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「TAP BAR 10」色彩のバーテンダー 〈4. 霞むヘイジーIPAと謎の男(後半)〉

◀︎前のお話


4.霞むヘイジーIPAと謎の男(後半)



「この秘密を、お客様にお話しするのは初めてなんですが」
 真琴がカウンターへ視線を落とすと、男が意外そうに首を傾げた。
 彼の輪郭をなぞる鋭い光が、静かに揺らぐ。
「……初めて?」
「はい。家族と、このお店の関係者数名にしか話したことがありません」
「そんな大事な話を、僕なんかに?」
「信じてもらえないこともありますし、不気味だと思われることもあるので、普段は話さないようにしているんです。でも……お客様なら大丈夫かなと」
 真琴がにっこり微笑むと、男は大きな瞳をぱちくりと瞬かせた。
「……口は硬い方なんで」
 男はそう言って、少し照れたように口元を緩めた。その横顔を見て、真琴はそっと息を吐く。

「私、人の感情が『色』として視えるという、少し変わった能力があるんです」
「……」
「あ、信じてもらえなくても大丈夫です。おまじないみたいなものだと思って聞いてください」
 男は否定するように首を横に振った。
「信じますよ。せっかく話してくださるなら、ぜひ最後まで聞かせてください」
 真琴は小さく頷くと、カウンターに指先を添えたまま、静かに言葉を続けた。

「ちょっと不思議だったんです。こんなところまで週刊誌が追いかけてくるほど大変な状況で、きっと心休まる暇もないはずなのに」
 男の瞳がかすかに揺れ、その中に宿る光が澱みを帯びる。
「そうとは思えないほど、幸せな色が見えたんです。あなたがステージのこと、歌のことを話しているとき、綺麗な黄色とオレンジの色が溢れていて」
「黄色と、オレンジ……?」
 男が驚いたように目を丸くする。
 色を言葉で伝えるのは、実はとても難しい。
 春の日差しみたいな爽やかな黄色。焚き火のようなあたたかいオレンジ。
 誰かに褒められた時とも、好きな人といる時とも少し違う。好きなものを好きだと言える人だけが纏う、幼子のような純粋でまっすぐな色。
「はい。それはもう、見ているこっちが眩しくなるくらいの」

 真琴は言葉を探すように、ゆっくりと続けた。
「でも、その色は、すぐに見えなくなってしまうんです」
「見えなくなる……?」
「はい。眩しいくらい強い光に覆われてしまって。まるで、その光の奥にあるものを……誰にも見せないようにしているみたいに」
 男の瞳がわずかに揺れる。
「今までたくさんの色を見てきましたけど、こんなことは初めてでした」

 真琴は男の前のヘイジーIPAに視線を向ける。
「このビール、昔の人の基準では、受け入れられなかったんですよ」
「……濁っているから?」
「はい。かつては澄み切った液体こそがビールの完成形だと考えられていましたから。これは未完成だ、失敗作だと、そう言われていた時期があるんです」
 カウンター越しに、霞んだ黄金色が照明を反射してきらきらと瞬く。
「でも、本当は未完成でも失敗でもない。ホップや酵母をたくさん残しているから、こうして濁っているだけ。この霞みがあるからこそ、生まれる香りや味わいがあって」
 真琴は小さく微笑んだ。
「今では『濁っている方がいい』って、たくさんの人に愛されています」
 繊細な泡がひとつ、グラスの中で静かに弾けた。黄金色が、ゆらりと揺れる。
「……変わるもんなんですね。世間の正解って」
 男がグラスを眺めたまま呟く。
 その横顔を照らす照明が、霞んだ黄金色をいっそう揺らめかせた。
「だから私は、このビールが好きなんです」
 周りに媚びたり、無理に誰かの正解に合わせたりしなくてもいい。ただ在り続けたものが、いつか誰かに見つけてもらえることもある。その事実に、少し救われている。
 言葉にしてから、少しだけ迷った。彼をビールに重ねるのは失礼かもしれない。けれど、こんなに鮮やかな色を宿している人が、自分を否定してしまうのは、どうしても寂しいと思っただけだ。

 カウンターの上に、わずかな沈黙が落ちる。
 男の輪郭を照らす光が、何かを思案するようにゆっくりと明滅した。
 やがて男は、何も言わず、ただ指先でグラスの縁を静かになぞった。
「……外野の声って、やたらと大きく聞こえるじゃないですか。特に最近は、SNSの言葉の方がまるで真実かのように報道されることだってある。でも、そんなのって、馬鹿げています」
 男の瞳に映ったヘイジーIPAが、照明を受けて揺れる。小さな泡が、もう一つぱちんと弾けた。
「好き勝手言う人たちのほとんどは、あなたのことを本当に知っている人じゃないはずです。外野の言葉ばかりに気を取られて、こんなに素敵な色まで覆い隠してしまうのは、すごく寂しいことだと、私は思います。だって、本当に、こんなに綺麗な色なんだもの……」
 男はグラスを持ち上げると、霞んだ液体をゆっくりと傾けた。

 カタン。キッチンの奥の方から、豪がお皿を重ねる乾いた音がひとつ響く。
 男はしばらくじっと手元を眺めていたが、やがて小さく微笑んだ。
「……まさか、こんな風に慰められるとは思ってなかったな」
 強張っていた肩から、張り詰めていた力がすっと抜けていく。
 その様子を見ながら、真琴は改めて男へ向き直った。
「職業柄、毎日たくさんのお客様とお話ししていますけど、こんな表情でお仕事の話をされる方は、めったにいませんよ。すごく大切なんですね、今のお仕事」
 男はカウンターに置かれたグラスへ視線を落とすと、ほんの少し口元を緩める。
 すると、向日葵のような黄色い粒が、彼を取り囲むようにポンポンと弾けた。

「来週、コンサートがあるんです。ずっと夢だった場所で」
 男は組んだ両手をじっと見つめたまま、一言ずつ噛み締めるように言葉を継いだ。
「でも、こんなタイミングで自分が迷惑かけてしまって……なので、せめて公演の一番最後に、自分の言葉でファンに話す時間をくださいって、お願いしたんですよ」
 真琴はグラスを拭く手を止めると、静かに耳を傾けた。男の言葉の端々から、後悔と、それ以上の切実な感情が滲み出ている。
「でも、いざ話せるってなったら……何を伝えればいいのか分からなくなってました。考えれば考えるほど、結局、かっこつけようとしちゃってたし」
 そう言って笑う顔は、まるで少年のように純粋で、今日一番、彼らしく見えた。
 グラスに残ったビールをぐいっと一気に飲み干すと、しゃんと顔を上げる。
「素直になっても……みんなに嫌われないですかね?」
 真琴は少し不安そうなその表情を受け止めるように、ふっと微笑んだ。
「それは、わかりませんね」
「えーそんなぁ」
 急に駄々っ子のように言うものだから、つい笑ってしまう。
「事情を全部知っているわけじゃないので、無責任なことは言えませんから」
「せっかく自信をもらったところだったのに」
「でも」
 真琴は改めて男へ視線を戻した。
「少なくとも、私は今の素直なあなたの方が素敵だと思いますよ」
 大きな瞳がぱちりと瞬く。
 男はそれを誤魔化すように、鼻の頭をぽりぽりと掻いた。

「お兄さん! ちょっと、この店長さんツンデレじゃないですか?」
 ようやく大量の洗い物を終えた豪が、キッチンの入口から身を乗り出している。
「そーなんすよ。店長、やり手ですから。騙されないでくださいね!」
「豪」
「……はい、黙ります」
 じろりと睨むと、豪は即座に姿勢を正した。
 そのやり取りを見ていた男が、さっきよりも大きな声を上げて笑う。
「ははっ…!」

 ぱちり。
 今度は爽やかなレモンのような薄黄色が弾けた。そこへ、柔らかなオレンジと、さらに桜のような淡いピンクが重なる。
 今日見た中で一番の、鮮やかな高揚。
 色彩が喜んでいるかのようなその光景に、胸の奥がじわりと温まる。
 真琴は思わず目を細めた。

(……あれ?)
 一瞬だった。光の粒子が凪いだほんのわずかな隙間。霞んだ輝きの、さらに奥。
 淀んだ影のようなものが、どろりと揺れた。
 黒とも灰色とも表現し難い、深いセメントのような塊。
 言葉にできない嫌悪感と、過去の記憶の端が微かに共鳴する。まるで湿った泥が、心の壁にへばりつくような感覚。嫌な予感が、胸の奥を冷やした。
 思わず息を呑む。
 けれど、瞬きをする間に、それは幻のように消え去っていた。
(……気のせい?)

 真琴は早まる鼓動を深呼吸で静めると、努めて平静を装った。
「よろしければ、もう一杯いかがですか。お好きなものをお出ししますよ」
 空になったグラスを下げながら声をかける。
 男は一瞬考え込むように指先を顎に添えたが、すぐに口元がふっと緩んだ。
「それじゃ、さっきと同じものを」


「ごちそうさまでした。閉店時間過ぎてしまってすみません。そもそもぎりぎりだったのに」
 男は会計を済ませ、真琴と豪を交互に見ながら丁寧にお辞儀をする。

「いえ、私の方もお話が楽しくて、つい」
「俺も楽しかったです。よかったらまた来てください!」
 どうやらこの男と豪は同い年のようで、気づいた時にはまるで元から知り合いだったかのように意気投合していた。少年のような顔でハンドサインやらグータッチをしている。あまり同い年の友人がいないのか、男もすっかり豪を気に入ったようだった。
「また来ます。ここって、貸切もできるんですか?」
「お日にちによりますが、できますよ。小さいお店ですから」
 真琴が答えると、男はほっとしたように微笑んだ。
「よかった。じゃあ今度は、貸切にしてメンバーも連れてこようかな」
 豪は一人で変な小躍りをしながら浮かれている。

「店長さん、俺……頑張って素直になってみます」
 背後で、鮮やかな黄色がふわりと揺れた。その奥で、柔らかいオレンジがぱちぱちと弾ける。
 すると、今まで彼を包んでいた眩い光が、それらの色を一気に吸い込んだ。光の熱に呼応するように、色の一つひとつが宝石のように発光し、鮮烈な輝きを放ち始める。
 今まで見たどんなものよりも、輪郭のくっきりとした、圧倒的な輝きだった。
(色って、こんな風に光ることもあるんだ)

「応援しています」
「それじゃ、また」
 男はキャップを被り直すと、軽く手を振った。
「ありがとうございました!お気をつけて!」
 豪が元気よく頭を下げる。
 カラン、とドアベルが鳴り、男が外へ出ようとしたその時だった。

「おっ、なんだ?」
 聞き覚えのある声が店内に響くと同時に、男の足が止まる。
「……珍しい客がいるな」
 真琴が顔を上げる。
 そこに立っていたのは、大きなリュックを背負った神崎だった。

「久しぶりだな、律」
「あれっ、神崎さん……? ここって、神崎さんの店……?」
 男はキャップのつばをさっと持ち上げると、驚いたようにオーナーの顔を見下ろしている。
「ああ。まさか、お前がいるとはな。それより……大丈夫か? ニュース見たぞ」
「すみません。ご心配おかけしてます。でも、大丈夫です。さっき、店長さんに勇気もらったんで」
 男はちら、とこちらに目配せする。
 真琴は愛想笑いすら返せず、瞬きを繰り返す。状況が飲み込めず、ただ呆然と二人を眺めていた。
「おー、お前も真琴のファンになったか? 来週、本番だろ。無理しすぎるなよ」
 神崎は律の肩をポンと叩くと、少し声を落として付け加えた。
「……俺はいつでも味方だ。何かあったら連絡してこい」
「はい。ありがとうございます。がんばります、俺」
 男はもう一度深々と頭を下げ、店を後にした。

 パタン、と扉が閉まる。
 その余韻に浸る間もなく、派手なアロハシャツを翻してオーナーが勢いよく入ってきた。
 両手を大きく振るその姿は相変わらずで、この前会った時より、だいぶ髭が伸びている。
「ちょ、オーナー?なんで?え?知り合いなんすか?!」
 豪は勢いよくカウンターを飛び出し、オーナーの前に立ちはだかった。
「相変わらず元気そうだなー、豪。それより、俺が久々に顔を出したことを歓迎してくれると嬉しいんだが」
「いや、もちろん嬉しいっすよ。嬉しいっす、けど、いや、それどころじゃないですって!」
 真琴は状況を飲み込めないまま、ただ二人をポカンと眺めている。
「ところで、さっきの青年、どこかで見たことある気がするんだけど……」
 真琴がぽつりと溢すと、豪はさらに信じられないという表情で固まった。

「真琴さん、え……嘘っすよね? まさか知らないで話してたんすか?!」
「私、そういうの疎いから……」
「ステラナイトの律っすよ、九条律!」
「九条……律」
 真琴は首を傾げる。響きに覚えがないわけではないが、それがさっきの青年とは結びつかない。
「うわー、信じられない」
 豪は両手で顔を覆った。
「毎日見てるじゃないっすか」
「毎日?」
 豪は呆れたようにレジ横を指差す。そこには、クラフトビールメーカーとのコラボキャンペーンPOPが飾られていた。キャッチコピーの横で、爽やかに微笑む青年。
「……あ」
「……あ、じゃないっすよ!」
 豪が頭を抱えたまま、天井を茫然と見つめている。
「もう、真琴さんは何でもできるのに、どうしてこういうところだけ……」
 その様子を眺めていた神崎が、リュックをおろしながらふっと笑った。
「昔からこういうところがおもしろいんよ、真琴は」
「……それ、褒めてないですよね?」

 オーナーが店に入ってきてから、ものの数分で店内の空気が一変した。まるで春の陽光が一気に差し込んだかのような、押し付けがましいほどの熱量。たまに鬱陶しくなるけれど、いなければいないで物足りなくなるのが不思議なところだ。
 そんな存在感に圧倒されながら、真琴はようやく一息つくようにエプロンを外した。

 神崎がカウンターの真ん中に座ると、店全体をぐるりと一周見渡す。
「今日は……結構客が入ったみたいだな」
「いやいや、だから今それどころじゃないですって!」
 豪が勢いよくカウンターを両手でバンバンと叩く。
「なんなんすか、さっきの! なんでオーナー、九条律と知り合いなんすか?!」
「豪、声が大きい」
「気になりますもん!」
 神崎は苦笑しながらリュックを開いた。

「真琴はよくわかってないような顔だな。ちょうどあったから、これでも見ろ」
 取り出したのは一冊の週刊誌だった。
 豪が露骨に顔をしかめる。
「あー……それ」
 テーブルへ置かれた誌面には、派手な見出しが踊っていた。

【ステラナイトのセンター・九条律には、暴力の遺伝子が?!】
【施設育ちの九条律、封印された過去】
【ステラナイトの黒い履歴書】
【ドーム公演開催に黄信号】

 真琴は思わず眉をひそめた。
「施設育ちって……さっき彼がこぼしていたやつね」
 豪が短く頷く。
「最近ずっと騒がれてます。ワイドショーでも持ちきりで」
 真琴は誌面へ目を落としたまま首を傾げた。
「でも……別に本人が誰かを傷つけたり、騙したりしたわけではないんですよね?」
「絶対違いますよ!」
「まあ、そうでしょうね」
 真琴があっさり頷くと、豪が目を丸くした。
「えっ?」
「だって、そういう色じゃなかったもの。そもそも、施設育ちだったことが問題になってるの?」
「いや、俺はそうは思わないっす」
 豪は少し溜息をついてから続けた。
「でも、アイドルは一応、夢を売る仕事じゃないですか。勝手なこと言う人もいますし。隠してたのはなんでだとか、イメージと違うとか。犯罪者の遺伝子なんだとか。それに、噂を聞いただけで勝手に可哀想な物語を作る人もいるし」
「まぁ、本人が話すべき時に話すのとはわけが違うからな」
 神崎が静かに言った。
「勝手に暴かれたんだろ。根も葉もない噂まで豪勢にひっつけてな」
 店内に沈黙が落ちる。


 やがて、神崎は真琴に律と同じビールを頼むと、ゆっくりと味わうように口に含んだ。
「あいつは、悪いことは何もしてない」
 その響きには、妙に強い説得力があった。オーナーがこうやって話す時は、たいてい信じていい時だ。

 真琴は神崎のビールグラスを見つめる。
 向日葵みたいな黄色。柔らかなオレンジ。桜のような淡いピンク。
 思い返すのはそんな華やかな色ばかりだった。

「初めてだったんです」
 真琴はグラスの中で揺れるビールを眺めながら、小さく呟いた。
「何がだ?」
「色が……見えなかったんですよ。正確には、光しか見えなかった」
「そんなことあるんすか?」
 豪が目を丸くする。
「ううん、今まで一度もなかった。でも、彼は表情が無表情とか、怒りも悲しみも見えないとか、そういうわけじゃないんです。むしろとても素直。でも、心の奥、本心は全く見えなくて」
 真琴は言葉を探していた。
「きっと、今までたくさん我慢してきたんでしょうね。辛いことも、苦しいことも、人なら折れてしまいそうなことも。そういうものが積み重なって、彼自身の光になっているような。いや……強い光で隠さないと、やってられなかったのかもしれない」
 神崎はただ、真琴が紡ぐ言葉を、黙って聞いている。
「でも、不思議と無理をしているようには見えなかった」
 神崎はビールをもう一口飲むと、その言葉にふっと笑う。
「そりゃ、そうだろうな」
 さらに、もうひと口飲む。
「……あいつは強いんだよ」
 豪が顔を上げた。
「強い?」
「ああ。俺が知ってる人間の中でも、たぶんトップクラスにな。本人は多分気づいてないけど」
 真琴は静かに頷く。あの眩しい光を思い出す。
ただの明るさではない。幾層にも重なった苦悩や諦めを、一ミリの隙間もなく圧縮し、熱へと変えた末の光。誰もが持てるわけではない。他者を傷つけず、自分だけをすり減らすことで灯る、言葉では表現できないほど眩い光の粒だ。

「ただ……最後に、一瞬だけ気になる色が見えたんです」
「どういうことっすか?」
 豪が大きく首を傾げる。
 真琴は、指先を眺めながら言葉を絞り出した。
「何色、ってはっきり見える色じゃないんだけどね。黒というか、湿ったセメントみたいな……嫌な予感というか、触れてはいけない何かが、一瞬混ざった気がして」
 真琴は不快な感触を振り払うように、小さく眉を寄せた。
「でも、本当に一瞬だったから。気のせいかもしれない」
 神崎は黙ったまま、もうひとくちビールを口へ運ぶと、静かに言葉を続けた。
「あいつは、スターになるべくしてなったんだ」
 一気に飲み干すと、神崎はグラスをカウンターへ置いた。
「……あいつの底力を、外野が知るはずもないさ。どんなに攻撃されようと、邪魔するやつがいようと、あいつは必ず立ち上がれる。だから、大丈夫だ」
 しばらく黙っていた豪が、我慢できなくなったように身を乗り出した。
「……いや、だから! なんでオーナーは、九条律をあいつなんて呼べるほどの!関係なんすか!」
「豪、お前はまだそこか……」
「そこっすよ! そこしかないです!」
 神崎は肩を上下に揺らす。
「まあ……いろいろあるんだよ」
「えー!ここまできて教えてくれないなんて考えられない!ひどい!」
 駄々っ子のようにごねる豪を眺めながら、神崎は残った泡を舐めるようにグラスを傾けた。

 真琴は二人の横で、洗い終えたグラスを種類ごとに棚へ戻していく。
 もう一度、さっき見た色を順番に思い出していく。
 向日葵のような楽しげな黄色、柔らかなオレンジ、優しいピンク。彼を形作っていた、温かな色彩の数々。
 最後のグラスを持ち上げた、その時だった。

 ──ズキン。
 氷柱を突き刺されたような、冷たく鋭い痛みがこめかみの奥を貫く。
「……っ」
 グラスが触れ合い、カラン、と小さな音を立てた。
 視界がぐらりと揺れる。
(……あれ?)
 棚に並んだはずのグラスが液体の如く歪み、店内の灯りと混ざり合ってインクのように滲んでいく。
 カシャンッ
 手から離れたグラスが床で砕けた。

「真琴さん!!」
 大丈夫。そう言おうとしたのに、うまく声が出ない。
(……また、か)
 ぼんやりとそんなことを思う。
 視界の端で、豪が慌てて駆け寄ってくるのが見える。

「真琴!!」
 最後にオーナーの声を遠くに聞きながら、真琴はゆっくりと意識を手放した。



【続く】




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