見出し画像

エッセイが書けないと悩んでいるあなたへ

 「エッセイの書き方も、まだよくわかってない…」

 今度開かれる、須川さん&まきさん&りっちゃんさんの「文藝大賞2026」


 その企画へ参加しようとしているkenさんの記事に、冒頭の言葉や、「どうやったら文章力つくの??」「僕は文章書くのがそんなに得意じゃない」という悩みが書いてあった。


 それを読んだ僕は、とりあえず「だ・である調で書けば、大体エッセイっぽくなります」とコメントした。

 我ながら適当すぎた。
 床いっぱいにレゴをぶちまけた子どもの前で、「タイヤを四個つけとけば、大体車っぽく見える」と教えているようなものである。

 コメント投稿したあと、さすがに気になった。僕は普段どうやってエッセイを書いているのだろうか。

 とりあえず、教本に書かれてるような、起承転結を考えたことはない。PREP法の「P」の位置を確認してからキーボードへ向かったこともない。
 むしろ、そういうのを意識し始めると、指が止まるし、自分の言葉は消えていく。
 友達に話しかけるときに、「まず結論から申し上げますと、昨日、娘と熊谷花火大会へ行きました。理由といたしましては――」などと喋り始めたら、「こいつ、どうした?」と思うだろう。

 では、どうやって書いてるか。
 たいてい最初は、「ちょっと聞いてや〜」である。ここ最近だと「花火行ってきてん」

 試しに、この前行った熊谷花火大会を思い出してみる。

 娘に花火デート誘われてん。これ、もしかしたら最後のデートかもしれへん。そういや土手沿い、めっちゃ人おったわ。
 トイレもめっちゃ混んでた。全然帰ってこん。
 そういや、屋台で金飛ぶん覚悟しとったんに、全然興味示さんかった。大人になったわ思ったけど、ちゃうわ。帰りにラーメン食べたい言うとった。我慢しとっただけやろ。
 そういや熊谷の花火って提供制なんよ。なんぼや思う?六万やって。
 来年、六万払ったら、また娘とデートできるんやろか。


 ひどい。この時点では、エッセイというより、一方的に喋っているひとりごとである。聞かされた方も、「おー、そうなんや、よかったな」くらいしか返す言葉もないだろう。

 机の上には、まだレゴが散らばっている。ひと通り書いてから風呂に入ったり、タバコを吸ったりしているとき、ふいに思う。

 「あれ、六万円の話から始めた方が良かったんちゃう?」

 会話なら手遅れである。三十分前に話した友達へ電話をかけて、「さっきの花火の話なんやけど、一回全部忘れて。構成変えて最初から喋るわ」と言えば、おそらく次から電話に出てもらえない。

 だけど、文章なら何度でも書き直せる。途中で「ラーメンいらんな」と思えば消してもいいし、「そういえば、小さかった頃はこんなことがあった」と思えば過去の出来事を差し込んでもいい。

 僕は床に散らばったレゴを、一個ずつ拾って組み替えるように、いったん全部しゃべってから、「こう喋った方がよかったな」とやり直している。

「昨日した話を、今日もう一回うまく喋り直す」


 これくらいの気持ちでエッセイを書くくらいが、ちょうど良いのかもしれない。



 「文章を書くのが苦手」と言っていたkenさんだが、実はエッセイの素養は十分にある。先日、こんなコメントをもらった。


 これを書く前に、kenさんは腕を組みながら、「このコメントを通して、僕はマイキーさんに何を伝えたいのだろう」なんて考えたりはしてないはずである。もし考えていたら、それはそれでちょっと怖い。

 ところが、よく見るとちゃんと話が流れている。

 僕が三重県の熊野へ来たことに驚き、熊野の花火大会について自分が知っていることを話し、娘との花火デートを羨ましがり、最後には「愛しの奥様は?」と妻の所在を確認するオチまである。

 下手すると、僕が一時間かけて書いた記事より構成ができている。

 しかも、「熊野ーー!」と元気よく叫んでいるが、僕が行ったのは埼玉県の熊谷である。三重県には一歩も足を踏み入れていない。ボケまで入れてくるとはさすがである。

 では、このコメントを、最初に僕が投げつけた「だ・である調で書けば、大体エッセイっぽくなる」という雑な助言に従って書き直してみよう。

 マイキーさんが熊野に来た。三重県の熊野である。
 まさか、はるばる三重まで来てくれたとは思わなかった。
 
 熊野の花火大会は、かなり人気がある。僕も名前は知っているが、それ以上に気になるのは帰り道だ。大渋滞になるらしい。花火を見る時間より、駐車場から出る時間の方が長いのではないかと思うほどである。

 そんな熊野の花火大会へ、高校生の娘さんとデートしたらしい。聞くだけでも羨ましい話である。同じパパとして、見習いたいものだ。

 しかし、愛しの奥様を連れて行かないとは、なんて薄情な旦那だろう。


 比喩をぶち込まなくても、もう短いエッセイくらいには見える。違うのは、絵文字が頑張っていた仕事を文章へ戻したことくらいである。

 「帰り道は車の渋滞で帰ってこれないと噂に聞いてます😂」


 この「😂」は優秀なパーツだ。
 
 「大変らしいですね」と心配しているだけでなく、「いや、それ花火より帰りが本番やん」という軽いツッコミまで入っている。
 渋滞に巻き込まれる本人ではないからこそ笑える絶妙な距離感まで、「😂」で済ませれる。

 ただ、この優秀すぎる絵文字をどう調理するかが、エッセイの見せどろこでもある。

 「帰り道は大渋滞になるらしい。花火を見る時間より、駐車場から出る時間の方が長いのではないかと思うほどである。」


 「😂」を消した代わりに、そこに入っていた「そんなに渋滞するんかい」を膨らませてみた。


 コメントなら、「それな🤣」で終われる。

 エッセイを書くときは、「僕は、何がおかしくて🤣を押したのだろう」と立ち止まり、絵文字に任せていた「感情」を引っ張り出すことで、書ける幅はグンと増えるから、ぜひ試して欲しい。


 ただし、僕にはもう一つ面倒な作業が残っている。

 ここまで「友達に喋るように書けばいい」と言ってきたが、僕が本当に喋るつもりで書いたら、当然のように全部関西弁になる。かと言って、最初から標準語で書こうとすると、今度は言葉が出てこない。

 だから、一通り書き終えた後に、「なんでやねん」は「なぜそうなるのだろう」へ、「ちゃうねん」は「そうではない」などと、翻訳という名の罰ゲームが待っていた。
 これが、まぁこそばゆい。知らん作家のようになった違和感を適当に比喩とかで馴染ませ、最後に「だ・である調」へ整えることで、なんとなく僕のエッセイは出来上がる。



 エッセイを書こうとするとき、「テーマはどうしよう」「構成を考えなきゃ」「読者へ何を伝えよう」などと考えるほどに難しくなる。

 少なくとも僕は、パソコンの前で正座して、「今日はエッセイを書くで」と精神統一したことはない。

 昨日した話を、今日もう一回うまく喋り直し、絵文字の感情を膨らませ、標準語に翻訳し、最後に比喩と「だ・である調」で、それっぽく整える。

 「だ・である調で書けば、大体エッセイっぽくなります」


 あれこれ考えてみたけど、最初にkenさんへ送った適当なアドバイスも、あながち間違ってなかったのかもしれない。


 それよりも問題は、この記事のオチが決まってないことである。

 とりあえず、昨日「うんこしりとり」について書いたし、「タイトルでしりとり」をしよう。

 「エッセイが書けないと悩んでいるあなたへ

 kenさん。次は「」である。
 文藝大賞の試運転として、「へ」から始まるタイトルでエッセイを書いてみなはれ。そして、この「 #エッセイしりとり 」を、三人に回すのだ。

 書き方がわかったら、次は面白くする方法である。まぁ、それはkenさんが「へ」で一本書いてから考えよう。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集