《前編》ムクドリ の目覚め 【小説】
「ほら、この お面を被れば、あんたの その必死な顔も隠せるぜ!」
――前略、太宰 治 様。時代は、ずいぶん変わりました。ただ、人はまだ、お面を外せずにいます。
from 唯月
世界20カ国以上へ向けた衛星中継のランプが、赤く、規則正しく点滅している。
赤、消灯、赤。まるで命を刻んでいるようにみえた。
コンクリートの壁を通して、会場を埋め尽くす数万人の息遣いが、生きた波動となって舞台裏まで伝わってくる。
胸の奥が、無数の鼓動に共振するようにざわつく。
床が微かに揺れている。それは気のせいではない。
巨大なホール全体が、熱を帯びた多数の人間によって、文字通り呼吸しているのだ。
「芹川さん、そろそろです……調子は、どうですか」
マネージャーの声は、普段より一音低い。緊張を隠そうとして、かえって掠れている。
喉の奥で何かが引っかかっているのが、はっきりと聞こえた。
唯月は返事をしなかった。
黒いドレスに身を包み、姿見の前に立っている。
鏡の中の女は、整った骨格を保ちながらも、皮膚に深い溝を刻んでいた。
ステージの照明に耐えるために厚く塗られたファンデーションが、表情の線をすべて塗りつぶしている。
それは化粧というより、感情を封印するための仮面だった。
左手に、名器を抱えている。
長年の鍛錬に耐えぬいた指が、その古びたバイオリンの木肌に触れていた。
指先がわずかに震える。
それは緊張ではなかった。
もっと深く、古い何かが、指の骨の芯を揺さぶっている。
モニター画面では、自分の名前が、まばらにコールされていた。
客席の熱気が、画面越しにさえ生々しく映る。
赤く光るカメラのランプ。
息を殺したオーケストラの影。
そして、暗闇の向こうに広がる、無数の白い顔の海。
唯月は舞台袖へと歩き出した。
通路の隅、スポットライトの光が届かない暗がりで、足が止まった。
視界が、突然、歪む。
熱いものが目尻から溢れ、化粧を溶かしながら頬を伝って落ちた。
一滴、また一滴と、冷たい床に小さな染みを作る。
ファンデーションと涙が混じり、指先にぬるりとした感触が残る。
「……芹川さん?」
スタッフが息を呑んで駆け寄る。声が上ずっている。
「大丈夫か、おい……!」
唯月は震える指で涙を拭った。
そして、フッと、口元が緩んだ。
それは勝利の笑みでも、安堵でもなかった。
満ち足りた、どこか狂おしい充足感が、そこにはあった。
(あんなに深かった海は、今は私の一部になっている)
開演のブザーが、鋭く鳴り響いた。
数十のスポットライトが、一斉に舞台袖の唯月を捉える。
光が肌を焼き、黒いドレスの生地を白く飛ばす。
広大な客席から、厳粛なざわめきが波のように広がった。
それが、すぐに割れんばかりの拍手へと変わる。
熱気が、物理的な圧力となって押し寄せてくる。
耳が詰まり、視界の端が白く溶ける。
唯月は、その熱狂の中を、穏やかな笑みを浮かべて歩き出した。
一歩、また一歩。
足裏にステージの床の感触を確かめるように、ゆっくりと踏みしめる。
木の温もりと、無数の足音が染み込んだ微かな軋み。
背後で、何十もの弦楽器と管楽器が、息を殺して出番を待っている。
弓が弦に触れる直前の緊張が、空間全体を張り詰めさせている。
ステージの中央に立った。
視線は、スポットライトの向こう側、客席の遥か向こうを見据えている。
熱気も、無数の視線も、唯月には見えていない。
見えているのは、恋に似た熱を持って世界を震撼させた、
あの「ムクドリの旋律」が生まれる、ずっと前の景色だった。
時は、立ち止まることを許さない。
どれほど鮮烈な記憶も、昨日の出来事のように胸を締めつける思い出も、
容赦なく過去という流れの奥へ消し去ってしまう。
それでも、消えない景色がある。
油の匂いが染み付いた、狭い定食屋のカウンター。湯気と、安価な揚げ物の音。
そこから、すべてが始まった気がする――。
そうだ。あの頃、世界はまだ淡く、空はもっと無邪気だった。
◆◆◆
定食屋の換気扇が、遠くの潮騒のように低く唸っている。
油と使い込まれた木の匂いが染み付いたその店は、唯月(いつき)が学生時代から通い詰めている馴染みの場所だった。
卒業して就職し、会社からは少し距離ができた今でも、こうして足を運ぶことがあった。
湯気が立ち上る定食を前に、唯月は割り箸を割る手を止め、独り言のように漏らした。
「……おやじさん、最近ね、毎日、海の夢を見るんですよ」
「おや、海ですか。夏先取りでいいじゃないですか」
主人は濡れた布巾でまな板を拭きながら、ふと動きを止めた。
そして、常連への親愛を込めるように、柔らかい笑みを浮かべて尋ねた。
「そういえば、お姉ちゃん。すっかり久しぶりじゃないですか。……ヴァイオリンの方はどうした?
学生の頃は、プロを目指すくらい相当いいところまでいってたんだろう?」
その言葉に、店内の空気が微かに凍りついた。
唯月はコップの水の表面を見つめたまま、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
――音楽の道なんて、とうの昔に諦めた。
日々の忙しさと終わらない満員電車の生活にすり潰されて、今や楽器ケースを開く気力すらない。
胸の奥をチクリと刺すような痛みを隠すように、唯月は少し上気した顔でコップから顔を上げ、
別の話題でそれをかき消すように身を乗り出した。
「違うの、そんな話はいいの。
……それより、おやじさん。聞いてよ。
私、本当はカナヅチでしょ?
なのに、夢の中では、ものすごく上手に泳げてるの。
それが……なんだか、たまらなく楽しいのよ……」
主人が意外そうに手を止める。
唯月の瞳には、定食屋のカウンターではなく、陽光を反射してきらめく獰猛な海面が映っていた。
「必死よ。腕はちぎれそうなほど重い。
でも、その波を自分の手で割り、水を掴んで後ろへ押し出すたびに、
『私、今、生きてる!』って、身体の芯から震えるような喜びが込み上げるの」
水着なんていらない。皮膚一枚で、海の重さと冷たさを全部受け止めて泳ぎ続ける。
その瞬間だけは、彼女は何からも自由で、満たされていた。
「だからね、目が覚めるのがもったいないくらい。
朝が来て、重い身体で満員電車に乗る瞬間が、本当の『カナヅチ』に戻る時みたいで……。
最近は、現実の方がよっぽど息苦しくてさ」
唯月の手のひらには、夢の中で掴んでいた確かな「水の重み」が、現実の余韻となってまだ残っていた。
「でもね、おやじさん。昨日の夜は、少し違ってたんだぁ」
唯月は、手のひらでコップを包み込み、声を潜めた。
「逃げ場も、休む場所もない、見渡すかぎり果てのない海原。
でも昨日は、ふと顔を上げたとき……遠くの波間に、ぽっかりと光が溜まっている場所が見えたの。
真っ白な、小さな砂浜が」
彼女は、定食屋のすり減ったカウンターを指先でそっとなぞる。
「まだ辿り着いてはいないわ。だけど、必死で波を割って、あの白い岸辺へ行かなきゃならないって……なぜかそう強く思ったのよ」
唯月は顔を上げ、定食屋の主人を真っ直ぐに見つめた。
その眼差しは、もう『会社の昼休みの OL 』のものではなかった。
「おやじさん。あの海の向こうには、きっと何かがある。
私は明日も、あそこへ行かなきゃならないの……」
◇◇◇
腕を回す。指先が、ずっしりと重い水の壁を切り裂く。
右、左。交互に繰り出す彼女のストロークは、自分でも驚くほど力強く、正確だ。
現実の私が金槌(カナヅチ)だなんて、今のこの自分を見たら誰も信じないだろう。
水はどこまでも青く、そして黒い。
太陽の光がカーテンの隙間から漏れるように海中へ差し込んでいる。
それは彼女を捕らえて離さない檻の格子のようにも見えた。
(ああ、気持ちいい……。もっと、もっと遠くへ)
肺に溜まった空気を吐き出し、泡が頬を撫でて昇っていく。
重力が消え、ただ「進む」という意志だけが彼女の身体を突き動かしていた。
けれど、ふと彼女の意識が海底に向いてしまった瞬間。
……この下には、何があるんだろう。
泳ぎをやめたわけではない。けれど、一度その深淵に触れてしまった瞬間、景色が一変した。
私の真下には、何か得体の知れない暗闇が広がっている。
そこには足を置くべき底も、もしかしたら果てすら、存在しないように感じられた。
私は今、ただの浮力という頼りない奇跡だけで、この「死の淵」の上を泳いでいるに過ぎないのだ。
(底がない) 途端に、身体中の筋肉がこわばる。
今まで彼女を抱きかかえてくれていた水が、急に手のひらを返したように、
無数の冷たい指となって足首に、腕に絡みついてくる。
「はっ、……っ!」
呼吸が危うくなる。
それでも彼女は、さらに深く、獰猛に水を掻いた。
早まる心臓の音が、耳の奥でうるさく響く、うまく息ができない。
塩辛い水が喉に詰まり、何度も噎せかえる。
浮力を失い沈んで行きそうな気がした。
その時、揺れる波の彼方に、一筋の「白」が浮かびあがった。
目を凝らす。
波飛沫の向こう、小さな、けれど確かな輝きを放つ砂浜が見えた。
白く光る砂の帯。
そこには確かな、足をつけることのできる「大地」がある。
「……あ」
その瞬間、魔法のように全身の強張りが解けていった。
腕が軽い。
水はもう彼女を飲み込もうとはしなかった。
唯月を目的地へと運んでくれる、頼もしい伴奏者になった。
ひとかき、ひとかき。指先が水を捉えるたびに、あの白い輝きが近づいてくる。
肺に吸い込む空気までが、甘く、清々しく感じられた。
(あそこへ着けば、大丈夫)
もう、下を見ることはしなかった。
ただひたすらに、あの白銀の岸辺を目指して、筋肉を躍動させる。
波を割り、風を切り、唯月は白い光の中へと溶け込んでいく。
やがて砂浜に足を踏み入れた。
唯月は、身体の「軽さ」に目を見開いた。
さっきまでの海の重圧は消え、足の裏には、細かな砂の感触。
ここは、ひどく寂しい場所だ。
砂浜を吹き抜ける風が、唯月の火照った素肌を、心地よく冷ましていった。
その静寂に、さっきまでの激しい鼓動は収まり、しだいに呼吸は整っていく。
どこからともなく一羽の鳥が空を掠め、深い緑の木々の茂みへと吸い込まれるように飛んでいった。
その黒い影を目にしたとき、唯月はなぜか、胸の奥が締め付けられるような懐かしさを覚えた。
あれは ―― 確か、ムクドリという鳥だったような気がする。
鳥に詳しいわけではない。
だが、ふと頭に浮かんだその名前は、どこか遠い記憶の底から響いてくるようだった。
この心地良い風は、ムクドリの飛び去って行った、森の奥から吹き抜けているようだった。
耳を澄ませると、いくつもの微かな『囁き声』が、その風に乗って響きあっていた。
耳をくすぐるその軽やかな『ざわめき』は、言葉というより無数の概念の響き合いのようだった。
(やっぱり、この先には何かがある)
その心地よい気配に、根拠の無い、予感は高まっていった。
唯月は迷うことなく、砂浜の奥、深く濃い緑を湛えた木々の茂みへと歩き出した。
期待に、足は早まる。
いつの間にか、白いコットンのワンピースを纏っていた。
その裾がシダの葉を揺らし、露を吸って重くなる。
足元には少し窮屈なスニーカー。
やがて視界が開け、湿っぽい森を歩いていたはずの足音は、いつの間にか乾いた靴音に変わっていた。
アスファルトの舗装路だった。
空気の密度が少し濃くなった気がした。
遠くの方から、腹の底を震わせるような太鼓の音が、湿った夜気を切り裂き届いてくる。
「……あ、お祭り」
賑やかな囃子太鼓の音が響き渡り、
目前の暗闇の中から、幻想的な灯りが浮かび上がってきた。
家々の軒先には、手書きの文字が躍る古い提灯が下がり、
その幻想的な光の下を、浴衣を着た小さな子供たちが走り抜けていった。
「待ちなさいってば!」「置いてっちゃうよ!」
子どもを叱る親たちの声も、どこか弾んで聞こえた。
「あら、お孫さん? 大きくなったわねぇ」
「いやだ、もう。中学生ですよ。早いもんですね」
そんな、なんてことのない地元の会話が耳を掠める。
誰もが知っている顔で、誰もがこの場所に根を張って生きている。
そんな安心感が伝わってきた。
けれど、カナヅチのまま海を泳いできた唯月にとって、
そんな『当たり前の幸せ』は、眩しすぎて少し胸が痛むものだった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
不意に、ワンピースの裾を引かれた。
振り返ると、お面を斜めに被った子供が、真っ赤なリンゴ飴を掲げて笑っている。
その子が指を差した先は、明るい出店が並ぶ通りではなく、
さらにその奥……闇に溶け込むような、急峻な石段だった。
「お祭りの日にはね、みんなあそこを登っていくんだよ。
上まで行けば、もっとすごいものが見えるから」
子供の声は、祭り囃子の音にかき消されそうなほど小さかったけれど、唯月の耳にははっきりと届いた。
さっきから、ずっと耳をくすぐる「心地よいざわめき」の正体。
それは、あの石段の先にある、もっと高い場所から涼やかな風に乗って降りてきている気がした。
唯月は、賑わう人混みに背を向け、暗い石段へと一歩を踏み出した。
石段の一段目に足をかけた、その瞬間だった。
「おや、あんた、どこへ行くんだい!」
太鼓の音と笛の音、それに混じって、陽気で太い声が飛んできた。
振り返ると、階段の脇にある広場で、
揃いの法被を着た男たちが、顔を赤くして酒を酌み交わしていた。
彼らの周りには、おしろいを厚く塗った女たちや、笑い転げる子供たちが渦巻いている。
夢の中の、どこか現実味のない、だけど艷やかで鮮やかな「生の匂い」がそこにはあった。
「こっちは今からが面白いんだ。酒も、魚も、山ほどあるぞ。あんたもこっちへ来いよ」
一人の男が、酔った足取りでこちらへ寄ってくる。
その手には、溢れんばかりの赤い酒が入った大きな盃。
「あんた、ずいぶん酷い顔をしてる。そんなに必死に、どこを目指してるんだ?」
男の背後で、女たちが「どこへ行くんだい」「どこへ行くんだい」と、歌うような合唱を始める。
それは親切な誘いのようでもあり、足元を掬う呪文のようにも聞こえた。
「私は……」
唯月は、石段を握りしめるように踏みしめた。
「……この丘の先に、何があるか見に行きたいの」
「丘の先?」
男は可笑しそうに鼻で笑った。
「あっちには、何もありゃしないよ。
ただの空と、ただの崖っぷちだ。
太宰の旦那だってそう言った。
そんな不確かな場所を目指すより、ここで俺たちと踊ってりゃあいいんだ。
ほら、お面を貸してやる。
それを被れば、あんたのその『必死な顔』も隠せるぜ」
男が差し出してきたのは、真っ白な、無表情な狐のお面だった。
一瞬、心が揺れる。
ここでこの面を被り、この狂乱の中に紛れ込めば、あの底なしの海の恐怖も、
明日から始まる息苦しい現実も、全部笑い飛ばしてしまえるかもしれない。
「……いいえ」
唯月は短く答えた。
「何もないなら、それを自分の目で見に行かなきゃいけないの。
お面で隠してちゃ、本当の景色は見えないわ」
男の笑いが、ふっと消える。
周囲の喧騒が、急に遠ざかる。
「……勝手にしな。お前さん、戻ってこられなくなっても知らないよ」
その言葉を背中で受けながら、唯月は迷わず二段目、三段目へと足を運んだ。
一歩、また一歩。
石段の角が膝に当たって、生々しい痛みが走る。
ふいに、吹き戻す風に乗って下界の喧騒が耳をかすめた。
笑い声、笛の音、誰かが焼いている魚の香ばしい匂い。
(……あっちにいれば、楽だったのかな)
一瞬、思考が弱気に染まる。
お面を被って、ただあの狂乱に身を任せていれば、こんな孤独な痛みなんて知らずに済んだはずだ。
あそこには「仲間」がいて、「居場所」があった。
不意に、
足元をかすめるように、十羽ほどのムクドリの群れがパタパタと足元から、頭上の暗がりへと駆け上がるように飛び立った。
その黒い影の波に背中を押されるように、唯月はふっと息を吹き返し、もう一度前を向いた。
唯月は首を振った。
一度でもあの「底なしの海」を泳ぎきった私が、今さらお面を被って偽りの岸辺で踊れるはずがない。
血の混じった呼吸を吐き出し、前を見上げる。
そこには、石段を塞ぐようにして立つ、二、三人の男たちの影があった。
彼らは法被を着ているわけでも、お面を被っているわけでもない。
ただ、無機質な、壁のような威圧感を持ってそこにいた。
「おい。ここから先はだめだ」
真ん中に立つ男が、低く、事務的な声で言った。
「ここは、お前のような者が来る場所じゃない。お祭りは下でやってる。戻りな」
遮られた。
肉体の限界を超えて、ようやく辿り着きそうな頂を目前にして、彼らは「禁止」を突きつける。
「……どうして」
掠れた声で、唯月は問い返す。
「どうして、行っちゃいけないの。何もないなら、見てもいいはずでしょう」
「何もないからこそ、行かせられないんだよ」
男の一人が、少しだけ憐れむような目で彼女を見た。
「あそこにあるのは、救いじゃない。
ただの、剥き出しの終わりだ。
お前、まだ生きていたいんだろう?
だったら、その『必死な顔』のまま、下へ降りるんだな」
男たちの足元には、境界線のように一本の細い縄が張られている。
それを跨げば、もう「人間の世界」の理 ( ことわり ) は通じないのだと、唯月の直感は告げていた。
だが、唯月は……。
男たちの制止を振り切り、禁じられた縄を強く跨ぎ越した。
その瞬間だった。
力んだ足先が濡れた石の角を滑った。
「あっっ……!」
グキリ、と嫌な音を立てて右足首が歪む。
関節の奥を力任せに打ち砕かれたような激痛が走り、唯月はその場に激しく膝をついた。
息が詰まり、視界が真っ赤に染まる。
背後を振り返る余裕なんてない。
追いかけてくる気配がないことが、かえって不気味な静寂となって背中に張り付いた。
痛む足首を庇い、石段に両手をついて這い上がる。
爪の間に泥が入り込み、膝は擦り切れて血が滲んでいた。
一歩、また一歩。
右足を踏み出すたびに、激痛が稲妻となって背筋を駆け上がる。
けれど、その生々しい痛みこそが、自分が今「生きている」事への証のように思えた。
――死んだ猫の、冷たくなっていく柔らかな毛並み。
――小学校の校庭で、砂埃を吸い込みながら笑い転げた放課後。
――職場で上司に罵倒され、自分の存在価値が砂のように崩れ落ちたあの夜。
様々な記憶の断片が混ざり合い、浮かんでは消えていった。
そして、暗い部屋の隅で、何時間も、何日もヴァイオリンの弓をひたすら動かした日々。
指先の皮が剥け、筋肉が悲鳴を上げても、頭の中で鳴り響く美しい旋律を形にしようともがいたあの時間。
ただ音と一体になり、音楽を奏でることが心の底から楽しかった――あの純粋な輝き。
悲しみも、喜びも、屈辱も。そして今、右足を苛むこの酷い激痛すらも。
痛みに耐えかねて何度も顔が歪むたび、唯月はその表情を隠そうともしなかった。
今まで「重荷」だと思っていた人生の断片が、今は私を押し上げる熱いエンジンになる。
この痛みがあるから、私は私としてここに立っている。
お面なんて被らなくてよかった。
剥き出しの、この「必死な顔」こそが、私をここまで運んできたんだ。
そして、壊れた足を引きずるようにして、最後の一段を踏み抜いた。
視界が、爆発するように開ける。
「……え?」
息を切らし、肩を激しく上下させながら、唯月は顔を上げた。
そこには、太宰の言った「何もない」景色なんてなかった。
彼女の目に飛び込んできたのは、どこにでもある、ありふれた町並みだった。
それは、唯月が普段住んでいる場所とは明らかに違う。
けれど、いつか記憶の中で見たような、奇妙なほどに見慣れた風景でもあった。
唯月は、痛む右足をかばいながら、何かに吸い寄せられるようにその通りを歩いていった。
右足に体重がかかるたび、顔が苦痛に引きつる。
周囲の穏やかな空気とは裏腹に、彼女だけが生々しい痛みを引きずっていた。
ふと気になって後ろを振り返ってみたが、
さっきまで登ってきたはずの石段は、もうどこにも見当たらなかった。
心は不思議なほど穏やかで、ただ心地よさだけが満ちている。
この街並みは、唯月の乾きを癒すように、優しく彼女を包み込んでいた。
季節は春。頬を撫でるそよ風は、どこまでも心地よかった。
空は突き抜けるように青く、透明で、柔らかな日差しを街全体に投げかけていた。
唯月が歩く歩道の横を、車がひっきりなしに通り過ぎていく。
その走行音すら心地良かった。通りを歩く人たちは皆、穏やかな顔をして行き交っている。
唯月は歩き続けた。
目的地があるわけではないのに、何かに吸い寄せられるように、
向かうべき場所を知っているように、唯月は迷いなく歩き続けた。
不思議な気もした。
けれど、あまりにもその空間が醸し出す心地よさに、唯月はそれ以上の疑問を巡らせる余地がなかった。
唯月は急な山道を登り終えたばかりで、全身が汗で濡れていた。
白いワンピースの裾は破れ、土埃でひどく汚れ、髪は乱れている。
おまけに階段で足を挫き、片足を引きずるように歩いているのだ。
本来なら人目が気になり、自分が惨めでたまらなくなる筈だった。
だが、今の唯月にとって、そんなことはどうでもよかった。
それどころか、あんなに足首を苛んでいた激痛が、歩を進めるごとにふっと薄れていくような気がした。
感覚が麻痺していくような、奇妙な心地。
むしろ、なぜ自分をそれほど恥ずかしく思わなければならないのか、
その感覚自体がどこか遠い記憶のように感じられた。
心を満たす穏やかな高揚感に支配され、羞恥や焦燥は、春のそよ風の中に霧散してしまった。
美しい並木が立ち並ぶ大通りを抜け、穏やかな空気が流れる公園へと差しかかった。
ふと、そののどかな空気を切り裂くように、「ギギッ、ギャーッ」という喧しい鳴き声が降ってきた。
はっとして頭上を見上げると、そこにはムクドリの群れが飛び交っていた。
一糸乱れぬ見事な連携で、空中で急な方向転換をくり返すその黒い影のうねりは、少し気味が悪いくらいに圧倒的だった。
砂浜で見た影も、階段の途中で背中を押してくれた気配も、
きっとこの鳥たちだったのだと、唯月はぼんやりと意識する。
数百羽にも及ぶであろうその群れは、喧しく鳴き交わしながら、住宅街の方へと飛んでいった。
不気味なほどの迫力に気圧されながらも、唯月の胸には不思議と、
どこか親近感のような、自分を導く道しるべを見つけたような温かさが残っていた。
やがて唯月は、ムクドリたちが飛んでいった方角、静かなたたずまいの住宅街へと足を踏み入れていた。
道の両側には手入れの行き届いた家々が並んでいる。
その心地よい道のりを歩くうちに、唯月はふと、心を引きつけられるような一軒の家の前で立ち止まっていた。
「わあ、素敵……」
唯月は、思わずため息をついた。
そこは、彼女が心の奥底でずっと夢に見ていた住まいそのものだった。
いや、想像していたどんな理想よりも、それははるかに美しい。
完璧に整いながらも、どこか温もりを感じさせるその佇まいに、唯月は心を奪われていた。
「どうですか? 気に入りましたか?」
不意に背後からかけられた声に、唯月ははっとして肩を揺らした。
夢の中にいたかのように建物を眺めていた視線を慌てて外すと、そこにはいつの間にか一人の青年が立っていた。
柔らかな日差しを背景に、どこか穏やかな笑みを浮かべている。
唯月は不審に思いながらも、その自然な佇まいにどこか抗いがたい親近感を覚え、思わず聞き返していた。
「……どなたですか?」
「僕は誰でもありません。ただの通りすがりです」
青年はそう言って、この場所の春の陽気そのもののような、最上の笑みを浮かべた。
彼の瞳には一点の濁りもなく、唯月をただ優しく肯定している。
「そんなことよりも、中へ入ってみてください。きっと、もっと気に入るはずですよ」
その誘いは、まるで古くからの友人からのお招きのように自然だった。
唯月の汚れたワンピースも、汗で湿った髪も、その家の前では些細なことのように思えてくる。
青年は何も急かさず、ただ扉が開かれるのを待つように、一歩だけ脇へ退いた。
To becontinued…
─── ・ 。゚☆: *.☽ .* :☆゚. ───
(近日公開)
《 後編 》 ムクドリの目覚め
へ続きます。
🗝️ ムクドリの目覚め《後編》 🔗
🖋️ ムクドリの目覚め《前編-後編》【マガジン】 🔗

─── ・ 。゚☆: *.☽ .* :☆゚. ───
📝 直近の 短編小説
( 直近に紡いだ、3つの世界への扉です ) 🔗
・‥…━━━☆━━━…‥・
短編小説 集
『 EMOTIONAL MARKET 』
― 2026 . 05 - 08 ―
2026年 5月から 8月にかけて紡いだ小説、全10篇。
時の流れに沿って、一冊のアルバムに収めました.。 🔗
***・―・***・―・***
* ちょうど短編集として一冊ぶんの量になり、まとまりとしても良い形になったと感じています。
