《後編》ムクドリ の目覚め 【小説】
――道化の仮面を脱ぎ捨て、辿り着いた理想郷。だが、そこは美しすぎる牢獄 ( 死 ) でしかなかったのか?
そして、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン が語りかけた。
ムクドリの姿を借りて……。
そこは、完璧なまでに静謐な白い部屋だった。
窓の外には、唯月がこれまで夢見た理想の風景――
季節ごとの花が一度に咲き乱れ、小川が流れる、終わることのない春の庭園が広がっている。
この部屋には、満員電車の揺れも、上司の冷ややかな視線も、どこまでも続く日常の野暮ったさもない。
空腹も、疲労も、過去の失敗への後悔も、すべてがここに来る前に溶けて消えていた。
唯月は、羽毛のように柔らかいベッドに、ただ沈み込んでいた。
シーツは常にひんやりとして心地よく、呼吸をするたびに、心が透明になっていくような感覚がある。
ここは、彼女が望んだ、絶対的な安息の場所だった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
時計を見る必要もない永遠のような午後のこと――。
窓辺のレースのカーテンがふわりと揺れ、一羽のムクドリが舞い込んできた。
くすんだ灰色の羽に、少し黄色がかったくちばし。
現実世界なら、どこにでもいる平凡な鳥だ。
しかし、この理想郷においては、その存在さえもが絵画のように美しく見えた。
鳥は、唯月の枕元まで飛んできて、ふわりと降り立った。
そして、その小さな黒い瞳で、唯月をじっと見つめた。
「……いい部屋だね」
鳥が口を開いた。
それは人間の言葉だったが、驚きはしなかった。
ここは夢の中だ。私の理想の世界なのだから、鳥が言葉を話すことくらい、些細な事柄に過ぎない。
「ええ、ここは私の理想の場所だから」唯月は静かに答えた。
声は驚くほど滑らかに出た。
「すべてが思い通り。お腹も空かないし、疲れることもない。
……まるで死んでいるみたいに、安らかな場所よ」
鳥は小さく首をかしげた。
「ふん。……死ねば、すべてが無になる。
だが、ここは違う。
すべてが『ある』のに、何も『起こらない』場所だ。退屈だとは思わないかい?」
「いいえ。私は、ずっとこんな静けさを求めていたの」
唯月は目を閉じ、心地よいまどろみに身を委ねようとした。
だが、鳥の次の言葉で、その微睡みは引き裂かれた。
「お前がこの安らぎを手に入れる代償に、何を置いてきたか、知っているか?」
唯月の心臓が、微かに波打った。
この理想郷の中で、初めて感じる不快感だった。
「代償……? 私は何も失っていないわ。
ここは、私の望んだ世界だもの」
「お前は、最も人間らしい部分を置いてきたんだよ」
ムクドリは、くちばしで羽を繕う仕草をしながら、淡々と語った。
「人を、人たらしめているモノをな……」
その声は、妙に生々しく響いた。
ムクドリは、また少し首をかしげると、今度は窓の外の青空へ向かってふわりと飛び立った。
ただ一言、小さく「せいぜい味わうことだな」と言い残して。
取り残された唯月の耳に、コン、コン、と軽いノックの音が響いた。
「足首の具合は、どうだい?」
ドアの向こうから、あの青年の穏やかな声が聞こえる。
「あ……うん、もう全然大丈夫」
唯月が床にそっと足を下ろし、立ち上がってみても、昨日の激痛はうそのように消えていた。
「よかった。さっ、ディナーの用意もできてるよ……」
扉を開けた青年の優しい促しに微笑み返し、彼に続いてダイニングへと向かう。
ダイニングのテーブルには、湯気の立つ美しい料理が並んでいる。
本当にお腹が空いているわけではないのに、口に運ぶと驚くほど美味しかった。
「美味しいね」
「よかった。ここはね、一年中雨が降らないんだ。いつだって最高の気候が続く」
青年は微笑みながら、ワイングラスを傾けた。
食事のあと、リビングのソファで他愛のない話を交わすうちに、話題は音楽のことになった。
「そういえばさ、隣の部屋にいいものがあるんだ。聴いてみる?」
青年につれられて隣の部屋――音楽ルームの扉を開けると、
そこには年代物の重厚なレコードプレイヤーがあった。
棚にはずらりと美しいジャケットのレコードが並んでいる。
「あっ……これ……」
唯月は息を呑んだ。
それは、現実の世界で彼女がずっと大切に持っている、ベートーヴェンのレコードだった。
現実ではもう何年も針を落としていなかったその名盤が、なぜかこの夢の中の棚にもある。
「これが一番好きなの。私、この音楽に触れたときに、初めて本当の意味で世界に目覚めた気がしたんだよね」
「じゃあ、今日はこれをかけようか」
青年が丁寧に盤を取り出し、ターンテーブルに載せる。
プチプチとノイズを立てながら、ゆっくりと針が落とされた。
部屋いっぱいに広がる、深みのある重厚なストリングスの響き。
ベートーヴェンの織りなす圧倒的な旋律が、二人の体を優しく包み込む。
ふと、青年が唯月の手に視線を落とし、その指先をそっと包み込んだ。
人差し指と中指の腹に残る、小さな硬いタコ。
長年、弦を押さえ続けてきた記憶の痕跡に、彼の温かな指先が優しく触れる。
「……硬い手だね」
「あ……ごめんなさい。昔、バイオリンを弾いていたから……」
恥ずかしそうに手を引こうとした唯月を、青年は逃がさないように、包み込むように握りしめた。
「隠さなくていいよ。とても綺麗な手だ。……たくさん、傷ついてきたんだね」
彼の瞳に宿る深い慈しみに、唯月の胸の奥が熱く疼いた。
誰にも見せたくなかった自分の「必死だった痕跡」を、この人は丸ごと愛おしんでくれている。
唯月はそっと力を抜き、彼の大きな手のひらに自分の手を委ねた。
唯月は青年の肩にそっと寄り添い、目を閉じた。
眠る必要すらないはずなのに、心地よい疲労と音楽の温もりに抱かれ、そのまま穏やかな眠りへと落ちていった。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
どれほどの日時が過ぎたのだろう。
ここでは、時間の感覚が曖昧だった。
昨日の記憶はあるが、点と点で繋がった朧げな思念を漂うように、全てがふわふわと輪郭を失っていた。
ある朝も、同じようにコン、コンとノックの音がして、「ご飯できたよ……」
青年が迎えに来た。
二人は一緒に食卓を囲み、昼下がりには庭を抜け出して、美しい湖のほとりを散歩した。
水面に陽光がキラキラと乱反射する。
「ねえ、中世の人たちも、こんな風に穏やかな時間を過ごしていたのかな」
「さあ、どうだろうね。でも、ここには終わりがないから、彼らよりもずっと贅沢かもしれないね」
青年は優しく笑った。
けれど、その言葉を聞きながら、唯月の胸の奥で、ふと小さな引っかかりが生まれた。
(……終わりがない?)
青年は立ち止まり、吹き抜ける春風の中で唯月を振り返った。
「ねえ、唯月」
初めて名前を呼ばれた気がした。
その響きがあまりにも自然で、胸の深いところが揺れる。
「僕はね、ずっと君がここに来るのを待っていたような気がするんだ」
「私を……?」
「うん。君がそのボロボロの服で、必死な顔をしてあの石段を登ってくるのを、ずっとここで見ていた気がする。
……ここに来てくれて、本当に嬉しいよ」
青年はそう言って、眩しい笑みを向けた。
その言葉は、現実の世界で誰かに手放しで肯定された記憶の無い唯月の、存在全てを優しく包み込んで溶かしていくようだった。
(ああ……私、この人のためにここへ辿り着いたんだ)
唯月は溢れそうになる愛おしさを噛み締めながら、ただ静かに頷いた。
その夜、青年は「君に見せたいものがあるんだ」と、唯月を屋敷の奥にある部屋へと連れて行った。
重厚な扉が開かれると、そこには言葉を失うような光景が広がっていた。
柔らかな灯りに照らされた室内には、繊細なレースが施されたシルクのドレスから、
かつて街のショーウィンドウの外側から溜息をついて眺めていたような、美しい仕立ての服が幾重にも並んでいた。
「どれでも好きなものを選んでごらん。全部、君のものだよ」
青年はそっと唯月の背中に手を添え、優しく促した。
唯月は息を呑み、吸い寄せられるように一着の淡いドレスへ手を伸ばした。
滑らかな生地に指先が触れた瞬間、胸の奥から熱い塊がこみ上げてくる。
現実の自分なら、触れることすら躊躇われたはずの贅沢な織物。
けれど、唯月の胸を震わせている高揚は、この豪華な衣類のもたらすものではなかった。
鏡の前でドレスを胸元にあてがうと、背後から青年がそっと近づき、鏡越しに彼女の瞳を覗き込んだ。
彼の澄んだ瞳の中に、見たこともないほど愛おしそうに揺れる自分の姿が映っている。
「やっぱり、すごく似合うよ」
青年がそっと伸ばした指先が、唯月が胸元に当てがったドレスの刺繍を撫でるふりをして、
そのまま、汚れたワンピースから覗く、露わな鎖骨へ優しく触れた。
その指先のわずかな揺らぎに、唯月はそっと目を閉じ、小さく息を漏らした。
目の前に広がる数々のドレスも、この夢のような部屋も、彼の指先がもたらす愛おしさの前には、ただの背景に過ぎなかった。
彼が自分を見つめ、これを差し出してくれた――、
ただそれだけの事実が、凍え切っていた彼女の胸の奥を、柔らかく溶かしていく。
唯月はあてがった生地をぎゅっと強く抱きしめ、鏡の中の青年へ向けて、深く深く微笑んだ。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
その朝は、日が昇る前に独りで庭の小道を抜けて、湖のほとりを歩いていた。
頭上に広がる、夜明け前の薄紫の空を見上げながら、唯月はふと思った。
――ここは、夢の中だ。
いつかはこの心地よい眠りから覚めてしまう日が来るかもしれない。
いや、もしかしたら、この完璧な幸福が永遠に続いて、二度と現実に戻らないことだってある。
でも、もしこの時間が永遠に終わらないとしたら……?
すべてが快適で、苦痛も苦悩もないこの世界は、本当に「生きている」と言えるのだろうか。
一瞬、あのムクドリの気配が辺りに忍びこんだ気がした。
……それとも、この眩しい日々は、死の直前に脳が見せている、永遠に引き伸ばされた「一瞬の夢」に過ぎないのだろうか。
足元で風が揺れ、花びらが舞い散る。
あまりにも美しすぎる世界の只中で、唯月が胸の奥のざわめきを抑え込もうとした、その時だった。
頭上の梢から、あの喧しい鳴き声が降ってきた。
――ギギッ、ギャーッ。
「……っ」
見上げると、数十羽のムクドリの群れが一斉に枝から飛び立った。
黒い影のうねりを作って、明け方の空に浮かぶ朧げな満月に向かって、吸い込まれるように舞い上がっていく。
そのザワメキの中に、鳥の鳴き声ではない、妙にはっきりとした声が混じっていた。
『――そうだ。ここは夢の中だ』
幻聴か、それとも、あのムクドリが語りかけているのか。
冷徹な響きを含んだ声が、頭の中に直接響いてくる。
『お前は、この夢の中でさえも……自由に泳ぐことができなくなっている』
「え……?」
『忘れたのか。現実の自分がカナヅチなら、お前は夢の中ですら、その呪縛から逃れられない。
形を変えただけのカナヅチだ。
……この穏やかな水面の下には、相変わらず底知れぬ深淵が広がっているというのに』
胸の奥が、冷たく凍りついた。
湖のほとりに立ち尽くす唯月の足元で、ただ穏やかに揺れていたはずの水面が、
ふと、あの時のような黒々とした底なしの海へと変貌したような気がした。
『お前は、ここでも結局、足のつかない恐怖から逃げ回っているだけではないのか…?』
『痛みを恐れ、摩擦を捨てて、美しすぎる箱庭に身を隠しているだけの臆病者ではないのか…?』
ざわざわと波立つ心の内を隠すように、唯月はぎゅっと自分の両腕を抱きしめた。
(このままでいいのだろうか。それとも――)
辺りにはもう、ムクドリたちの姿は無かった。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
その日も、いつものように湖のほとりから屋敷へと戻る途中だった。
唯月は前を歩く青年の背中を見つめていた。
陽光を浴びて透き通るような彼の髪や、一度の淀みもなく揺れる衣の裾。
その姿には、『翳り』がなかった。
現実の世界にいた人間なら誰しもが纏っているはずの、
生活の疲労や、他者への疑い、あるいは小さな諦めといった「濁り」が、彼には一切存在しない。
「……ねえ」
唯月が脚を止め、ぽつりと問いかけた。
「あなたは、ここで寂しくなったり、誰かを憎しく思ったりすることは無いの?」
青年は振り返り、不思議そうに首をかしげた。
その瞳は、晴れ渡った空のようにどこまでも澄んでいる。
「どうしてそんなことを聞くの? 寂しさも怒りも、ここには必要ないよ。
ここにあるのは、君が望んだ安らぎだけだ」
青年は優しく微笑み、唯月に近づくと、彼女の頬をそっと撫でた。
その指先は確かに暖かかった。だが、その暖かさには「体温の生々しい揺らぎ」がない。
まるで、完璧に温められた陶器のようだった。
「君がここで笑っていてくれれば、僕はそれだけで満たされているんだよ」
青年の言葉に、唯月の胸の奥が、ぎゅっと冷たく収縮した。
(彼は、私の全部を肯定してくれている。……でも)
彼が愛してくれているのは、必死な顔をして石段を登りきり、
疲れ果ててここに辿り着いた「今の私」だけなのだ。
泥を舐め、指の皮を剥がし、惨めに戦いながらバイオリンを抱きしめていた、
あの見苦しく、華やかさとはほど遠い過去の私を、彼は本当の意味では知らない。
「……そうね。ごめんなさい、変なことを聞いて」
唯月は無理に微笑み返し、彼の温かい手に自分の手を重ねた。
だが、その手と手の隙間を、冷たい風が通り抜けていくような気がした。
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その日も、いつものように穏やかな朝食を終え、二人は湖のほとりへ散歩に出かけた。
水面は太陽の光を浴びてキラキラと眩しく揺れ、風はどこまでも優しく頬を撫でる。
すべてが満ち足りた、完璧な時間のはずだった。
やがて家に戻り、色とりどりの花が咲き誇る庭園に差し掛かった時のことだ。
青年は立ち止まり、ふと唯月の方を振り向いた。
その瞳には、一点の曇りもない澄んだ光が宿っている。
「ねえ、唯月」
「なぁに?」
「やっぱりさ……もう一度、ヴァイオリンを弾いてみないかい?」
その一言に、唯月の身体が小さく強張った。
――まただ。
ここに来てから、これで何度目になるだろう。
彼は悪びれる風もなく、まるで「今日の天気は良いね」とでも言うような軽やかさで、何度もその話題を口にする。
「……どうして、そんなことを言うの?」
唯月は意識して声を抑えたが、自分でも驚くほど冷たい響きが混じった。
「ここは、苦しむ必要なんてない場所でしょう?
疲れも、過去の失敗も、全部忘れていい場所なんじゃないの?」
「そうだよ。ここは何だって思い通りになる」
青年は首をかしげ、困ったような、けれど穏やかな微笑みを浮かべた。
「でもね、君が音楽のことを話すときや、あそこに置いてあるレコードを聴いているときの顔……
すごく寂しそうで、同時に、一番眩しいんだ。
僕はただ、君が本当に愛しているものを手放してほしくないだけなんだよ」
「愛してなんて、ないわ!」
強い拒絶の言葉が、自分でも制御できないまま唇をついて出た。
青年の胸の奥まで見透かすような優しい眼差しが、今の唯月には耐えがたい刃となって突き刺さる。
(どうして分かってくれないの……?)
現実の世界で、どれほど指先の皮を剥がし、
いくつもの恋も見送って、情熱を注ぎ、
そして無惨に打ち砕かれたか。
もう二度とあの深淵に立ちたくないからこそ、この甘美な箱庭へ逃げ込んできたのだ。
ありのままを見てほしい相手なのに、
一番触れられたくない傷口を優しく撫でまわされているような、行き場のない憤りが胸の底から競り上がってくる。
「もういい……」
「唯月――」
「放っておいて!」
唯月は青年の制止を振り切り、庭園の芝生を乱暴に踏みつけて母屋へと走り出した。
玄関を通り抜け、階段を駆け上がり、自室の扉を開ける。
勢いよくドアを閉めると、カチャンと重い錠の音が静寂を取り戻した。
息が荒く、胸が不規則に上下する。
鏡に映る自分を見つめる。
青年から贈られた絢爛なドレスが、今の自分にはあまりにも重く、
どこか身丈に合わない偽物の皮膚のように思えてならなかった。
激しい衝動に衝き動かされ、手繰り寄せるように脱ぎ捨てようと手をかけた。
――けれど、指が止まる。
生地を通して伝わってくるのは、あの青年がくれた無償の優しさだった。
そして、この街の甘美な温もりの記憶。
どうしても、それらを拭い去ることができず、唯月は唇を噛みしめた。
痛みのないはずのこの夢の世界で、なぜか胸の奥が疼くように痛い。
唯月は逃げ込むようにベッドへ身を投げ出し、シーツに顔を埋めた――。
――その時だった。
閉ざされたはずの部屋に、ひやりとした風が吹き抜け、窓辺のレースのカーテンがふわりと揺れた。
パタパタ、と小さな羽ばたき。
乾いた爪が窓枠を軽く叩く音が聞こえ、部屋の密度が一瞬で張り詰める。
唯月がゆっくりと顔を上げると、枕元のすぐ傍らに、またあのムクドリが降り立っていた。
「私の記憶を話そうか。……かつて私が飼われていた、あの男の記憶だ」
ムクドリは何の前置きもなしに、おもむろに話しはじめた。
「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
彼もまた、お前と同じように、理想の世界を求めていた。
だが、彼が求めたのは、この部屋のような静寂じゃない。
彼は、頭の中で鳴り響く嵐のような交響曲を、現実に引きずり出すことを求めたんだ」
唯月は、薄目を開けて鳥を見た。
「私は毎朝、彼の窓辺に止まっていた。彼は、夜明け前からピアノに向かい、血を吐くような思いで作曲をしていた。
寝る間も惜しみ、食事も忘れ、時には自分の髪をむしり取りながら。
彼の部屋は、いつもインクと汗と、そして激情の匂いで満ちていた。
音楽を完成させるという苦痛と歓喜が、渦を巻いていたんだ」
鳥は、唯月の顔を覗き込んだ。
「お前は、その苦痛を捨てた。
空腹も疲労も、満員電車のストレスも、すべては現実を生きるための『摩擦』だ。
お前はその摩擦をすべて取り除き、無機質なガラス玉のような時間の中に閉じこもった。
――死んだように安らかに、な」
「それが、いけないことなの?」
唯月の声が、少し震えた。
「いいか、よく聞け」鳥は、唯月のベッドのシーツを小さな爪で引っ掻いた。
「お前が求めた『思い通りの空間』は、お前の魂の成長を止める牢獄だ。
ルートヴィヒは、耳が聞こえなくなるという絶望の中で、それでも生きることを選んだ。
完璧ではない現実の中で、完璧な音楽を追い求めたんだ。
その苦しみこそが、彼の音楽に人間としての深みを与えた。
苦痛を感じないということは、感動もしないということだ。
腹が減るからこそ、飯が美味い。疲れるからこそ、眠りが深い。
お前は、その人生の醍醐味をすべて放棄して、ここで永遠の眠りにつこうとしている」
鳥の言葉が、唯月の胸に突き刺さった。
ここは理想郷のはずだった。
しかし、この灰色の鳥の声を聞いてから、
この白い部屋が、急に冷たく、狭い箱のように感じられ始めた。
「……私は、怖かったの。現実で傷つくのが、もう耐えられなかったのよ」
唯月が涙をこぼすと、鳥は少しだけ柔らかな目で彼女を見た。
「傷つくのが怖いか? ……傷つくのは、生きている証拠だ。
あいつは、誰よりも傷つき、誰よりも絶望した。
だが、その絶望を音に変えた。
お前の中にも、言葉にならない叫びがあるはずだ。
それを、この白い部屋の静寂に閉じ込めて殺してしまうのか?」
ムクドリは、そう言い残すと、ふわりと宙に舞い上がった。
開け放たれた窓から、外の理想的な庭園の風が吹き込んでくる。
「目覚めるなら、今だ。
まだ間に合う。
苦痛に満ちた、不完全な現実の世界へ戻れ。
そして、お前だけの旋律を紡ぐんだ」
鳥が窓から飛び去った瞬間、白い部屋の壁が音を立てて崩れ落ちた。
強烈な光が唯月を包み込む。
理想的な庭園も、柔らかいベッドも、すべてが霧のように消え去ろうとしていた。
――いやだ。
唯月の心の底から、叫び声が上がった。
意識は痛いほどクリアに告げていた。
こんな場所に永遠に留まっていてはダメだと、
現実へ戻らなければならないと、
頭の片隅では分かっている。
けれど、身体がそれを猛烈に拒絶している。
目覚めてしまえば、あの青年に、もう二度と触れられなくなる。
この夢が終わることは、あの人が永遠に失われることを意味していた。
「行きたくない……! まだ、あの人のそばにいたい……!」
現実なんてどうでもいい。
あの日常に戻るくらいなら、このまま彼の腕の中で消えてしまいたい。
だが、どれほど心で泣き叫んでも、崩れ行く世界を引き留めることはできなかった。
容赦のない光が視界を白く塗りつぶし、甘美な温もりが強引に引き剥がされていく。
◇◇◇
――ガツンと、後頭部を強打されたような衝撃で身体が痙攣した。
目を覚ますと、そこはいつもの、六畳一間のアパートの自室だった。
現実の強烈な重力が、全身へ覆いかぶさってくる。
頭が割れるように激しく疼き、胃の奥から這い上がる強烈な悪心に、息さえ満足に吸えない。
視界の端が歪み、色を失った世界が明滅していた。
強い覚醒の意志に反して、身体はまるで他人の肉体のように冷たく、一指さえまともに動かない。
窓の外からは、現実の騒音――電車の走る音や、隣人の生活音が遠く聞こえてくる。
思考は霧の中に閉じ込められたように混沌としていた。
焦点の合わない瞳で、ぼんやりと枕元を見やる。
そこには、畳の上に転がる太宰治の短編集。
そしてそのすぐ傍らには、致死量を超える何錠もの睡眠薬がくり抜かれた、空のアルミシートが散乱している。
あの幻想的な石段も、鳥の気配も、死の甘美な誘惑も――。
すべてはこの部屋の惨めな現実と、ひっそりと繋がっていた。
青年の温もりも、春の光も、嘘のように消え去っている。
(バイオリン……)
昏睡が、容赦なく意識を底へと引きずり込もうとする。
呼吸が浅くなり、鼓動が遠のいていく恐怖の中で、唯月は押し入れの闇を見つめた。
あそこにある。
埃をかぶった、黒いハードケースの中に。
本当に身体が動いていたのかは、分からない。
床の上を這いずり、爪を立てるようにして押し入れへと進んだ感触は、夢の続きのように遠く、不確かだった。
ただ、薄れゆく意識の最期に、確かに覚えている。
金具を外し、久しく開けていなかったケースの蓋を持ち上げたこと。
そして、指先で――あの冷え切ったバイオリンの木肌に、すがりつくように触れたことを。
もうまともに音なんて出ないかもしれない。
それでも唯月は、冷え切ったその木肌に愛おしそうに指先を触れ、
ただ、確かにそこに自分の「命の残骸」があることを確かめた――。
冷たく、けれど確かに温かい、命の感触。
――唯月の世界は完全な闇へと叩き落とされた。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
……次に意識が浮上したとき、腕には細いチューブが繋がれ、規則的な点滴の雫が落ちていた。
アパートからどうやってここまで運ばれたのか、どれほどの時間が経ったのか、
記憶は途切れ途切れで何ひとつ判然としない。
「あ、気がつきましたか? 無理に動いちゃダメですよ」
看護師の女性が、顔を覗き込んできた。
どこか安堵したような、気遣うような優しい目をしている。
「……私、……」
「不審に思ったお隣さんが通報してくれて、救急搬送されたんですよ。
丸二日間、ICUで処置を受けていて………今朝ようやく容態が落ち着いたので、この個室に移ったんです」
看護師は、唯月の蒼白な顔を労るように見つめた。
「本当に大事に至らなくてよかった……。
もう少し見つけるのが遅ければ、大変なことになるところだったんですからね」
看護師はそう言って点滴の速度を調整すると、
「何かあったら呼んでくださいね」と静かに病室を後にした。
再び訪れた静寂の中、唯月はベッドの横にある小さな窓へ目をやった。
窓の外には、どこまでもどんよりとした灰色の曇り空が広がっている。
雨が降り出しそうな、不完全で、けれど生々しい現実の空だ。
ふと、夢の中で出会ったあの青年の穏やかな笑顔が脳裏をよぎる。
(あの人は今、どうしているんだろう……)
胸を刺すような切なさがこみ上げ、目頭が熱くなる。
その時、閉め切られた窓の隙間から、ひゅっと微かな風の音が吹き抜けた。
その音の余韻の中に、あの青年の、温かく優しい声が混じった気がした。
――大丈夫だよ。これでよかったんだ。
胸の奥を締め付けていた痛みが、穏やかな波のように和らいでいく。
唯月は、涙で濡れた瞳を閉じて、深く息を吐き出した。
窓の外の曇り空を、もう一度見つめる。
そして、掠れた涙声で小さく、
「……おはよう」
自分自身にそう告げると、激しい自責の念と、行き場のない喪失感がこみ上げ、
身体を震わせながら、声を殺して何時間も泣いた。
◆◆◆
客席から炸裂した万雷の拍手が、重厚なホールの闇に吸い込まれていく。
天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアの光が、一斉に落とされ、舞台上にはわずかな残光だけが残る。
その光の中で、唯月は静かに直立していた。
黒いドレスの裾が、わずかに揺れる。
まだ演奏の余熱が残る指が、微かに震えていた。
大喝采の中で幕が下りる。
重いビロードの幕が、まるで巨大な帷のように、彼女と客席を分断する。
その瞬間、ホールの空気が変わる。
熱狂が裏側へと押し出され、楽屋口へ続く通路には、すでに人の気配が満ちていた。
ハイヒールが床を叩く音は、まるで自分がそこにいないかのように、空虚に響く。
通路の隅では、取り巻きや関係者たちが群がり、
「素晴らしかった」「伝説の演奏だ」と口々に叫びながら、次々と手を伸ばしてくる。
掌が触れ合いそうになるたび、唯月は完璧に訓練された微笑みを浮かべ、優雅に身をかわす。
目は笑っていない。
ただ、冷たいガラスのように、相手の熱を反射しているだけだった。
――いつからだろう。
汗にまみれて必死にもがいていた過去の残像も、痛みも、彼女の視界から綺麗に消え失せていた。
今、そこにあるのは、磨き上げられた賞賛と、汚れのない成功という名の無菌室だけだ。
空気は清潔で、温度は一定で、何ひとつ、彼女の内側を揺さぶるものはない。
予約された高級ホテルのスイートへ戻る前に、
夜の静かな一角で、スタッフたちとごく軽い打ち上げが開かれた。
グラスが触れ合う乾いた音。
誰かが「本当にお疲れ様でした!」と笑顔で声を上げる。
気心の知れた面々が、彼女を囲んで褒め称える。
唯月は、その喧騒を長引かせようとはしなかった。
形だけの乾杯を済ませると、「少し疲れたから」と静かに告げ、誰よりも早くその場を切り上げた。
背後で続く笑い声が、ドアの向こうに遠ざかっていく。
ホテルへ直帰する気にはなれず、あてどなく夜の街を歩いた。
ネオンの光が濡れた路面に反射し、人々の影が長く伸びる。
大通りから少し外れた場所に、ふと目に留まった古びた喫茶店があった。
看板の灯りは控えめで、窓ガラスは曇り、微かにジャズの調べが漏れてくる。
華やかな成功者が足を踏み入れるべきではないような、
ひどく地味で、生活の匂いがする場所だった。
カラン、と寂しげな鈴の音が鳴り、唯月は一番奥の席に腰を下ろした。
注文したブレンドコーヒーから立ち上る湯気が、ゆっくりと揺れる。
彼女は自分の両手を見つめた。
完璧な技術を刻み込んだ指。
誰からも羨まれる地位を掴んだ掌。
その代わりに、いつの間にか心の奥に蓋をして、
見たくないものと一緒に捨ててしまったはずの「何か」が、
今夜はやけに重く疼いていた。
――ふと、カップの向こうに微かな風が揺れた。
そこには誰もいない。
けれど、かつてあの夢の庭園で出会った青年の気配が、
静かにそこに佇んでいるような気がした。
―― 長い時を経た今、青年に伝えたい様々な想いが止めどなく押し寄せてきた。
失くしたと思っていた「本当の感触」が、
冷え切ったコーヒーの苦味と共に、胸の奥へとしみ込んでいく。
唯月はゆっくりと目を閉じ、その微かな痛みを抱きしめるように、静かに息をついた。
夜の街の喧騒が、遠くで波のように寄せては返している。
End
─── ・ 。゚☆: .☽ . :☆゚. ───
【 次回予告 】 8月19日(水)公開
《 ZERO 》ムクドリの目覚め ―― もうひとつの朝
前編・後編、そして、吉原 唯月 もうひとつのエピソード。
すべてが始まる前の、あの傷だらけの朝へ……。

🗝️ ムクドリの目覚め《前編》🔗
🖋️ ムクドリの目覚め《前編-後編》
【マガジン】 🔗
🖊️ 直近の 短編 作品 🔗
・…‥━━━☆━━━…‥・
『 EMOTIONAL MARKET 』
短編小説 集 Vol.2
― 2026. 5 - 8 ―
2026年 5月 から 8月 にかけて紡がれた物語の記録。全10篇 収録。 時の流れに沿って、一冊のアルバムに収めました.。 🔗
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