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「TAP BAR 10」色彩のバーテンダー 〈5. 赤銅のラオホと失われた記憶(前半)〉

◀︎前のお話


5.赤銅のラオホと失われた記憶



 ひどく、静かな夢を見ていた。

 音のない廊下。蛍光灯の白い光。薄汚い床に映る自分のつま先。
 一番奥、窓のない小さな取調室。
 なぜ自分がここにいるのか、分からない。
 けれど、目の前の光景と空気だけは鮮明だった。
 消毒液と古い藁半紙の匂い。誰かが押し殺した息づかい。遠くで鳴る電話の音。
 その奥に、ひとつだけ鮮やかな色が見える。
 目を背けたくなるほど明るい、ショッキングピンク。
 花の色や夕焼けの色とはまるで違う。粘度が高く、内側から熱を持ち、触れたら指先が爛れてしまいそうな色。

 綺麗だった。
 吐き気がするほど、綺麗だった。

「……違う」
 誰の声だろう。
 自分の声だった気もするし、知らない誰かの声だった気もする。

「この人は、違う」
 違う? いや、違わない。

 その色は、笑っていた。まるで、人を壊したことを、心の底から喜んでいるように。

 真琴は息を吸おうとした。
 けれど、肺の中に入ってくるのは空気ではなく、濃いピンク色の霧だった。

 苦しい。

 色が、喉の奥まで入り込んでくる。
 目を閉じても消えない。耳を塞いでも逃げられない。
 誰かの感情が、自分の体の内側を侵食するように塗り潰していく。

 助けて。
 そう言おうとした瞬間、視界の端で黒い影が動いた。

「立花さん」
 低い声。誰の声だろう。
 聞き覚えがあるような気もするし、そうでない気もする。

「もう、それ以上視なくていい」
 諦めにも似た低い声が、ひどく遠くから聞こえた気がした。


 目を覚ますと、見慣れた天井があった。
 白い天井ではない。木目調の、低い天井。少し黄ばんだ丸い照明。壁際には、予備のコースターやリネンを詰めた棚が所狭しと並んでいる。
 バーのバックヤードだ。

「……あ」
 声を出したつもりだったのに、喉から漏れたのは、掠れた息だけだった。
 こめかみの奥が鈍くズキンと痛む。熱を持った針で、内側から突かれているような嫌な感覚。寝起きにしては、体が重すぎる。
 上半身を起こそうとした瞬間、額に乗せられていた冷たいタオルが、ぽす、と膝の上へ落ちた。

「真琴さん!」
 ほとんど悲鳴のような声と共に、カーテンが勢いよく開く。
 飛び込んできた豪は、ひどく焦燥していた。前髪は乱れ、エプロンは曲がったまま結ばれている。
 端正な顔が、分かりやすいほど青ざめていた。

「起きたんすか? 大丈夫ですか? 気持ち悪くないですか? 頭痛いですか? 水飲めます?」
「……質問が多い」
「そりゃ、多くもなりますよ!」
 豪は簡易ベッドの横に膝をつくと、ペットボトルの水を差し出した。キャップはすでに緩められている。飲みやすい温度までちょうどよく下がっていた。こういうところは、本当に気が利く。

 真琴はそれを受け取り、少しだけ口をつけた。
 水がすっと喉を通る。それだけで、体の内側にこびりついていた色の残滓が、ほんの少し薄まった気がした。

「私、倒れたのね」
「はい」
「持っていたグラスは?」
「そこですか?」
「二人に怪我は」
「いや、まずは自分のことを心配してください!」
 豪が眉を下げる。
 その背後に、柔らかな黄緑色が揺れていた。豪が纏っているのは、いつも若葉みたいな色。誰にも邪魔されず子供の頃に遊んだ、原っぱみたいな色。今は、そこに濁った色が混ざっている。相当心配をかけたようだ。
 普段は大型犬のような彼も、今は捨てられた子犬のような顔でこちらを見ている。

「グラスが割れたのなんて、どうでもいいです。でも、それで真琴さんは少し手を切ってしまって……処置しました」
 ふと左手を見ると、手のひらに包帯が巻かれているのに今更気づいた。痛みはない。薄くぴたりと巻かれた包帯から、丁寧な処置であることがわかる。
「これ巻いてくれたの、豪?」
「……いえ。オーナーが」
 なぜか豪が少し悔しそうに目を伏せる。

 その時、カーテンの向こう側から、低い声がした。
「起きたか」
 豪とは違って遠慮がちに現れた神崎は、昨夜と同じ派手なアロハシャツのままだった。髭は少し伸び、目の下には薄く疲労の影が見える。
 けれど、手にはしっかりマグカップを持っている。中身はたぶん、店に置いてある安いドリップコーヒーだろう。

「おはようございます」
「おはようじゃない。昼だ」
「……昼」
 真琴は壁に掛けられた小さな時計へ視線を向けた。針は十二時を少し過ぎている。
「え、開店準備は?」
「今日は臨時休業にした」
「えっ」
 思わず声が裏返る。
 神崎はマグカップを片手に、こともなげに肩を竦めた。
「店長が床に転がった翌日に店を開けるほど、俺は鬼じゃないぞ」
「いや、でも土曜日ですよ? 連休初日ですし」
「……命より売上を心配するなと、いつも言ってるだろう」
 正論すぎて、返す言葉がない。
 豪が横で大きく頷いている。ここぞとばかりに味方を得た顔だ。

「それより、念のため病院に行っておくか?」
「いえ、行かなくて大丈夫です」
「真琴さん、それ昨日も寝ながら言ってました」
「寝ながら?」
「はい。『病院は嫌です、救急車は呼ばないでください、グラスは弁償します』って」
「……最後のは絶対に言ってない気がする」
 少しふざけたように笑うと、豪が困ったように眉尻を下げた。
「本当に心配したんですからね」
 豪にはまだ不安の色が残っている。さっきより、薄い灰色が強くなった。心配を隠そうとしているのがわかると、申し訳なさに心臓がキュッとなる。

「本当に大丈夫だから。たまにあるの」
「たまにあるのが問題なんです!」
「豪」
 神崎が静かに名前を呼んだ。
 声のトーンが本気だったからだろう、豪はすぐに言葉を飲み込んだ。けれど納得はしていないらしく、唇だけが不満そうに尖っている。

 神崎は真琴の脇の丸椅子にどすっと腰を下ろした。
 いつもの軽薄な雰囲気が、今日はまるで別人のように消えてなくなっている。基本的にオーナーは、常にどこかふざけている。真琴も全てを知っているわけではないけれど、それでもこの人が相当優秀な仕事人であることだけはよく知っている。
 今のオーナーは、古い傷跡に触れる前の医者みたいな顔をしていた。

「頭痛の具合は」
「まだ、少し」
「吐き気は」
「ないです」
「……視界は」
 真琴は一瞬迷った。
 豪をちらりと見ると、相変わらず心配そうにこちらを見ている。オーナーの視線もこちらを捉えて離してはくれない。
 この二人は、真琴が色を視る体質であることも、その負担もよく知っている。嘘をつく理由はない。
「……少し、靄がかかっています。でも、色はちゃんと見えてます」
「そうか」
 神崎は短く頷いた。その声に安堵の色はない。むしろ、奥底に沈めた鉛のような藍色が、ほんのわずかに揺れていた。
(珍しいな。こんな色)
 オーナーの色は、いつも掴みにくい。ただ、基本的には暖色が強く、橙にも金にも近い、太陽の残り火みたいな色が揺れていることがほとんどだ。
 けれど今は、その奥に重い寒色が沈んで見えた。

「……オーナー」
「なんだ」
「昨日、私……何か変なこと言いました?」
 神崎はマグカップを口元へ運びかけたところで、ぴたりと止まった。
 わずかな沈黙が落ちる。
「いや」
「その『いや』は、大体違う時の言い方ですよね」
「俺の癖までわかるのか。さすがだな」
「わかるように育てたのはオーナーでは」
「……まあな」
 のらりくらりとかわすオーナーを横目に、真琴は膝の上のタオルを握った。湿った布地の冷たさが、手のひらにじわりと染み込んでくる。

 昨夜の記憶を辿る。
 九条律という青年。ヘイジーIPA。黄色とオレンジの色。強すぎる光。その奥に一瞬だけ見えた、湿ったセメントのような塊。手に持っていたビールグラス。
 そこから先が、ひどく曖昧だった。
 ぷつり、と記憶が途切れている。

「……さっき、目を覚ます直前、誰かに呼ばれた気がしたんです」
 真琴がぽつりと溢すと、豪の表情が変わった。
「誰かに、呼ばれた?」
「うん。男の人の声だった」
「俺の声ではなく?」
「豪だったら、すぐわかるから。でも、もっと低くて、冷たい声だった。それに、立花さん、って呼ばれたの。誰の声かは、わからなかったけど……」
 豪が神崎の様子をちらりと見る。
 神崎は視線を落としたまま、コーヒーをひと口飲んだ。

 店内には、冷蔵庫の低い機械音と壁時計のカチカチという音だけが響く。
 営業していない昼のバーは、夜とはまるで別の表情をしていた。
 まだこの場所だけは夜明けが来ていないような、不思議な空気。カウンターの上には昨夜の気配が残ったまま、客の声もグラスの音もない。
 眠っている動物の腹の中にいるような、薄暗く静かな時間が流れていく。

「オーナー、ひとつ聞いてもいいですか」
 豪が思い切ったように尋ねた。
「ああ。なんだ」
「オーナーと真琴さんは、真琴さんが球場の売り子時代に知り合ったって聞きました」
「ああ」
「でも昨日のオーナー、なんかそれだけじゃないって感じでした」
 神崎は何も答えず、ただ、マグカップから立ち上る湯気を眺めている。
「……慣れすぎているように見えました」
 豪は言葉を選ぶように続ける。
「俺は動揺しっぱなしでした。倒れた真琴さんを支えるのに必死で、情けないけど半べそかきながら救急車を呼ぼうとしてた。でも、オーナーはそれを止めて……素早く対処していましたよね。まるで全部知っているみたいに。真琴さんが倒れた時のオーナー、なんていうか……」

「……豪」
 神崎の声は低く、静かだった。その静けさの中には、これ以上喋るなという圧が潜んでいるのがわかる。
 真琴も思わず息をのむ。
「真琴を疲れさせるな」
 豪はきゅっと唇を噛んだ。若葉色の背後に渦巻いていた不安の色が、インクを滲ませたように濃く変化する。

「……私なら、大丈夫ですよ」
 真琴はまだ半ば夢の中にいるような心地で、二人を交互に見る。けれど、どちらからも反応がない。
 まるで、自分だけが知らない部屋の前に立たされているようだった。扉の向こうから話し声は聞こえるのに、鍵は自分の手の中にない。

「私のことで、二人に心配をかけてしまって、ごめんなさい」
 思ったよりも、情けなくしゃがれた声が出た。
 神崎の視線が、静かにこちらへ戻る。
「真琴」
「はい」
「今日はもう寝ろ」
「……オーナー、」
「なんだ」
「私、昨日、何を言ったんですか」
「……」
「何か、言ったんですよね」
 神崎は真琴の視線から意図的に外れるように顔を伏せたまま、小さく息を吐いた。
「覚えてないなら、それでいい」
「それは、思い出さない方がいいってことですか」
 しばらく神崎の表情を捉えていたが、沈黙に耐えかねて先に視線を逸らしたのは自分の方だった。

 こめかみの奥がまた、じくりと痛む。
 無理に思い出そうとすると、白い霧の向こうで、あのショッキングピンクが笑う気がした。

 綺麗で、吐き気がする色。
 思い出したくない。
 でも、知らないままでいたくもない。
 その矛盾が、胸の奥で小さく軋んだ。



 あれから三日後。
 TAP BAR 10は、何事もなかったかのように営業を再開していた。

 午後四時過ぎの店内は、まだ夜の顔になる前の準備時間だ。
 今日のおつまみは、長さんが届けてくれた枝豆を使ったガーリック和え。枝豆を茹でる湯気が、キッチンの奥からほわりと漂ってくる。
 豪は仕込み用の白衣姿で、豆腐ディップに混ぜる味噌の分量を真剣な顔で量っていた。

「豪、それ小さじ」
「わかってます」
「今、大さじ用の持ってたでしょ」
「……これは確認です」
「何の?」
「うーん……調理器具の?」
 真琴がじとっと見つめると、豪は無言で小さじ用のスプーンを手に取った。

 カウンターでは、真琴が開店前の準備を手際よく進めていく。
 昨日までは少しふらつきが残っていたけれど、今日はもうほとんど問題ない。視界も問題なくクリアに見える。タップの金色も、カウンターの木目も、豪の背後の鮮やかな若葉色も、全部いつも通りだ。

 レジ横には、今朝のスポーツ紙が数枚無造作に置かれている。さっき、豪が買ってきたものだ。
 紙面の大きな見出しに、週末に行われたステラナイトのドーム公演の記事が載っていた。

【ステラナイト九条律、涙のスピーチ】
【過去報道に初めて言及「僕の言葉で伝えたい」】
【「ステラナイトは、“九条律”である理由です」──東京スカイドーム満員の大合唱 新たな決意を胸に前へ】
【ファンから大歓声、ドーム揺れる】

 写真の中の九条律は、相変わらず眩い光を身にまとっていた。マイクを両手で強く握る姿からは緊張が伝わってくるようだ。右の頬には涙の痕がうっすら残っている。
 あの夜、カウンターの端でヘイジーIPAを飲んでいた青年と同じ顔。
 けれど、そこに映る彼をさらに覆いつくすほどの、何万人もの光に包まれていた。まるで彼を守っているような、優しくてあたたかい光。

「……いい顔してますね」
 豪が横から紙面を覗き込むと、嬉しそうに微笑む。
「うん」
 真琴は小さく頷いた。

 写真から、色は視えない。これは彼に限ったことではない。けれど、あの日見た、向日葵のような黄色。柔らかなオレンジ。桜のような淡いピンク。それらが混ざったきらきらした色彩が、この写真から伝わってくる気がした。
 きっと、あの場所でも鮮やかに弾けていたに違いない。
(勇気を出せたんだな、彼は)

「……店長」
「ん?」
「もう、本当に大丈夫なんすか」
 いつもより少し低い豪の声色が店内に響く。
「大丈夫」
 真琴はスポーツ紙を丁寧に畳み直すと、レジ横のスペースへそっと戻す。
「その大丈夫は、信用していいやつですか」
「8割くらい」
「2割はどこ行ったんすか」
「うーん、冷蔵庫の裏とか?」
「俺が探してきます?」
「ねえ、そこは突っ込んでよ」
 いつものような軽快なやり取りに、豪がははっと可笑しそうに笑う。
 その表情を見るだけで、少し体の調子が整う気がする。

 このバーで働くようになってから、自分の性質を少しずつ受け入れられるようになった気がしている。
 最初からそのつもりだったわけではないが、球場でビールの売り子をしていた頃と違うのは、バーはその人と正面から向き合うことが長いということだ。
 ビールの話をしながら、ある人はほろっと悩みを零してくれることもあれば、深い悩みを隠しながらビールを楽しみに来てくれる人もいる。
 目の前のお客様の、心をほんの少しでもほぐすことができないか。そう思って、その人にあったビールを提供するサービスを気まぐれで始めた。

 昔は、色はもっと鋭利で、痛かった気がする。
 怒りも、悲しみも、恐怖も、時には喜びの感情でさえも。
 他人の感情が、自分の皮膚の内側まで染み込んで侵食されるような感覚。
 色を視ることは、自分をすり減らすことと同義だった。
 どうしてそう思うのかは分からない。

 けれど、ここで視る色は違う。
 グラスの中で揺れる琥珀。安堵の橙。
 笑い声に混じる薄黄色。誰かがようやく本音をこぼした時の、透明な青。
 ここでは、色が人を傷つけるだけではない。色が、心が、ほどけていく。
 そしてそのたびに、自分の中の固く結ばれた何かも、少しだけ緩む気がするのだ。

「よし」
 真琴はエプロンの紐を結び直した。
「豪、そろそろオープンするよ」
「はい!」
 豪が嬉しそうに返事をする。爽やかな黄緑色がぽんと跳ねた。

 入口の札を「OPEN」に返すと、地上から降りてくる湿った空気が、階段の向こうで微かに動いた。

 午後六時五分。
 火曜の夜は、客入りがあまり良くないことが多い。
 地下へ続く階段からは、まだ誰かが降りてくる気配はない。今夜もスロースタートになりそうだ。
 真琴はキッチンの奥に積まれた段ボールへ視線を向ける。長さんが届けてくれたばかりの野菜と果物が、まだそのままになっていた。
 先に下ごしらえを済ませてしまおう。
 そう思った、その時だった。

 ──カラン。
 不意に鳴ったドアベルに、真琴は顔を上げた。

 階段を下りてくる足音も、扉の前で立ち止まる気配もなかった。
 真琴は小さく眉を寄せる。
 普段なら、誰かが階段を下りてくるだけでわかるのに。
 足音、息遣い、気配──扉が開く前から、その人が纏う空気が階段を伝って降りてくる。
 けれど今日は、それがなかった。

(……おかしいな)

 入ってきたのは、背広を羽織ったひとりの男だった。


【続く】

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