。

「違うの、そんな話はいいの。

 ……それより、おやじさん。聞いてよ。

 私、本当はカナヅチでしょ?

 なのに、夢の中では、ものすごく上手に泳げてるの。

 それが……なんだか、たまらなく楽しいのよ……」

 主人が意外そうに手を止める。

 唯月の瞳には、定食屋のカウンターではなく、陽光を反射してきらめく獰猛な海面が映っていた。


​「必死よ。腕はちぎれそうなほど重い。 

 でも、その波を自分の手で割り、水を掴んで後ろへ押し出すたびに、

『私、今、生きてる!』って、身体の芯から震えるような喜びが込み上げるの」

 水着なんていらない。皮膚一枚で、海の重さと冷たさを全部受け止めて泳ぎ続ける。


 その瞬間だけは、彼女は何からも自由で、満たされていた。


​「だからね、目が覚めるのがもったいないくらい。

 朝が来て、重い身体で満員電車に乗る瞬間が、本当の『カナヅチ』に戻る時みたいで……。

 最近は、現実の方がよっぽど息苦しくてさ」

 唯月の手のひらには、夢の中で掴んでいた確かな「水の重み」が、現実の余韻となってまだ残っていた。

「でもね、おやじさん。昨日の夜は、少し違ってたんだぁ」

 唯月は、手のひらでコップを包み込み、声を潜めた。

「逃げ場も、休む場所もない、見渡すかぎり果てのない海原。

 でも昨日は、ふと顔を上げたとき……遠くの波間に、ぽっかりと光が溜まっている場所が見えたの。

 真っ白な、小さな砂浜が」

 ​彼女は、定食屋のすり減ったカウンターを指先でそっとなぞる。

「まだ辿り着いてはいないわ。だけど、必死で波を割って、あの白い岸辺へ行かなきゃならないって……なぜかそう強く思ったのよ」

 唯月は顔を上げ、定食屋の主人を真っ直ぐに見つめた。


 その眼差しは、もう『会社の昼休みの OL 』のものではなかった。

「おやじさん。あの海の向こうには、きっと何かがある。

 私は明日も、あそこへ行かなきゃならないの……」



​◇◇◇



 腕を回す。指先が、ずっしりと重い水の壁を切り裂く。


 右、左。交互に繰り出す彼女のストロークは、自分でも驚くほど力強く、正確だ。


 現実の私が金槌(カナヅチ)だなんて、今のこの自分を見たら誰も信じないだろう。

 水はどこまでも青く、そして黒い。


 太陽の光がカーテンの隙間から漏れるように海中へ差し込んでいる。


 それは彼女を捕らえて離さない檻の格子のようにも見えた。

(ああ、気持ちいい……。もっと、もっと遠くへ)

 肺に溜まった空気を吐き出し、泡が頬を撫でて昇っていく。


 重力が消え、ただ「進む」という意志だけが彼女の身体を突き動かしていた。

 けれど、ふと彼女の意識が海底に向いてしまった瞬間。


​ ……この下には、何があるんだろう。


​ 泳ぎをやめたわけではない。けれど、一度その深淵に触れてしまった瞬間、景色が一変した。


 私の真下には、何か得体の知れない暗闇が広がっている。


 そこには足を置くべき底も、もしかしたら果てすら、存在しないように感じられた。


 私は今、ただの浮力という頼りない奇跡だけで、この「死の淵」の上を泳いでいるに過ぎないのだ。

(底がない) 途端に、身体中の筋肉がこわばる。


 今まで彼女を抱きかかえてくれていた水が、急に手のひらを返したように、

 無数の冷たい指となって足首に、腕に絡みついてくる。

「はっ、……っ!」

 呼吸が危うくなる。


 それでも彼女は、さらに深く、獰猛に水を掻いた。


​ 早まる心臓の音が、耳の奥でうるさく響く、うまく息ができない。

 

 塩辛い水が喉に詰まり、何度も噎せかえる。


 浮力を失い沈んで行きそうな気がした。


 その時、揺れる波の彼方に、一筋の「白」が浮かびあがった。

 目を凝らす。


 波飛沫の向こう、小さな、けれど確かな輝きを放つ砂浜が見えた。


 白く光る砂の帯。


 そこには確かな、足をつけることのできる「大地」がある。

「……あ」

 その瞬間、魔法のように全身の強張りが解けていった。


 腕が軽い。


 水はもう彼女を飲み込もうとはしなかった。


 唯月を目的地へと運んでくれる、頼もしい伴奏者になった。


 ひとかき、ひとかき。指先が水を捉えるたびに、あの白い輝きが近づいてくる。


 肺に吸い込む空気までが、甘く、清々しく感じられた。

(あそこへ着けば、大丈夫)

 もう、下を見ることはしなかった。


 ただひたすらに、あの白銀の岸辺を目指して、筋肉を躍動させる。


 波を割り、風を切り、唯月は白い光の中へと溶け込んでいく。


 やがて砂浜に足を踏み入れた。


 唯月は、身体の「軽さ」に目を見開いた。


 さっきまでの海の重圧は消え、足の裏には、細かな砂の感触。


 ​ここは、ひどく寂しい場所だ。


 砂浜を吹き抜ける風が、唯月の火照った素肌を、心地よく冷ましていった。


 その静寂に、さっきまでの激しい鼓動は収まり、しだいに呼吸は整っていく。


 どこからともなく一羽の鳥が空を掠め、深い緑の木々の茂みへと吸い込まれるように飛んでいった。

 その黒い影を目にしたとき、唯月はなぜか、胸の奥が締め付けられるような懐かしさを覚えた。

 あれは ―― 確か、ムクドリという鳥だったような気がする。

 鳥に詳しいわけではない。


 だが、ふと頭に浮かんだその名前は、どこか遠い記憶の底から響いてくるようだった。


 この心地良い風は、ムクドリの飛び去って行った、森の奥から吹き抜けているようだった。


 耳を澄ませると、いくつもの微かな『囁き声』が、その風に乗って響きあっていた。


 耳をくすぐるその軽やかな『ざわめき』は、言葉というより無数の概念の響き合いのようだった。


(やっぱり、この先には何かがある)


 その心地よい気配に、根拠の無い、予感は高まっていった。


 ​唯月は迷うことなく、砂浜の奥、深く濃い緑を湛えた木々の茂みへと歩き出した。


 期待に、足は早まる。


 いつの間にか、白いコットンのワンピースを纏っていた。


 その裾がシダの葉を揺らし、露を吸って重くなる。


 足元には少し窮屈なスニーカー。


 ​やがて視界が開け、湿っぽい森を歩いていたはずの足音は、いつの間にか乾いた靴音に変わっていた。


 ​アスファルトの舗装路だった。


 空気の密度が少し濃くなった気がした。


 遠くの方から、腹の底を震わせるような太鼓の音が、湿った夜気を切り裂き届いてくる。


​「……あ、お祭り」


​ 賑やかな囃子太鼓の音が響き渡り、

 目前の暗闇の中から、幻想的な灯りが浮かび上がってきた。


 家々の軒先には、手書きの文字が躍る古い提灯が下がり、

 その幻想的な光の下を、浴衣を着た小さな子供たちが走り抜けていった。


「待ちなさいってば!」「置いてっちゃうよ!」


 子どもを叱る親たちの声も、どこか弾んで聞こえた。

「あら、お孫さん? 大きくなったわねぇ」


「いやだ、もう。中学生ですよ。早いもんですね」

 そんな、なんてことのない地元の会話が耳を掠める。


 誰もが知っている顔で、誰もがこの場所に根を張って生きている。


 そんな安心感が伝わってきた。


 けれど、カナヅチのまま海を泳いできた唯月にとって、

 そんな『当たり前の幸せ』は、眩しすぎて少し胸が痛むものだった。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」

 不意に、ワンピースの裾を引かれた。


 振り返ると、お面を斜めに被った子供が、真っ赤なリンゴ飴を掲げて笑っている。


 その子が指を差した先は、明るい出店が並ぶ通りではなく、

 さらにその奥……闇に溶け込むような、急峻な石段だった。

「お祭りの日にはね、みんなあそこを登っていくんだよ。

 上まで行けば、もっとすごいものが見えるから」


 ​子供の声は、祭り囃子の音にかき消されそうなほど小さかったけれど、唯月の耳にははっきりと届いた。


 さっきから、ずっと耳をくすぐる「心地よいざわめき」の正体。


 それは、あの石段の先にある、もっと高い場所から涼やかな風に乗って降りてきている気がした。


 ​唯月は、賑わう人混みに背を向け、暗い石段へと一歩を踏み出した。


 石段の一段目に足をかけた、その瞬間だった。


​「おや、あんた、どこへ行くんだい!」

 太鼓の音と笛の音、それに混じって、陽気で太い声が飛んできた。


 振り返ると、階段の脇にある広場で、

 揃いの法被を着た男たちが、顔を赤くして酒を酌み交わしていた。


 彼らの周りには、おしろいを厚く塗った女たちや、笑い転げる子供たちが渦巻いている。


 夢の中の、どこか現実味のない、だけど艷やかで鮮やかな「生の匂い」がそこにはあった。

「こっちは今からが面白いんだ。酒も、魚も、山ほどあるぞ。あんたもこっちへ来いよ」


 一人の男が、酔った足取りでこちらへ寄ってくる。

 その手には、溢れんばかりの赤い酒が入った大きな盃。


「あんた、ずいぶん酷い顔をしてる。そんなに必死に、どこを目指してるんだ?」

 男の背後で、女たちが「どこへ行くんだい」「どこへ行くんだい」と、歌うような合唱を始める。


 それは親切な誘いのようでもあり、足元を掬う呪文のようにも聞こえた。

「私は……」


 唯月は、石段を握りしめるように踏みしめた。


「……この丘の先に、何があるか見に行きたいの」

「丘の先?」


 男は可笑しそうに鼻で笑った。


「あっちには、何もありゃしないよ。

 ただの空と、ただの崖っぷちだ。

 太宰の旦那だってそう言った。

 そんな不確かな場所を目指すより、ここで俺たちと踊ってりゃあいいんだ。

 ほら、お面を貸してやる。

 それを被れば、あんたのその『必死な顔』も隠せるぜ」

 男が差し出してきたのは、真っ白な、無表情な狐のお面だった。


 一瞬、心が揺れる。


 ここでこの面を被り、この狂乱の中に紛れ込めば、あの底なしの海の恐怖も、

明日から始まる息苦しい現実も、全部笑い飛ばしてしまえるかもしれない。


​「……いいえ」


 唯月は短く答えた。


「何もないなら、それを自分の目で見に行かなきゃいけないの。

 お面で隠してちゃ、本当の景色は見えないわ」

 男の笑いが、ふっと消える。


 周囲の喧騒が、急に遠ざかる。

「……勝手にしな。お前さん、戻ってこられなくなっても知らないよ」


​ その言葉を背中で受けながら、唯月は迷わず二段目、三段目へと足を運んだ。


 一歩、また一歩。


 石段の角が膝に当たって、生々しい痛みが走る。


 ふいに、吹き戻す風に乗って下界の喧騒が耳をかすめた。


 笑い声、笛の音、誰かが焼いている魚の香ばしい匂い。


(……あっちにいれば、楽だったのかな)


 一瞬、思考が弱気に染まる。


 お面を被って、ただあの狂乱に身を任せていれば、こんな孤独な痛みなんて知らずに済んだはずだ。


 あそこには「仲間」がいて、「居場所」があった。


 不意に、


 足元をかすめるように、十羽ほどのムクドリの群れがパタパタと足元から、頭上の暗がりへと駆け上がるように飛び立った。


 その黒い影の波に背中を押されるように、唯月はふっと息を吹き返し、もう一度前を向いた。

 唯月は首を振った。


 一度でもあの「底なしの海」を泳ぎきった私が、今さらお面を被って偽りの岸辺で踊れるはずがない。

 血の混じった呼吸を吐き出し、前を見上げる。


 そこには、石段を塞ぐようにして立つ、二、三人の男たちの影があった。

 

 彼らは法被を着ているわけでも、お面を被っているわけでもない。

 ただ、無機質な、壁のような威圧感を持ってそこにいた。

「おい。ここから先はだめだ」


 真ん中に立つ男が、低く、事務的な声で言った。


「ここは、お前のような者が来る場所じゃない。お祭りは下でやってる。戻りな」

 遮られた。


 肉体の限界を超えて、ようやく辿り着きそうな頂を目前にして、彼らは「禁止」を突きつける。

 

「……どうして」


 掠れた声で、唯月は問い返す。


「どうして、行っちゃいけないの。何もないなら、見てもいいはずでしょう」


​「何もないからこそ、行かせられないんだよ」


 男の一人が、少しだけ憐れむような目で彼女を見た。


「あそこにあるのは、救いじゃない。

 ただの、剥き出しの終わりだ。

 お前、まだ生きていたいんだろう?

 だったら、その『必死な顔』のまま、下へ降りるんだな」

 男たちの足元には、境界線のように一本の細い縄が張られている。


 それを跨げば、もう「人間の世界」の理 ( ことわり ) は通じないのだと、唯月の直感は告げていた。


 だが、唯月は……。


 男たちの制止を振り切り、禁じられた縄を強く跨ぎ越した。

 その瞬間だった。


​ 力んだ足先が濡れた石の角を滑った。


​「あっっ……!」


 グキリ、と嫌な音を立てて右足首が歪む。


 ​関節の奥を力任せに打ち砕かれたような激痛が走り、唯月はその場に激しく膝をついた。


 ​息が詰まり、視界が真っ赤に染まる。

 背後を振り返る余裕なんてない。


 追いかけてくる気配がないことが、かえって不気味な静寂となって背中に張り付いた。


 ​痛む足首を庇い、石段に両手をついて這い上がる。


 爪の間に泥が入り込み、膝は擦り切れて血が滲んでいた。

 一歩、また一歩。

 右足を踏み出すたびに、激痛が稲妻となって背筋を駆け上がる。


 けれど、その生々しい痛みこそが、自分が今「生きている」事への証のように思えた。


 ​――死んだ猫の、冷たくなっていく柔らかな毛並み。


 ――小学校の校庭で、砂埃を吸い込みながら笑い転げた放課後。


 ――職場で上司に罵倒され、自分の存在価値が砂のように崩れ落ちたあの夜。


 ​様々な記憶の断片が混ざり合い、浮かんでは消えていった。


 ​そして、暗い部屋の隅で、何時間も、何日もヴァイオリンの弓をひたすら動かした日々。


 ​指先の皮が剥け、筋肉が悲鳴を上げても、頭の中で鳴り響く美しい旋律を形にしようともがいたあの時間。


 ただ音と一体になり、音楽を奏でることが心の底から楽しかった――あの純粋な輝き。

 悲しみも、喜びも、屈辱も。そして今、右足を苛むこの酷い激痛すらも。


 痛みに耐えかねて何度も顔が歪むたび、唯月はその表情を隠そうともしなかった。


 ​今まで「重荷」だと思っていた人生の断片が、今は私を押し上げる熱いエンジンになる。


 この痛みがあるから、私は私としてここに立っている。


 お面なんて被らなくてよかった。


 剥き出しの、この「必死な顔」こそが、私をここまで運んできたんだ。


 そして、壊れた足を引きずるようにして、最後の一段を踏み抜いた。


 ​視界が、爆発するように開ける。

「……え?」

 息を切らし、肩を激しく上下させながら、唯月は顔を上げた。

 そこには、太宰の言った「何もない」景色なんてなかった。

 彼女の目に飛び込んできたのは、どこにでもある、ありふれた町並みだった。

 それは、唯月が普段住んでいる場所とは明らかに違う。

 けれど、いつか記憶の中で見たような、奇妙なほどに見慣れた風景でもあった。


 唯月は、痛む右足をかばいながら、何かに吸い寄せられるようにその通りを歩いていった。


 右足に体重がかかるたび、顔が苦痛に引きつる。


 周囲の穏やかな空気とは裏腹に、彼女だけが生々しい痛みを引きずっていた。


 ​ふと気になって後ろを振り返ってみたが、

 さっきまで登ってきたはずの石段は、もうどこにも見当たらなかった。


 心は不思議なほど穏やかで、ただ心地よさだけが満ちている。


 この街並みは、唯月の乾きを癒すように、優しく彼女を包み込んでいた。

 季節は春。頬を撫でるそよ風は、どこまでも心地よかった。

 

 空は突き抜けるように青く、透明で、柔らかな日差しを街全体に投げかけていた。

 唯月が歩く歩道の横を、車がひっきりなしに通り過ぎていく。


 その走行音すら心地良かった。通りを歩く人たちは皆、穏やかな顔をして行き交っている。


 唯月は歩き続けた。


 目的地があるわけではないのに、何かに吸い寄せられるように、

 向かうべき場所を知っているように、唯月は迷いなく歩き続けた。


 不思議な気もした。


 けれど、あまりにもその空間が醸し出す心地よさに、唯月はそれ以上の疑問を巡らせる余地がなかった。


 唯月は急な山道を登り終えたばかりで、全身が汗で濡れていた。


 白いワンピースの裾は破れ、土埃でひどく汚れ、髪は乱れている。

 おまけに階段で足を挫き、片足を引きずるように歩いているのだ。


 ​本来なら人目が気になり、自分が惨めでたまらなくなる筈だった。

 だが、今の唯月にとって、そんなことはどうでもよかった。

 それどころか、あんなに足首を苛んでいた激痛が、歩を進めるごとにふっと薄れていくような気がした。

 感覚が麻痺していくような、奇妙な心地。


 むしろ、なぜ自分をそれほど恥ずかしく思わなければならないのか、

 その感覚自体がどこか遠い記憶のように感じられた。


 ​心を満たす穏やかな高揚感に支配され、羞恥や焦燥は、春のそよ風の中に霧散してしまった。


 美しい並木が立ち並ぶ大通りを抜け、穏やかな空気が流れる公園へと差しかかった。


 ふと、そののどかな空気を切り裂くように、「ギギッ、ギャーッ」という喧しい鳴き声が降ってきた。


​ はっとして頭上を見上げると、そこにはムクドリの群れが飛び交っていた。

 一糸乱れぬ見事な連携で、空中で急な方向転換をくり返すその黒い影のうねりは、少し気味が悪いくらいに圧倒的だった。


 砂浜で見た影も、階段の途中で背中を押してくれた気配も、

 きっとこの鳥たちだったのだと、唯月はぼんやりと意識する。

 数百羽にも及ぶであろうその群れは、喧しく鳴き交わしながら、住宅街の方へと飛んでいった。

 不気味なほどの迫力に気圧されながらも、唯月の胸には不思議と、

 どこか親近感のような、自分を導く道しるべを見つけたような温かさが残っていた。

 やがて唯月は、ムクドリたちが飛んでいった方角、静かなたたずまいの住宅街へと足を踏み入れていた。

 道の両側には手入れの行き届いた家々が並んでいる。


 その心地よい道のりを歩くうちに、唯月はふと、心を引きつけられるような一軒の家の前で立ち止まっていた。


「わあ、素敵……」

 唯月は、思わずため息をついた。


 ​そこは、彼女が心の奥底でずっと夢に見ていた住まいそのものだった。


 いや、想像していたどんな理想よりも、それははるかに美しい。


 完璧に整いながらも、どこか温もりを感じさせるその佇まいに、唯月は心を奪われていた。


「どうですか? 気に入りましたか?」

 不意に背後からかけられた声に、唯月ははっとして肩を揺らした。


 夢の中にいたかのように建物を眺めていた視線を慌てて外すと、そこにはいつの間にか一人の青年が立っていた。

 柔らかな日差しを背景に、どこか穏やかな笑みを浮かべている。


 唯月は不審に思いながらも、その自然な佇まいにどこか抗いがたい親近感を覚え、思わず聞き返していた。

「……どなたですか?」


「僕は誰でもありません。ただの通りすがりです」

 青年はそう言って、この場所の春の陽気そのもののような、最上の笑みを浮かべた。


 彼の瞳には一点の濁りもなく、唯月をただ優しく肯定している。

「そんなことよりも、中へ入ってみてください。きっと、もっと気に入るはずですよ」

 その誘いは、まるで古くからの友人からのお招きのように自然だった。


 唯月の汚れたワンピースも、汗で湿った髪も、その家の前では些細なことのように思えてくる。


 青年は何も急かさず、ただ扉が開かれるのを待つように、一歩だけ脇へ退いた。




        To becontinued…    

       


         

   ─── ・ 。゚☆: *.☽ .* :☆゚. ─── 


(近日公開)

《 後編 》 ムクドリの目覚め

へ続きます。 

🗝️ ムクドリの目覚め《後編》  🔗 

🖋️ ムクドリの目覚め《前編-後編》【マガジン】           🔗


   ─── ・ 。゚☆: *.☽ .* :☆゚. ─── 



📝 直近の 短編小説

( 直近に紡いだ、3つの世界への扉です )                                              🔗




        ・‥…━━━☆━━━…‥・

      短編小説 集

『 EMOTIONAL MARKET 』     

    ― 2026 . 05 - 08 ―

 2026年 5月から 8月にかけて紡いだ小説、全10篇。
 時の流れに沿って、一冊のアルバムに収めました.。     🔗

   ***・―・***・―・***

* ちょうど短編集として一冊ぶんの量になり、まとまりとしても良い形になったと感じています。




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