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昨日の話を、今日もう一回

居酒屋で飲んでいると、隣の席から聞こえてくる話がやけにおもしろくて、つい聞き耳を立ててしまった経験はないだろうか。

見知らぬおじさんの会社であった小さな愚痴や、奥さんに大目玉を食らった話なのだけれど、声のトーンや間の取り方が絶妙で、聞くつもりはないのに耳だけが勝手に隣を向いてしまう。

手元の枝豆に手を伸ばすふりをしながら、「で、どうなったの?」と、話の続きが気になってしまう、あの感覚。

僕がエッセイを書くときに目指しているのは、まさにあの状態なのだ。読んでもらうというより、つい聞いてしまう。しかも義理の相づちではなく、少し前のめりになってもらいたい。

「ためになる読み物だった」と感心されるより、「なんだかおもしろい人の隣に座っちゃったな。もう少し聞いてみよう」と思ってもらえる文章を書きたい。

ところが、実際の僕は、自宅の仕事部屋でパソコンに向かい、うんうん唸りながら文章をひねり出している。隣で愉快に話すおじさんというより、職員室の隅で明日のプリントを作っている人に近い。
 

そんなとき、クリエイターのマイキーさんがエッセイについて書いた、ある一言に出会った。

「昨日した話を、今日もう一回うまく喋り直す」

ああ、なるほど。
僕はしばらく、画面の中のその一行を見つめてしまった。

この人は本当にすごい。僕が「読者との距離感」だの「語りの臨場感」だの、つい書店の文章術コーナーへ迷い込みそうな言葉で考え込んでいたことを、友達に話しかけるようなたった一行で済ませている。

例えるなら、「おもしろい文章とは何か」を調べるため、僕が物置から脚立と巻き尺を持ち出していたところへ、マイキーさんは缶コーヒーをカコンと開けながらふらりと現れ、「昨日の話を、今日もう一回うまく喋ればええんちゃう」と、そのへんに腰を下ろしたようなものだ。

僕が長年目指してきた「隣で話す人」の極意が、そこにあった。

とはいえ、僕が普通に文章を書くと、隣に座った話好きのおじさんではなく、黒板の前に立つ生真面目な先生になってしまう。

理由はわかっている。僕は長いこと技術ブログを書いてきたし、本業では教科書を作っている。どちらも、誤解なく、順序正しく、最後にはきちんと結論まで連れていかなければならない。

それが仕事では役に立つのだが、エッセイになると、頼んでもいない先生が文章の中へ入ってくる。

たとえば、スーパーでバナナを選んだだけの話なのに、気を抜くと「以上のことから、バナナは食べる日を想定して購入することが重要です」などとまとめ始める。僕はいったい、バナナ売り場で何を教えようとしているのだ。

文章というものは、たった一言で急に別の職業へ転職する。

「ということを覚えておこう」と書けば、たちまちゲームの攻略本みたいな顔つきになる。「以上のことから」と書けば研究報告になり、「大切なのは」と書けば、いきなり校長先生が朝礼台に登り始める。

挙句の果てに「つまり人生とは」なんて書こうものなら、スーパーのバナナ売り場に立派な演台とマイクまで運び込まれてしまう。

これでは、隣の席の愉快なおじさんではなく、ただの説教くさい面倒なオヤジである。 違う。僕が書きたいのは、そんな仰々しい演説ではない。

そこで僕は、文章の中へ出てくる先生の話をそらすために、比喩を使う。

固い話が始まりそうになったら、横から妙なものを走らせるのだ。エアコンを大物俳優のように丁重に迎え、五枚刃の髭剃りを働かない社員に仕立て上げ、バナナ売り場を将棋の緊迫した対局場にする。

しかも僕は、一度思いついた比喩の世界から、なかなか帰ってこない。

銀歯と金属スプーンで電気が走る話では、口の中に発電所を建てた。すると脳内にも支店ができ、テレビで誰かが金属スプーンを使うだけで、全施設が一斉に稼働し始める。

髭剃りの話でも、肌を守る乳液を「事故処理班」に任命し、替え刃には「定年後の再雇用」をお願いした。

そんなふうに一度作った世界にしばらく住み、その土地の住人を増やしながら話を続ける。僕はどうやら比喩を一文の飾りではなく、短期滞在先として使っているらしい。

マイキーさんが、おもしろい話を素手でひょいっと捕まえる人だとしたら。僕は網を持ち、罠を仕掛け、捕獲予定地点の地図まで綿密に描く人なのだと思う。ずいぶん大がかりだけど、それが僕のやり方なのだから仕方がない。
 

先日、そんな僕の書き方を確かめたくなり、Claudeにそれまで書いた233本のエッセイをすべて読んでもらった。自分の話し方が見つからないので、AIに捜索願を出したのである。

すると、おもしろい結果が出た。

・円環構造(最後に冒頭の話題に戻る):92.7%
・比喩の使用:99.6%
・トラ子さん(妻)の登場:84.6%

こうして並べると途端に月曜朝の会議資料みたいだが、僕はかなりの高確率で、一度遠くへ話が脱線しても最後にきっちり最初の場所へ戻ってくるらしい。方向感覚がいいのか、遠くへ行く勇気がないのかはわからない。

そして、普通に言えば済むことを、比喩を使ってほぼ毎回どこか別の世界へ連れていっていた。まぁ、それを楽しんでいることは否めない。

極め付きは、トラ子さんの登場率84.6%だ。

それを昨日の夜、本人へ報告した。

「そういえば、トラ子さん84.6%だって」

「なにが?」

「トラ子さんの出演率」

「わたし、そんなに喋ってる?」

喋っている。正確には、本人がまったく覚えていなくても、僕が勝手にエッセイの中で再現フィルムを回して喋らせている。100本書けば、およそ85本に妻が出る。もはや相生エッセイという番組の看板女優である。

そして分析結果にはもうひとつ、僕を喜ばせる数字があった。

これまでに使った558個の比喩には、ほとんど使い回しがなく、ほぼすべて一回限りの表現だった。さらに、233本のエッセイには、それぞれ異なる切り口が使われていた。

毎日、頭に汗をかきながらひねり出してきたものが、「あなたは233本、ちゃんと違う話をしてきました」と数字になって返ってきた。

AIが見つけたのは、一般的なエッセイの書き方ではなく、僕が隣に座ったときの、不器用で大げさな話し方だった。233本、同じ場所をぐるぐる回っていたわけではないと認めてもらえたようで、正直かなり嬉しかった。

でも。
自分の型を知ってしまうと、今度はそれが気になり始める。「まだ比喩を使っていない」「そろそろトラ子さんを出した方がいいんじゃないか」「最後に冒頭へ戻る道を確保しなければ」……。

そんなことを考え始めたら、「隣で話す人」ではなく、「僕のエッセイを必死に再現する人」になってしまう。

友達と話しながら、「このあたりで妻を登場させれば、僕らしさが84.6%まで上がる」などと考える人はいない。いたら、その人は友達の顔を見ながら、頭の中で視聴率会議を開いている。

型というものは、守るために先回りして置くものではなく、自然に書いてきたあとを振り返ると、そこに残っている足跡なのかもしれない。

……などと書くと、また先生が出てきた。
危ないところである。今、バナナ売り場の奥から演台を運び込もうとしていた。

僕はやはり、計算やテクニックなんか忘れて、隣でおもしろい話をするおじさんになりたいのだ。磨くべきは文章ではなく、どうやら僕自身の感性らしい。

その理想とする感性に少しでも近づきたくて、吉田戦車さんや、さくらももこさんのエッセイを読んでいる。そこへきて、僕の大好きなずん飯尾さんもエッセイを書いていると知った。

しかし、きっとゲラゲラ笑ってしまって、まったく勉強にならないのだろう。でも、それがいい。そんな文章を書ける人になりたい。
 

「昨日した話を、今日もう一回うまく喋り直す」というマイキーさんの言葉。

僕には、「あれこれ難しく考えなくてもいい」と言われたように聞こえた。本当にいい言葉だと思う。

ところが僕は、その一行について構成をこね回し、比喩を持ち出し、過去233本の分析結果まで引っ張り出して、こうして一本の長いエッセイにしてしまった。

僕はどうやら、昨日した話を今日もう一回うまく喋るために、頭の中で大真面目な会議を開かないと気が済まないらしい。まったく面倒な性格だが、まあ、それが僕の話し方なのだろう。
 

そして、この文章を書いている今朝。

僕は洗濯機の前にいるトラ子さんに、このAIの分析結果とマイキーさんの素晴らしい名言について、身振り手振りを交えて得意げに語って聞かせた。

「……それ、昨日の夜も聞いたよ」

そうである。
だから今日、もう一回、うまく喋り直しているのだ。

 
  
相生エッセイ



▽ 僕に「昨日の話を、今日もう一回」考えさせてくれた記事です。


 

▽ note創作大賞2026に応募したエッセイ作品はこちらに収録しています。ぜひ読んでみてください。



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