均される創作の中で、主観が価値を編んでいく︰生成AIと創作
創作は、均されつつあるのだろう。
生成AIは完璧なものを作れない。
それでも、あらゆるものを一定水準を超えるレベルで創り上げる。
文章であれ、絵であれ、音楽であれ。
ある程度の完成度を以って、創作の平均値を押し上げる。
例えば、noteにあふれる生成AI記事。
一瞥しても、それなりの質を有し、論理的にも文法的にも破綻はなく、誤字脱字も殆どない。
それらしい感情が含まれることすらある。
それでも、人が書いた記事とは明確な隔たりがある。
読めば、文章が醸し出す雰囲気で捉えられることも多い。
どことなく、誰の意思も介在していない、そんな雰囲気が。
つまり、文章に漂う「主観」の密度が薄いのだろう。
生成AIが創り出す文には、圧倒的に主観が足りない。
そもそも、「創作」とは誰のためのものなのだろうか。
古代の創作は、自分のためになされたわけではない。
古代エジプトにおいては、神々に捧げる儀式であって、信仰の表現が色濃くあった。
誰が創ったかは重要でなく。
ただ形式美と神性を再現すること、「人智を超えた存在」への祈りを体現することに価値が置かれた。
この構造が明確に転換し、人の主観や作家性が重要視されたのは、ルネサンス以降になる。
自分の捉え方、内面での感じ方、そういった主観が、創作の中に居場所を得ていく。
神性から主観へ。
日本においても、概ねこの潮流は同じだ。
主観とは、感情であり、内面であり、個性であり、これらを作品に植え付けて、自己を表現していく。
そうして、作者の「主観」に価値が芽生えていった。
ただ、その価値が永続的に続くわけでもなかった。
ポストモダンの文脈においては、「作者の死」論によって、作者の主観は解体され、絶対性を失った。
相対化された作者の「主観」は、読者含めた多様な主観の一つとして、矮小化されていく。
そして、この文脈の最果てに現れたのが、生成AIと言える。
生成AIが生み出す表現に感情らしきものがあったとしても、そこには本質的には意図がなく、主観もない。
それらしいものを感じ取ったとしても、実態としての作者が伴うわけではない。
だから、本当の意味での、文字通りの「作者不在」を生み出す。
そうして、主観の匂いがしない文章が大量にあふれつつある。
語りたい主題、表現したい感情、届けたい物語は何なのか?
その問いに、生成AIは答えることができない。
なぜならそこには、「なぜ、いま、この人が、この言葉を紡いだのか」という時間の重みが含まれる。
文章は単なる情報ではない。
書き手の過去、感情、信念、希望といった、目に見えないものたちが折り重なった軌跡でもある。
確かに、生成AIの出力は、巧妙になりつつある。
まるで誰かが本当にそう思ったかのような語り、整った感情、流れるような論理。
けれど、その背後に「創作の衝動」は存在しない。
語りたくて、語らずにはいられなくて、それでも語ることに迷った時間。そういった「ためらい」や「未完の思索」は、生成AIの出力には宿らない。
これからもきっと、主観の砂漠は広がっていく。
一方で、逆説的に本物の作者の主観に希少性が生まれ、価値が高まりつつあるのかもしれない。
文章を意味する「テキスト(text)」の語源は、もともとラテン語のtextus(織物)から来ている。
人が文章を紡ぐとき、多かれ少なかれ、主観の糸を編み込んでいく。
どういう色の主観を、どのようなやり方で編み込んでいくのか、そこにはその人にしか宿らない個性が反映される。
そうして、複雑に編み込まれた「テキスト」は、きっと他の誰にも綴ることはできない。
ポストモダンの波に流され、生成AIの文章の海に漂流した先に、作者の主観への回帰がきっと始まっていく。
※蛇足
これを書くにあたってnoteの創作の定義を読んだのですが、コメントも含むし、かなり概念が広いんですね。
敷居が低いのは構えなくても良いですし、創作する上ではメリットなのかもしれませんね。
それではまた。
〇関連リンク(ChatGPT, 生成AI関係)
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