「TAP BAR 10」色彩のバーテンダー 〈1. 琥珀のペールエールと仮面の花嫁〉
【あらすじ】
銀座の路地裏にひっそりと佇むクラフトビール専門バー『TAP BAR 10』。
10種類のビールが日替わりで並ぶこの店には、今日も様々な事情を抱えた客たちが訪れる。
かつて球場でビールの売り子をしていた立花真琴は、風変わりなオーナー・神崎に見出され、この店の店長となった。彼女には、人の嘘や感情が「色」として視えるという厄介な秘密がある。
復讐に囚われた花嫁。
誰にも言えない後悔を抱えたアイドル。
笑顔の裏に本音を隠す人々。
真琴がその日の感情や心の揺らぎに合わせて仕立てる一杯は、客たちの絡まった本音を静かに調律し、心を少しずつほどいていく。
けれど、人の心を見つめ続ける真琴自身もまた、消えない過去を抱えていた──。
ほろ苦いビールの香りに包まれた、少し不思議で優しい連作ライトミステリー。
1. 琥珀のペールエールと仮面の花嫁
銀座の路地裏は、夕暮れ時を過ぎると、地上の喧騒を吸い込んだようなじめりとした独特の湿り気を帯びる。高級クラブ前に停まるハイヤーの低いエンジン音、居酒屋を探すサラリーマンの笑い声、急ぎ足で通り過ぎるヒールの音。
それらに混ざって、視えなくても良いものまで、立花真琴は視えてしまう。例えば、笑い声の裏に潜む、刺すような嫉妬。挨拶の隙間から漏れ出す、どろりとした嘘の残響。
声色や表情、佇まい、あるいは指先の微かな動き。そうした行動の端々には、無意識のうちに、剥き出しの感情や意志が強く込められている。
真琴の瞳には、それら全てが本音を映し出す「色」となって、その人の輪郭から溢れ出して視える。嘘をついている人は、どんなに鮮やかな色の中にも必ず濁った黒が混ざる。激しい怒りを抱く人は、刺すような深紅を纏う、といった具合に。
実際はもっと複雑で、制御不能な色のノイズは容赦なく真琴の感覚を侵食してくる。
「……はぁっ、うるさい」
思わず、こめかみを指で押さえた。
幼い頃から備わっていたこの厄介な体質には、いい加減もう慣れたと思っていたのに、今日みたいなじめっとした日は、なぜか特に敏感になる。
大通りから横道に入り、老舗のフラワーショップを曲がった小さな路地の一番角。
ごちゃ混ぜになったノイズを振り切るように、地下へ続く狭い階段をゆっくりと降りていく。すう、と大きく息を吸い込むと、一段降りるごとに肺の中の空気が入れ替わる。地上の音が遠ざかり、代わりにひんやりとした静寂が足元から這い上がってきた。
突き当たりの、小さな木製ドア。中央に掲げられた『TAP BAR 10』のプレートを、指先で愛おしむように撫でた。
ギィッ……
見た目よりやたらと重い扉を引き絞ると、琥珀ガラスのアンティークランプがパッと灯る。オーナーがモロッコの路地裏で見つけてきたらしい、自慢の掘り出し物。「100年モノのヴィンテージだ」なんて息巻いていたけれど、実際は観光客相手の土産物屋で体よく売りつけられただけかもしれない。けれど、真琴はこれがたまらなく気に入っている。煮詰めた蜜のような、濃密なオレンジの光。地下の冷えた空気を一瞬で溶かし、店内の隅々まで、懐かしい温度で満たしてくれる。まるで、どこか遠い異国の、名前も知らない古い街の酒場に迷い込んだ、そんな錯覚を味わえるのが心地よかった。
冷蔵ショーケースの低い唸りと、壁に掛かった古時計の刻む音が、店内に響く。
「なんか……今日は空気が重たいなー。やんなっちゃう。ねー、ピョコ太?」
ピョコ太はレジの横に座っている小さな蛙の置き物。これもまた、オーナーがどこかから買ってきた土産物だ。こう見えて独りでいるのはあまり得意ではないので、勝手に名前をつけて話し相手になってもらっている。
小さなスイングドアを腰で押しながらカウンターに入ると、まずは両手の爪先まで、指を一本一本丁寧に洗う。汚れがないことを確かめてから、紺色のエプロンをきゅっと締める。ここで働き始めてもう数年、開店前のルーティーンはもう慣れたものだ。
柔らかなリネンを手に取り、十本の真鍮製タップを順に拭き上げていく。
キュッ、キュッ、と音がする。
タップの先端を掠めると、金属を伝って微かな振動が指先に返ってきた。サーバーの中で冷やされているビールの温度、炭酸の溶け具合。一つずつ調整していくこの工程は、ピアノの調律みたいだなといつも思う。まあ、ピアノを弾いたことは、ほとんどないのだけれど。
カチャ。背後の勝手口が開く。
「よお、真琴ちゃん。今日もおつかれ!」
大きな木箱の向こうから、ご近所の八百屋の店主、長さんがひょこっと顔を覗かせている。いつも通り、橙色の安心する声。
「おつかれさまです。昨日のトマト、間に合いました? ほんっとにすみません、いつも遅い時間の発注で……」
「いいのいいの。さっそく持ってきたぞ! ちょうど熊本のいいのが入ったところでな。それにしても、参ったよ。さっき、中央通りのホテル前で、冷蔵トラックが何台も立ち往生しててさ」
「中央通りって……グランドホテルKですか?」
「ああ。こっちも納品しなきゃなんねえのにびくとも動かなくなっちまって、途中から手運びだよ。おかげで俺の腰もガタガタだ」
「この時間に冷蔵トラックが何台も……それは珍しいですね」
「だろ。いつもあそこのホテルは冷蔵の納品が朝8時までって決まってるはずなのになあ。しかも、前の一台が変な止まり方しちまってよ。あとの連中も唸りを上げたまま動けやしねえ。それより……なんだ?」
長さんはガタンと音を立ててテーブルに木箱を置くと、カウンター越しから真琴の眉間の皺を覗き込んだ。
「また、変なもんが見えるのかい?」
「……いや、今日は湿気が強いなぁと。昔から苦手なんですよねぇ、こういう空気」
「真琴ちゃんは売り子時代から晴れ女で有名だったからな。けど、雨も悪いことだけじゃあねえぞ。野菜と果物にとっては、命の水だ。とりあえず、俺の持ってきたトマトでもかじりな」
「ありがとうございます。今日はこの後、飲んでいかれます?」
長さんはもう何年もうちに通ってくれている常連で、オーナーとカウンターでだらだら話すのが好きなのだ。まるでコンビ漫才のようなテンポの良い会話に、よく混ぜてもらっている。
「まだ仕事残ってっから。もし早く終わったら来るよ」
「わかりました。くれぐれも、腰。無理しないでくださいよ」
「ああ。真琴ちゃんも、無理し過ぎるなよ!」
長さんは、嵐のように去っていった。
残された木箱には、ソフトボールサイズのトマトが規則正しく並んでいる。二十二個。二個はサービスだろう。相変わらず、丁寧な仕事だ。あの大雑把な口調からは想像できない。
最近は、効率を重視してなのか、機械的に箱詰めされた表情のない野菜ばかり出回っている。でも、長さんのは違う。土の匂いがして、一つひとつに重みがある。
中から一番小ぶりなものを選んでそっと手に取ると、ずっしり重い。まるで岩だ。
「これは、チーズと合わせたら最高だろうな……」
こんなに中身が詰まっているトマトは初めて見た。モッツァレラと合わせて、カプレーゼにしよう。
「……それ、僕も一個いいですか?」
不意に背後から響いた、からんと澄んだ声。アルバイトの篠宮豪。また、裏の勝手口から滑り込んできたらしい。
180センチをゆうに超える身長に、韓流アイドルのような端正な顔立ち。姿勢が良く、名門校の生徒会長を思わせる品のある佇まい。なのだが、口のまわりにトマトの汁をべったりつけている。
(こういうギャップ、少女漫画なら確実にモテるポジなのに、なんでこんなに残念なんだろう)
「おはようございます! 今、長さんに挨拶しようとしたら、口に放り込まれました。これ、めっちゃくちゃ甘いっす!」
きらきらと輝かせる瞳が、その言葉を裏付けている。
「豪、おはよう。今日も相変わらず、綺麗な顔してるわね」
「へへっ。まぁ、真琴さんには負けますけど」
「それより、」
「へっ?」
「まずはその口を拭いて。あと、タイムカードも」
「っ、そうだった」
ふにゃりと相好を崩し、バタバタとレジへ向かう姿は、尻尾を振る大型犬のようだ。
豪はちょうど一年ほど前に入った大学生アルバイトで、週末や特に忙しい日を中心に手伝ってもらっている。主にフードの仕込みや清掃の担当で、常に表に出ているわけでもない。それなのに、「こんな好青年、どこで見つけてきたんだ!」とお客さんから問い詰められることもあるほど、全体的に出来が良い。本当に、どこで拾ってきたのか。オーナーのスカウト力には目を見張る。
「豪! それ、カプレーゼにするから」
「了解っす。やっときます。任せてください」
指示がこれ一言で済むのだから、楽でいい。一家に一人欲しい有能さだが、調子に乗るだろうから本人には言わない。
奥のキッチンから手際よく仕込みを始める音を聞きながら、意識を切り替えた。
このバーにあるのは、かつて世界中を旅した(らしい)オーナーが厳選した、十種類のクラフトビール。顔ぶれは気まぐれで変わる。
味、色、のどごし、泡立ち。グラスの形ひとつで、その表情は劇的に変わる。ここに雇われるまで知らなかったことだ。奥深さに触れるうちに、いつの間にか、一杯のビールを最高の状態で提供することが自分の誇りになっていた。
大学時代、球場で売り子をしていた頃を思い出すと不思議な気分だ。あの頃は、ただ同じ銘柄のビールを何杯売るかが勝負の世界だったから。(知識も経験もないただの売り子をバーに連れてきて店長にするなんて。やっぱりオーナーはどうかしてる)
もっとも、オーナーのうんちくを聞きながら知識を得るのは、単純に面白くもある。そしてその知識を元に、ビールを最高の状態でお客様へ届けるのが、今の私の役目だ。
レギュレーターのダイヤルを、指先でそっと回す。
ビールは生き物だ。今日のように湿気がまとわりつく日は、樽の中のガスが膨張して機嫌を損ねやすい。空気の重さに負けないよう、理想の喉越しを設計するためにガス圧を微調整する。
圧力を高めれば刺激的な喉越しに、低く抑えれば麦の重厚な味わいが際立つ。そのスタイルが持つ、一番美味しい正解を探り当てる。
カウンターに備え付けられたリンサーの上でグラスを伏せると、ジャッと鋭い水圧が内側を清める。水気を纏ったまま、今日の十種類に合わせて、一つずつ丁寧に並べていく。
仕上げにタップのハンドルを手前に引くと、サーバーの管に残っていた最初の一口を、数ミリだけパージする。
「……よし」
あっという間に、時計の針が午後六時を回ろうとしていた。
慌ててカウンターを出る。
それから自分の心を整える儀式のようにゆっくりと、入り口の「OPEN」の札を裏返した。
◇
──カツ、カツ、カツ。
午後六時十二分。扉の向こうから、乾いたヒールの音がゆっくりと近づいてきた。
聞きなじみはないが軽快で、どこか強い意志さえ感じられる。一段ずつ、迷いを振り切るように降りてくる音。
ドアが開く。
カウベルの乾いた音と共に滑り込んできたのは、夜の帳を切り裂くような、場違いなまでの白。
シルクの光沢が美しい、体のラインを際立たせるマーメイドドレス。右手には、ドレスと同じ色の小さなクラッチバッグが、指先が白くなるほど強く握られている。ゆるく巻かれたシニヨンには、小洒落たラメのヘッドドレスが星のようにしがみついていた。
「いらっしゃいませ」
努めて冷静に声をかける。
だが、彼女と視線がぶつかった瞬間、胃の奥が冷たく縮んだ。
どす黒い紫。視界が、彼女が持ち込んだ圧倒的な色のノイズに一瞬でジャックされた。それは、祝福の白を侵食するように彼女の背後から立ち上る、どろりとした暗い紫色の澱。
花嫁が纏うにはあまりに重く、粘り気を帯びた後悔の響きのように視える。
「ねぇ……ここ、ビールしかないって本当?」
カウンターの端に滑り込むように座った彼女の声は、カサカサに乾いていた。
「はい。うちはビール専門で。お酒はあいにく、ビール以外のご用意がありません」
真琴が少し前屈みで答えると、彼女はふっと口元を綻ばせた。
「……最高ね。今は、甘いカクテルも、お祝いのシャンパンも、吐き気がするから」
自嘲気味に笑う彼女の喉元から、鋭い火花のような拒絶の赤がパチリと爆ぜた。
ふと視線を上げると、至近距離で結ばれた唇が目に入る。リップラインから丁寧に引かれたルージュは、ドレスの華やかさとは対照的に、オレンジベージュで上品にまとめられている。年齢は自分より少し上、三十半ばくらいだろうか。
手元に視線を落とす。左手の薬指には、シンプルなソリティアリング。鏡のように光を跳ね返す、傷一つない輝き。だが、その無垢なダイヤモンドすら、彼女の纏う紫の澱に浸食されてくすんで見える。
対照的に、小指のゴールドは細やかな彫りが少しレトロなデザインで、中央には小さなサファイアが埋め込まれている。丁寧な仕立てが伺えるそのリングは、サイズが少し大きいのだろう。指を動かすたびにくるくると回り、華奢な指をさらに細く際立たせている。
さらに、指先には今にも折れてしまいそうなほど長く真っ白な爪が、ピンと強張っている。
カウンターを拭いていたクロスを置くと、ゆっくりと彼女の正面に立つ。
さて、このノイズを、どこから調律していこうか。彼女の胸に潜む影を、どの一杯でほぐせるだろう。バーテンダーとしての本能が、静かに、そして鋭く研ぎ澄まされていく。
「……メニューをもらえる?」
しばらく無言で座っていた彼女は、カウンターに投げ出した自分の指先を見つめたまま、低い声で呟いた。真琴はその姿を確かめながら、ほんの少し背筋を伸ばす。
「フードメニューはこちらになります」
カウンター横の、小さな黒板を指さした。
「ええと……ビールは?」
「当店では、その日によって異なる十種類のビールをご用意しています。もしよろしければ、私がお客様に合う一杯をお選びいたします」
「それはつまり、お任せ、ってこと?」
ふっと視線を上げた彼女の瞳には、わずかな熱も宿っていない。ただ全てを投げ出したような、粘り気のある紫の静寂が、真琴の感覚をじわりと圧迫した。
「はい。一杯一律で、千五百円を頂戴しております」
「……それじゃ、一杯お願いできるかしら」
「承知いたしました」
真琴は両手をすっと臍の下に添えると、カウンター越しに頭を下げた。
カウンターの中で、タップと向き合う。
まずは、彼女の喉元でパチパチと爆ぜる拒絶の赤を鎮めたい。けれど、ただ喉を叩く冷たい刺激では足りないだろう。豊潤で飲みやすく、それでいて深い奥行きもほしい。今の彼女に必要なのは、体温に溶け込むような包容力のある一杯だ。
十本のタップの中から、左から三番目のタップへ手を伸ばした。
ベルジャン・ペールエール。
ベルギー酵母が醸し出す、熟した果実のようなエステル香。フルーティーな香りの層で荒れた感覚を包み込み、穏やかな苦味で、浮き足立った心を地面へと着地させる。
香りを贅沢に抱き込むチューリップ型のグラスを、斜め四十五度に傾ける。タップを手前に引くと、サーバーの中で熟成されていた液体が、滑らかな曲線を描いてグラスの底へ滑り込んだ。
シュアア……
静寂の中に響く、シルクが滑るような密やかな音。真琴は指先の感覚だけに集中し、最後の一滴まで神経を研ぎ澄ませる。
仕上げに、ベルベットのようなきめ細やかな泡で、そっと蓋をした。
「お待たせいたしました。ベルジャン・ペールエールです」
琥珀色のビールが静かに揺れるグラスを、ゆっくりとコースターの上へ滑らせる。
グラスの中で、細かな気泡が星のようにきらきらと昇っていく。
「……綺麗な色ね」
彼女は、両手でグラスを包み込んだ。
だが、すぐには口をつけない。微動だにせず、琥珀色の液体をじっと見つめている。まるで、何かを確かめるかのように。
それから数秒後、ゆっくりと喉を鳴らした。
コク、コク、コク。
喉を鳴らした彼女の背後で、パチパチと爆ぜていた赤が、わずかにその勢いを弱めた。
完全に消えたわけではない。ただ、鋭かった棘の先が、ビールの柔らかな泡に包まれて少しだけ丸みを帯びたように見えた。
「何これ……ビールなのに、スパイスの香り」
彼女が、驚いたように顔を上げる。
「はい。ペールエールといえばイギリスやアメリカが主流ですが、こちらはベルギーのものです」
彼女は、吸い寄せられるように再びグラスへ口をつけた。
「少し、スパイシーな香りが特徴です。甘いだけじゃない、でも苦いだけでもない……複雑で、でもバランスの取れた華やかなスパイスの風味が、少しだけ心を自由にしてくれるはずです」
「……自由」
言葉を噛み締めるように、今度はグラスをそっと傾けた。
「これ、結構深い色に見えるけれど。ペールって、淡いって意味よね?」
「はい。本来はもう少し淡い色ですが、ベルギー系なので、少し深みのある色合いなんです。それと、勝手ながらその純白のドレスを拝見して、花嫁のベールに似ているな、とも思いまして」
「ベール……」
「淡い色合いの奥に強い意志を秘めたこの一杯を、今のあなたにお出ししたいと思ったんです」
彼女が、ぴくりと肩を揺らした。グラスを包む指先に、ぎゅっと力がこもる。眉間にわずかな影が差し、拒絶とも迷いともつかない歪な皺が寄った。
少し、踏み込んだ話をしすぎたか。真琴は、自身の内に芽生えたわずかな迷いを振り払うように、姿勢を正した。
「失礼いたしました」
そう言って小さく顎を引くと、目線を伏せたまま、コースターのわずかなズレを指先で直す。
「……自由。そうね、このドレスを脱いだら、私はただの私になれるのかしら」
彼女がぽつりと溢した言葉が、ビールの泡のように静かにカウンターの上へ消えていく。
返事の代わりに、真琴は彼女の背後で揺れる深い紫をそっと視線でなぞった。その澱の中に一筋、残響のような黄金色が、細い糸のように混ざっている。この色に、一体何の意味があるというのか。
「そのドレス、お客様にとてもお似合いです」
手元のカウンター周りを手早く片付けながら声をかけると、彼女がすっと目元を垂らした。
「……そう? ありがとう」
「私、昔少しだけホテルのブライダルサロンでアルバイトをしていたことがあるんです。バンケット部門のスタッフとも親しくて、マーメイド型のドレスを選ぶ方が少ないのは着こなすのが難しいからではないか、という話をしたのを思い出しました」
「確かに、王道ではないものね。それにしても、今回初めて知ったわ。ドレス選びって、見た目の印象より生地やフィット感が大事なんだって。ただ着られてるだけになっちゃうのは、駄目ね」
彼女は少し寂しげに笑いながら、グラスの縁をなぞった。その視線はどこか遠く、ここではない場所を見つめている。
真琴は、そのわずかな表情の揺らぎに、静かに目を細めた。
「でも、何か特別な事情がおありなんですね」
グラスをなぞっていた指先が、ぴたりと止まる。彼女はゆっくりと顔を上げると、自嘲気味に口角を上げた。
「……私、今そんなに複雑な顔してたかしら」
「いえ、とんでもございません。ただ、少し違和感がありましたので」
「違和感?……おもしろいわね。聞かせて」
きりっとした目元で真っ直ぐにこちらを覗き込んでくる瞳。何かを試すようなその視線に、思わず背筋が伸びる。
「花嫁は、式が終わった瞬間にドレスを脱ぎたくなるものです」
「え……?」
「どんなに美しくても、ドレスは窮屈で重い鎧でもあります。役目を終えたら、できるだけ早く楽な格好になって、ほっと一息つきたいもの。でも、お客様はまるでご自分の肌の一部みたいに、そして一番綺麗に見える背筋で着こなしてらっしゃる。それが、なんだかとても強い決意のように見えて」
彼女は一瞬、呆然と空を見つめた。それから、堪えきれないといった風に小さく吹き出した。
「……あはは! 鎧、か。本当、そうね。重くて、苦しくて、最低な鎧」
彼女は憑き物が落ちたようにふっと肩の力を抜くと、カウンターに軽く肘をついた。
「まいったわね。そうよ、私、花嫁じゃないの」
「こちらこそ、踏み込んだお話を……失礼いたしました」
音を立てないよう、小さくお辞儀をした。
「あなた、少しも動揺しないのね。花嫁のフリなんてして馬鹿な女だなって、普通は笑っちゃうでしょう」
「笑いませんよ。そんなに綺麗にドレスを着こなしている方を」
穏やかに微笑み返すと、彼女は少し視線を泳がせながら、残っていたペールエールをひとくち、喉に流し込んだ。
華やかなホップが、ふわりと香る。グラスを置いた彼女の唇は、先ほどより少しだけ柔らかく弛んでいた。
「……なんだか今日は、誰かと話したい気分だったの。一人で地下鉄に乗っている時は、このまま誰にも気づかれずに消えてしまいたいって思ってたはずなのに。不思議ね。ここに来たら、自分でも驚くくらい口が軽くなっちゃう」
彼女はふっと顔を上げ、少し挑戦的な、けれどどこか泣きだしそうな瞳で真琴を見つめた。
「ねぇ、あなた、ここの店長さん?」
「はい。若輩者ながら」
「じゃあ、店長さんって呼ばせてもらうわね。店長さんは、誰かを死ぬほど憎んだことは……ある?」
突然の問いかけに、視界がちりちりと焼ける。彼女の瞳の奥で、色が、形を変えようとのたうち回っていた。
同時に、胸の奥に押し込めていた何かが軋む音がした。古い記憶の残像が、一瞬だけ揺らぐ。けれど真琴は、それを悟られないよう静かに息を整えた。
「そこまでの感情は、持ち合わせていないかもしれません。ただ……自分自身の不甲斐なさに、逃げ出したくなることはありますが」
真琴はゆっくりと息を整え、改めて彼女の瞳をまっすぐ見つめた。
「お客様は、誰かを憎むほど辛かったことがおありなんですか」
数秒間の沈黙。
グラスの中で、泡がぱちりと小さく弾けた。
同時に、彼女の背後の色が激しく明滅した。冷たい青に、どろりとした血液のような赤が混ざり始める。
次の瞬間、吐き出された言葉が、鋭い氷片のようにバーの空気を切り裂いた。
「私ね、今日、自分を捨てた男の披露宴に乗り込みに行ったの」
ふ、と女の口角が歪に上がる。
「幸せの絶頂にいるあいつを、この手で殺すためにね」
【続く】
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