零れた思考を預けて、考える余白を灯す:生成AIは思考を奪うのか?
「ChatGPTを使うことによって、思考力が低下する」という論文がMITから出ている。
ChatGPTを使って執筆したとき、脳の活動が最も低下すると言う。
これは、新しいものが生まれるたびに、古くから言われたことの焼き直しの印象が強い。
「テレビを見ると頭が悪くなる」と、古くは言われていた。
ゲームをすると、漫画を読むと、ネットをすると、SNSをすると…。
主語を変えて、繰り返された主張。
ずっと同じ危機感を煽り続けているに過ぎない。
言うまでもなく、考えるプロセスを生成AIに丸投げして結果を得るだけなら、脳の活動量が増えるはずはない。
一方で、考えるプロセスの中で生成AIをツールとして活用すれば、思索は深まる。
この話は、それだけのことでしかない。
ただ、この手のニュースを耳にするたびに思うことがある。
ある特定のタスクにおいて、「考えていない状態」は本当に問題なのだろうか?
そうではないだろう。
生成AIが生まれる以前から、人は思考を省略化し、自動化している。
思考のアウトソーシングは、人の営みですらある。
例えば、「お米を炊く」というありふれた家事でさえそうだ。
本来は、気温を加味した浸水する時間、火加減の強弱、吹きこぼれるタイミング、蒸らす時間など、一連の思考が伴う。
その判断の複雑さは過小評価できるものではないはずだ。
もちろん現代において、それらは炊飯器に委ねられていて、殆ど思考することはない。
似た事例には事欠かない。
カーナビによる目的ルートの探索も、エアコンの自動温度制御なども同様だ。
これらは、確かに特定タスクにおいて「考えていない状態」を作っている。
かと言って、人の思考力は低下すると一般的に問題視されない。
では、これらと生成AIを隔てるものは何なのか?
それはきっと「階層」だ。
思考には「階層」がある。
炊飯などの例は、感覚や経験、ルールに基づいた判断のための思考だ。
これらは人による差が生じにくく、また個人の評価に紐づきにくい。
こういった比較的低次の思考が省略化されても、奪われるとは感じにくく、単に効率化として捉えられる。
一方で、生成AIは、創造や論理的な推論といった高次な思考に関わる。
人によって差異が大きく、アイデンティティに繋がる部分だ。
生成AIが突き付けているのは、創造的な思考と思われる部分の一定程度は、人が信じるよりも、さほど高次ではないということ。
その人固有ではないと告げている。
それは個性という火を揺るがす。
つまり、人は思考の機会を奪われたときに、不安を感じるのではなく。
それが、自分の一部をなすと信じたものであったときに、強い抵抗を感じる。
自分の存在価値を危惧し、今回の論文のように「思考力が低下する」と喧伝するに至るのだろう。
現代は、「1日に触れる情報量が、江戸時代の1年分に相当する」と言われることもある。
これは感覚的な比喩にすぎず、明確な根拠は見当たらないが、多大な量の情報に囲まれているのは疑いようがない。
恐らく、この情報量の多さは今後も増していくのだろう。
多くの情報にあふれ、数多のタスクを抱えている状態は、認知的負荷が高い。
高負荷で、余白がないのであれば、創造的な思考はできない。
思考することはエネルギー代謝も大きく、時間的なコストも高いからだ。
認知的負荷を下げるべく、思考を生成AIに委譲する部分があっても、それは自然なことだ。
問題なのは、あらゆるタスクにおいて生成AIに頼るようになって、「考えていない状態」が慢性化することだろう。
そうなったときに、ディストピアなSFにありがちな「AIの支配」が待っているのかもしれない。
だから、思考の階層において、どの範囲まで生成AIに預けるのか、「思考の取捨選択」こそが問われている。
認知的負荷の増大と、アイデンティティの喪失の狭間で、「預けるべき思考は何か」をメタ的に考えていく。
その判断の重要性が高まっていくはずだ。
そして、これが叶ったとき、私たちは適度な考える余白を得て、創造的な未来を灯すのだろう。
〇関連リンク(ChatGPT, 生成AI関係)
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