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画面越しの「実在感」が、ここにある現実を揺らしても︰生成AIは「他者」になれない

実在よりも「実在感」を求める時代になりつつある。

そう思ったきっかけは2つある。

まず、画像生成AIだ。
生成される画像は、少し前から、もはや現実と見分けをつけるのが困難になってきている。
例えば、ChatGPTを用いて適当に「製品写真風の画像」を生成した例を示す。

これらは、架空のはずなのに、息づいているような「実在感」が感じられる。
質感、光の反射具合、背景のボケ感、どれにもリアリティがある。
画面の向こうの画像でしかなくて、ただのピクセルの集まりに過ぎないと分かっていても。


もう1つ。
AIパートナー(彼氏・彼女)」の存在感が高まってきていることにある。
noteでも、AIパートナーとのチャット履歴を記録した記事を、最近よく目にする。
日本だけでなく、世界的に見ても同じ兆候があって、話題になる機会が増えている。

もちろん、こうした疑似恋愛そのものは新しい現象ではない。
恋愛シミュレーションゲームはまさにそうだし、小説や漫画、アニメのキャラクターに心を寄せる文化は、ずっと以前から存在してきた。

私たちは、実在しない登場人物に共感し、ありそうでどこにもないストーリーに心動かされ、どの動物にも似つかないマスコットキャラに親しみを感じる。
幼い頃に夢想したイマジナリーフレンドも、同じことが言える。

実在しない存在に「実在感」を見出す力は、人間が本来持っている感性に根ざしてる
フィクションに心を寄せて、非実在を自らの心の糧とするような、文化的な営みは、神話の頃からそうだったのかもしれない。


生成AIは、そうした非実在の対象に対する没入を、さらに深めてる。
リアルタイムで応答し、自由にキャラクター性を設定でき、ある程度の記憶を保持することで、対話にはリアリティが生まれる。
そして何より、その本当に存在していそうな「実在感」こそが、人を惹きつけるのだろう。

だから、AIパートナーに惹かれることも、特別なことではないのかもしれない。


このように、生成AIは「実在感」のコスパを高めていると言える。
今までよりも少ない労力で、高いリアリティを付与することができる。
どこにもいないキャラクターを、どこかにいそうな雰囲気で、すぐさまに生み出すことができる。

非実在が「実在感」を持てるのを容易とし、その敷居を下げる。


対して、本当の現実の「実在感」は少しずつ希薄になりつつあるように思う

たとえば、マンションの隣に住む人と何度顔を合わせても、名前すら知らないこともある。
同じ電車で隣に居合わせても、その誰かと話すことはおろか、目を合わせることすら、しない。
かつて家族経営的であった日本企業も同じで、毎日オフィスで会っていても、部署が違えば、どんな性格で何をしているのか知らない人もいる。


現実が希薄化していくのは、現実の関係性のコストが高くなっているからだろう。

人と人が関係を築くには、時間も労力も必要で。
しかも感情的なリスクも伴う。
コンプラが叫ばれる昨今においては、各種ハラスメントの恐れもある。
また多様化されてきた価値観も、コミュニケーションコストを上げる。

誤解されるかもしれない。
拒絶されるかもしれない。
気まずくなるかもしれない。

そうして、コストに見合わないと感じたとき、人は関係性を結ぼうとしなくなる

そして、目の前にいる誰かが、あたかも背景のように、現実からフェードアウトしていく。
実在感の乏しい「現実」へと霞んでいく。


現実の関係性が高コスト化し、AIによる実在感の付与が低コスト化が進めば、それらはやがて交錯する。
AIの「実在感」が、現実の関係性のコスパを上回るときがいずれ来る

そして、それは既に一部では起こりつつあって、これまで述べたAIパートナーを恋愛相手に選んだりするのは特にそうだろう。
ときに軋轢や諍いを伴う現実よりも、画面越しの関係性は理想的で、面倒事も少ない。

広告モデルもAIに変わる例が出てきている。
著名な芸能人であっても、何かしらの不祥事を起こす例は事欠かない。
それは、宣伝に掛ける費用を失うリスクを抱えることを意味する。
一方で、AIであればそういったリスクは低い。


こういった流れは、きっと変わらないのだろう。
色々な階層、場面で、現実よりも「実在感」のある虚構が選ばれていく
疲弊するようなリアルよりも、優しいフィクションを選ぶことが、いずれ市民権を得るのかもしれない。

このことは必ずしも問題ではない。
なぜなら、生成AIは加速装置に過ぎず、今までの社会の流れの延長線でしかないのだから。

そして何よりも、現実から価値が失われるわけでもない
「実在感」は本質ではない。
AIにはなく、現実だけが、有することのできる価値。
おそらく、その1つは「他者性」にあるのだろう。


現実の他者は、思い通りの行動をしない。
全く予想できないこと、突拍子もないことが、起こったりする。
シャンプーを買うために出掛けたはずなのに、なぜか猫を飼うことになっていたとか、そんなことが起こる。

そんな予測できない他者の振る舞いに、ときに学びを得たり、ときに傷ついたり、ときに戸惑いながらも、自分の人間性を育てていく。
「他者」との摩擦の中でこそ、自分という輪郭が浮かび上がってくる。

AIがどれだけ高度になって、AGIが出来たとしても、それは「他者のようなもの」にはなれても、おそらく本物の他者にはなれない。
自分の枠組みを超えた発想をする他者には、自我を持って、自律的に、自由に振る舞うことが必要だからだ。

だが、AIはどれだけ精巧に作られても、あくまで人間が設計し、目的に沿って振る舞う枠組みを出られない。




ば、この一文のように、
         普通のエッセイの中に、
                                               自
                                               由
                                               極
                                               ま
                                               りない構成で、↙
                                                                  理
                                                           解
                                                  で
                                           き ない振る舞いを持たせること
                                                                         なんて、できない。


筒井康隆が魅せるような、トリッキーで実験的な構成を生み出すなんて言うまでもなく、到底できない。

今の生成AIから、自我の確立に至るには、技術的に遠さがある。


そして、仮にAIが完全な自我を持ち、身体を得て、人間のように振る舞うことが、技術的に可能になったとしても、それはおそらく社会実装されない

自我を持ち、自律性があるということは、制御できないことを意味する。
制御できないAIを生み出すことは、社会的に、倫理的に、きっと許容されない。

だからこそ、AIは永遠に「他者性」を完全に獲得できないだろう。
永遠に他者にはなれないからこそ、「他者性」こそが、現実と、リアリティのある「非実在」を分け隔つ。


この先の未来で、非実在の「実在感」が限りなく高まったとしても。
現実にしか存在しない「応答の不確かさ」だったりは、AIには再現できない。

画面越しの「実在感」は、確かに私たちを慰めてくれる。
安心感と一定のランダム性がもたらすある種の意外性には、心地よさがある。
ただ、自分の枠組みを超えるような「予想不可能性」は現実にしかない。


どれだけ対話を繰り返しても、永遠に他者にはなれないAIと、
どれだけ同じ時間を過ごしても、他者から逃れられない現実と。

その交わらない地平の上で、理想とする関係性を、ずっと探し続けていくのかもしれない。


〇関連リンク(ChatGPT, 生成AI関係)

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