「TAP BAR 10」色彩のバーテンダー 〈3. 霞むヘイジーIPAと謎の男(前半)〉
◀︎前のお話
3.霞むヘイジーIPAと謎の男(前半)
「豪、これ3番テーブルに運んで」
「はい! 他のグラスも下げてきます」
「ゆっくりね。慌てないで」
「任せてください!」
金曜夜の『TAP BAR 10』は、地下にある小さなバーとは思えないほど賑わっていた。
10本のタップから次々と注がれるビール。カウンターに並んだグラスの底では、黄金色や琥珀色、深い黒色のビールがそれぞれ違う表情で揺れている。グラスが触れ合う音、客たちの笑い声、燻製の香ばしい匂い。ここまで賑わうのは久しぶりだ。地下へ降りてくる時にはひんやりとしていた空気も、今は人の熱とビールの香りを含んで、少しだけ柔らかく膨らんでいた。
「豪、7番さんにこのピルスナーを。あと、奥の二名様はお会計」
「はい! ピルスナーと奥のお会計ですね!」
豪の返事はやたらと威勢が良い。けれど、さっきからホールの作業と洗い物、会計を同時にこなしているせいか、端正な顔にうっすら疲労の色が見えてきた。もっとも、その疲労感すら妙に爽やかに見えてしまうのだから、腹立たしい。
「真琴さん、今日やばくないっすか」
気づけばカウンターに戻ってきた大型犬が、嬉しそうに口角を上げる。
「金曜だからね」
「いや、金曜ってだけじゃないですよ。絶対最近、お客さん増えてますって」
「それ、オーナーに言ったら調子に乗るから、あの人の前では言わないでね」
「言いませんよ。俺だってそこまで命知らずじゃないです」
軽口を叩きながらも、豪は手際よくグラスを並べ、濡れた手をリネンで拭いながら奥のテーブルへ水を運んでいく。初めてここへ来た頃に比べると、ずいぶん頼もしくなったものだ。
その背中を見送りながら、真琴はカウンターへ視線を戻した。
目の前に座る常連客の長さんが、最後の一口を飲み干して大きく息を吐く。
「いやあ、今日のもうまかったな。真琴ちゃん、これ、なんて言ったっけ」
「ベルジャン・ペールエールです」
「そうそう、それだ。名前は覚えられねえけど、味は覚えた」
長さんは満足げに笑うと、腰に手を当てながらゆっくり立ち上がった。
「今日はもう帰るわ。明日も仕込みで朝早ぇんだ」
「腰、大丈夫ですか」
「もちろん。まだまだ現役よ」
そう言いながらも、動きがぎこちない。真琴が心配そうに目を細めると、長さんは照れくさそうに手を振った。
「そういえば、最近神崎さんと飲んでねえなぁ。元気にしてるよな?」
神崎さんはこの店のオーナーで、真琴の雇い主でもある。
「なんだかすごく忙しいみたいで、私もあまり会えてないんです。相変わらず、何に忙しいかよくわかりませんけど」
「がはは! 神崎さんはミステリアスな男だからな。そこが面白いんだわな。もし来たらよろしく言っといてくれ。ほんじゃ、また明日。オーダーの野菜、持ってくるから」
「はい。お待ちしています」
カラン、とカウベルが鳴る。
終電の時間が近づくと、今度はレジ周りが慌ただしくなる。それを見越して豪が一人ずつ声をかけながらテキパキと会計を済ませていく。
最後のカウンター客が店を出ると、店内に急に静けさが戻ってきた。
つい数分前まで満席だったのが嘘のようだ。
洗い場には使用済みのおつまみ皿が積み上がり、リンサーの横には洗い終えたグラスがずらりと並んでいる。テーブル席には、客たちが残していった笑い声の余韻だけが薄く漂っていた。
「はーっ……」
豪が大きく伸びをする。長い腕が天井の低い照明に届きそうになり、真琴は思わず眉を上げた。
「ちょっと、壊さないでよ」
「壊しませんって。それにしても、今日めちゃくちゃ忙しかったっすね」
「よく働いたわね」
「えっ?」
豪が勢いよく振り返った。
「今、まさか……褒めました?」
「気のせい」
「いや、褒めましたよね。俺、聞きましたよ」
「空耳じゃない?」
「うそだ!」
そんなやりとりをしながら、真琴はレジ横の伝票をまとめ始めた。時計を見ると、ちょうど二十四時をまわったところだ。閉店まで残り一時間。
そろそろタップの洗浄準備を始めよう。そう思って、カウンター下の器具に手を伸ばした時だった。
――カラン。
乾いたカウベルの音が、静まり返った店内に響いた。
真琴と豪は、ほぼ同時に入口へ視線を向けた。
扉の向こうから、ひとりの男が姿を現す。
黒いキャップを深く被り、顔の半分をマスクで覆っている。何のロゴもないシンプルな白いTシャツと細身のジーンズ。首元には、シフォン素材の淡いスカーフが巻かれ、袖から見える腕は細身ながらしっかりと筋肉がついている。すらりと背が高く、姿勢も悪くない。けれど、肩だけは妙な力が入っていた。
「……すみません」
男は店内を見渡し、申し訳なさそうに少しだけ頭を下げた。
「まだ、大丈夫ですか」
声は低く、ひどく掠れている。けれど、その奥には、妙に耳に残る柔らかさがある。静かなのに、心臓にずんと響くような声。
真琴は一瞬、ちらりと豪の方を見た。いつも通りの笑顔で立っている。少なくとも、表面上は。
「閉店まであと一時間ですが、よろしいでしょうか」
真琴が答えると、男はほっとしたように肩を落とした。
「はい。ありがとうございます」
仕草は丁寧で、育ちの良さすら感じさせる。けれど、ドアを閉める指先がほんのわずかに震えていた。
男がこちらをもう一度振り返った瞬間、真琴の視界に異様な光が広がった。
思わず、息を止める。
眩しい。
それが最初に頭に浮かんだ言葉だった。
背後に、色が視えない。いや、視えないわけではない。むしろ、強すぎるほど視えている。金とも白とも見分けがつかない光のような靄が、男の輪郭から溢れている。
これまで、数え切れないほどの色を視てきたが、こんな感覚は初めてだった。暗いわけでも、濁っているわけでもない。むしろ、周囲の空気を照らすほど眩い。光が強すぎて、奥にあるものが視えない。初めての奇妙な感覚に、こめかみの奥がちりちりと焼けた。
「お好きな席へどうぞ」
どうにか声を整えると、男は少し迷った末に、カウンターの一番端へ腰を下ろした。入口からは少し死角になる席だ。
豪がいつも通り、てきぱきと動く。
「おしぼりをどうぞ」
「ありがとうございます」
男が小さく頭を下げた。
それを見た豪が一瞬何かを言いかけたようだったが、すぐにいつもの笑顔へ戻る。何事もなかったように一礼すると、そのままキッチンへ引っ込んでいった。
普段の豪なら、「僕のおすすめはこちらです」くらいは話しかけるはずなのに、今日は妙に大人しい。
真琴は小さく首を傾げた。
カウンター越しに、改めて男を観察する。
キャップの下から覗く髪は、汗で少し乱れている。カウンターの上で握られた拳は、微かに残る震えを落ち着かせるためだろうか。マスクの隙間から見える頬は透き通るほど白い。けれど、その白さは張り詰めた糸がぎりぎりで保たれているような、妙な危うさを伴っているようにも見える。
「大変不躾な質問で申し訳ございません」
真琴はカウンターに両手を添えたまま、静かに口を開いた。
「どなたかに追われて、ここへ逃げ込んでこられましたか」
男の動きが、ぴたりと止まる。
豪がキッチンの奥で何かを落としかけたような、小さな音がした。
男は驚いたように目を見開いた。
「……そんな風に見えますか?」
「杞憂だと良いんですけれど」
真琴はあえて、言葉を濁さなかった。理由はうまく言えないが、この男には遠回しな言葉よりもその方が良いと思ったのだ。
「少なくとも、この時間にゆっくり飲みに来た方ではないように見えます」
男は少し困ったように眉を下げた。普通なら情けなく見える表情のはずなのに、妙に絵になる。目元だけで、随分整った顔立ちなのだとわかるほどに。
「すみません。ご迷惑なら、出ます」
「いえ。もしそうでしたら、今日はもう店を閉めようかなと思って」
「……えっ?」
男は驚いたように顔を上げた。
「そんなこと、いいんですか」
「本当は駄目なんでしょうけど」
真琴は小さく肩をすくめた。
「でも、さっきまでかなり賑わっていたんです。目標も達成しましたし」
男はきょとんとした顔をしている。
「それで売上が下がったら怒られませんか」
「その時は、あそこにいる助手に責任を取ってもらおうかと」
「なんで俺なんすか!」
キッチンの奥から即座に豪の抗議が飛ぶ。
男が今度は少しだけ肩を揺らした。
「豪、表の札を裏返してきてもらえる? クローズにしちゃおう」
「わかりました!」
豪は短く返事をすると、ぱたぱたと入口へ駆けて行った。
「なんだか……すみません」
「お気になさらず。元々、閉店準備中でしたから」
真琴が答えると、入口の方から視線を感じる。顔を上げると、扉を閉めた豪がそっと親指を立ててグーサインをしていた。
「?」
真琴が首を傾げる。豪はなぜか満足そうに頷くと、何かやり遂げたような顔でキッチンへ引っ込んでいった。
(何、今の)
真琴は釈然としないまま、男へ向き直る。
「うちはビール専門バーなんです。ビールはお好きですか?」
「はい。普段は制限しているのであまり飲まないようにしていますが……実は、お酒の中で一番好きです」
「ならよかった」
真琴は、男の背後に纏わりつく光をもう一度ちらりと見た。やはり、何の色も形も見えない。ここまで光に覆い尽くされているものをほぐすには、どれだけ時間がかかるだろう。いや、時間だけで解決するとも限らない。それに、色が見えたからと言って、相手の心が解されるわけでもないのだ。
「当店では、その日によって異なる10種類のビールをご用意しています。もしよろしければ、私がお客様に合う一杯をお選びしましょうか」
男は、ほんの少しだけ驚いたように顔を上げた。
「そんなこともしてくれるんですか」
「私の気分次第で」
「断られる日もある?」
「あります」
「それは……運が良かったな」
男が小さく笑った。
「じゃあ、お願いします」
その声は、さっきよりほんの少しだけ柔らかく弾んでいた。
真琴は10本のタップへ視線を巡らせる。
いつもなら、最初のビールは直感ですぐに決まる。色は嘘をつかない。それゆえ、その人に必要な一杯も自然と見えてくる。
けれど、今日はどのタップを見てもしっくりこない。
真琴は小さく息を吐くと、もう一度男へ視線を向けた。
誰も店に入ってこないと分かって少し落ち着いたのか、深く被っていたキャップを静かに外した。汗で乱れた髪がはらりと額へ落ちる。
こんなに綺麗な顔の人間を見たのは久しぶりだ。けれど、それ以上に目を引いたのは表情の方だった。大きな瞳の下にはくっきりとしたクマが浮かび、こんなに目立つ容姿をしているのに、今は誰の目にも留まりたくないと願っているような。その矛盾が、少しだけ痛々しい。
真琴は気づかれないよう、そっと視線を外す。
色が視えるからといって、他人の感情まで全て理解できるわけではない。この男が抱えているのが、怒りなのか、悲しみなのか。あるいは、そのどちらでもないのか。
ただ一つ確かなのは、この人の中には、強すぎるほどの何かがあるということだけだ。
カウンターの棚から、チューリップ型のグラスを取り出す。
リンサーへ伏せると、ジャッ、と勢いよく吹き上がった冷水が内側を洗い流した。
真琴は10本のタップをもう一度見渡すと、その中の一本へ手を伸ばす。
ヘイジーIPA。
クラフトビール界で一大ブームを巻き起こした、比較的新しいスタイルだ。
曇りガラスのようにぼんやりと濁ったその見た目は、一目で好き嫌いが分かれる。けれど真琴は、このビールが嫌いではなかった。綺麗に整えられたものだけが正解ではないと、そう言われている気がするからだ。
グラスを斜め四十五度に傾ける。
タップを手前へ引くと、とろりとした黄金色が静かに流れ込んだ。熟れたマンゴーやパイナップルを思わせる甘い香り。その奥に潜む、柑橘の爽やかな余韻。
最後にきめ細かな泡で蓋をすると、グラスの中に小さな朝焼けが出来上がった。
「お待たせいたしました」
男の前へそっとグラスを滑らせる。
照明を受けたそのビールは、黄色ともオレンジともつかない色で揺れていた。
男はグラスを覗き込みながら、小さく呟いた。
「これ、なんていうビールなんですか?」
「ヘイジーIPAです」
「ヘイジー?」
「はい。ヘイジーは、英語で『霞んだ』とか『曇った』という意味です」
男は興味深そうにグラスを持ち上げた。
「少し濁ったビールなんですね」
「はい。大量のホップと酵母によって生まれた濁りを、あえて個性として受け入れたビールなんです。昔なら失敗作と言われていたような見た目なんですけどね」
男はふっと目を細めた。
「失敗作、ですか」
「ええ。でも、それが美しいんですよ」
「美しい?」
「はい。私、このビールを見るたびに思うんです。なんだか堂々としてるなって。誰かの『こうあるべき』に、無理に合わせようとしないといいますか」
真琴はそう言いながら、小さく肩をすくめた。
「もっとも、クラフトビール界隈は変わり者も多いので。『だって濁っている方が格好いいじゃないか!』って言う人たちも結構います」
男が小さく吹き出す。
目元にくしゃっと皺が寄る。店に入ってきてから初めて見る、自然な笑顔だった。
「俺も、いつもクラフトビールを選んじゃうんですよね」
「お好きなんですか?」
「好きというか……何となくかっこいいから」
男は少し照れくさそうに視線を逸らした。
(思ったより素直な人なんだな)
「理由なんて、それだけで十分ですよ。私もそうですし」
真琴はそう言うと、男の前のグラスに目線を向けた。
「まずは、香りからどうぞ」
男は言われた通り目の前のグラスを持ち上げ、鼻先へすっと近づける。すると、わずかに目を見開いた。
「……あ」
「驚きました?」
「はい。もっと個性的な匂いを想像していました」
男はそう言うと、ゆっくりとグラスへ口をつけた。
こくり、と喉仏が動く。それからもう一口。
何かを確かめるように味わったあと、小さく息を吐いた。
「……おいしいです」
真琴は頷きながら、男の背後へ視線を向ける。
人は美味しいものを口にすると、色も揺れることが多い。理由は様々だが、何かしらの変化が現れるものだ。
けれど、この男にはそれがない。それどころか、光の奥にあるものは、ますます見えなくなっていく。
見えないということは、何もないということではない。むしろ逆だ。もっと強い感情が、その奥に居座っているということでもある。
「普段は、どんなビールを飲まれるんですか?」
真琴が尋ねると、男は少し考えるように視線を落とした。
「最近は、あまり飲んでないんですよね。抑えてます」
「節制しているんですか」
「まぁ……そうですね。常にベストな体型をキープしなければならなくて。人前に出る仕事なんです」
「なるほど」
「まぁ、もう慣れちゃいましたけどね。むしろ管理してない自分の方が不安になるくらいで」
男は困ったように、少し眉尻を下げた。
「そんなあなたに……というわけではないんですけど、こちら、今日のお通しです。よかったらどうぞ」
真琴は小皿を男の前へ置いた。
食べやすい大きさにカットした胡瓜と人参、大根のピクルス。その横には木綿豆腐と味噌を混ぜ合わせたソースが添えられている。
「自家製ピクルスと豆腐のディップです。ノンオイルなのでヘルシーですよ」
「オシャレですね。ビールのおつまみには見えない」
男は少し意外そうな顔をした。
「今日のは、あちらの助手の好物なんです」
その言葉に反応した豪が、キッチンの奥からひょこっと顔をのぞかせ、小さくお辞儀をする。
「なるほど。オシャレなお兄さんなんだ」
「それ、本人にいうと調子に乗りますんで、小声でお願いします」
「ははっ」
男はくしゃっと顔を綻ばせた。
こちらの会話が聞こえないのがやきもきするのか、豪が頬を膨らませながらカウンターへやってきた。
「もー、店長、変なこと言わないでくださいよ?」
豪は不満そうに眉を下げながらも、カウンター内に積み上げられた小皿やグラスを丁寧に回収している。
男はそんなやり取りを眺めながら、ピクルスをひとつ口に運んだ。ぽり、と小気味良い音が鳴る。
真琴はもう一度ちらりと男の方を見てみるが、背後の色は相変わらずだ。
こういう時は、奥の手を使ってみるしかない。
真琴はグラスを磨く手を止めた。
「そういえば、さっきから気になっていたんですけど」
「……はい?」
男がビールを口に含みながら、首を傾げる。
「さっき、どなたに追いかけられていたんですか?」
数秒間の沈黙。
先にその空気を破ったのは、男ではなく豪だった。
「ちょ、店長?!」
悲鳴に近い声が店内へ響く。
「いやいやいや! お客様に何聞いてるんですか!」
「だって」
「だって、じゃなくて!」
「気になったんだもの」
「子どもじゃないんですから!」
「それに、匿うなら事情くらい知っておきたいじゃない」
「だからって、本人にそんな風に聞きます?!」
豪は慌てて男へ向き直ると、さらに声を一段大きくする。
「すみません。本当に、すみません! うちの店長、たまにこういうところあるんです。悪い人じゃないんです!」
男はぽかんとしたあと、とうとう吹き出した。
「ははっ……」
思った以上にツボに入ったらしい。俯いたまま何度も肩を上下に揺らしている。
「もう、ほんと、店長しっかりしてくださいよ」
豪は呆れたように頭を振った。
(豪って、たまにお父さんみたいなこと言うんだよね。少し慣れてきたけど)
「じゃあ、俺は洗いものやっときますからね」
カウンター内に積み上がった食器を抱えると、そのままキッチンの奥へ引っ込んでいった。
男はしばらく笑っていたが、ようやく顔を上げた。
「なんだかすみません。こんなに笑わせてしまうとは……」
「いえ、こちらこそ。最近、こんな風にまっすぐ質問してきてくれる人、いなかったんで、おかしくて。なんというか、腫れ物扱いみたいなことが多かったから」
男は苦笑しながらグラスを持ち上げると、ビールを一口流し込む。
「まあ、自業自得な部分もあるんですけど」
そう言って、肩をすくめた。
真琴はその様子を眺めながら、ふと男の左手に視線を落とす。
「私、芸能に疎くて……違っていたらすみません。もしかして、ギターを弾かれるんですか?」
男がぴたりと動きを止めた。
「え?」
「左手の指先。弦を押さえる人の手だなと思ったので」
「……はい。まさに。ギターを少し」
「少し、ではなさそうですけど」
「そんなに分かります?」
「私、観察するのが特技みたいなもので」
「ライブで弾くこともありますけど、どちらかというと趣味かな。もう、人生の半分以上の相棒です」
男がまた小さく笑う。
その瞬間だった。
ぱちり。眩しい光の奥で、小さな黄色が弾けた。
真琴は思わず目を瞬かせる。初めて色が見えた。鮮やかなレモンイエロー。
「歌も歌われますか?」
「え、僕のこと……ご存知ではない、ですよね?」
真琴はカウンターに積まれたリネンを揃えながら、小さく肩をすくめた。
「すみません、そういうことに本当に疎くて。ただ、さっきから、何度か喉に手を当てていらしたので」
「喉?」
「ええ。無意識に確かめるような仕草をされていたでしょう? それに、首元のストールも」
男は右手で首元にそっと触れた。
「そんなことしてました?」
「はい。何度か」
男はゆっくり息を吐くと、カウンターに肘をついてこちらを嬉しそうに見上げる。
「参ったな。全部当たってます。一応……アイドルなんです」
ぱちり。
黄色の中に、今度は柔らかなオレンジが弾けた。炭酸ジュースの泡みたいに爽やかな色。
今まで見えなかったのが不思議なくらい、無邪気な色だった。
「それと、これはただの私の感想なんですけど」
真琴はグラスを棚へ戻しながら付け加えた。
「はい?」
「すごく素敵な声だな、と思って」
男がきょとんとする。
「低くて柔らかいのに、不思議と耳に残る声。それに、気づけばこちらまで笑ってしまうんです。なるほど……アイドルの方なんですね」
男は照れくさそうに視線を落とすと、カウンターの上で組まれた両手をぱっと解放した。
「そうストレートに言われると、さすがに照れます」
「そうですか?」
「はい。歌を褒めてもらえることはあっても、声そのものっていうのは……あまりないので」
そう溢すと、男の背後で再び黄色が弾けた。先ほどよりも色の輪郭がはっきりしている。眩しい光の奥から、細かな泡が浮き上がるように、ぽん、ぽん、と明るい色が跳ねる。そこに混ざる柔らかなオレンジは、喜びというには少し幼く、少し熱を帯びていた。
「歌うのは、昔からお好きなんですか」
「はい。歌って踊るのが好きで。最初は、誰かに見せるためじゃなかったんですよ。でも、幼い頃、養護施設の発表会でやることになって。そこから……」
そこまで言うと、言葉が急に途切れた。自分でも驚いたように目を見開いている。
「……っ、すみません。初対面の方に、何を話してるんだろう」
「ビールのせいにしておきましょう。うちでは大体のことをビールのせいにできますから」
「便利ですね、それ」
男がまた笑った。笑うたびに、光の奥から黄色が覗く。けれど、そう長くは続かない。少しでも話題が戻ると、その色はすぐに眩しすぎる光の中へ吸い込まれてしまう。
「さっきのは、週刊誌です」
男がグラスを置くと、コースターの上で、わずかに水滴が滲む。
「追いかけてきた相手?」
「はい。実は今、ちょっと面倒なことになっていて……車で送ってもらえば良かったんですけど」
「そうしなかったと?」
「はい……今日はちょっと、一人で歩きたくて。そうしたら、後ろからついてくる足音がしたんです。ほんと、情けないですよね。歌って踊る時は何万人の前に堂々と立てるのに、あんな風に報道されたからって、夜の路地で後をつけられただけで、隠れるしかないなんて」
男の手元を見ると、さっき一度解放された拳が再び硬く握られている。
真琴は、磨き終えたグラスを定位置へ並べると、エプロンをきゅっと締め直した。
「ひとつ、質問してよろしいでしょうか」
「はい?」
「人を殺めたり、傷つけたり、誰かを騙したりとか……きっと、そういうことではないですよね」
「違います、違います」
男は苦笑する。
「でも……あまり簡単な話でもないんです」
その言葉を遮るように、男のスマートフォンから短いバイブ音が鳴った。
ちら、と画面へ視線を落とすと、男はそのままテーブルに伏せる。
「大切な連絡では?」
「あー……いいんです。来週のステージの最終確認が来ただけなんで」
男はグラスの縁に残る細かな泡を見つめた。
「本当なら、今は公演のことだけ考えていたかったんです。演出もまだ詰めきれてないし、歌もギリギリまで練習したい。どうしたらもっと良い公演になるのか、メンバーと話したいことだって山ほどある。なのに、気づけば毎日スマホを気にして、新しい記事が出ているんじゃないかと確認してしまうんです」
握られた指先は、白く色が変わるほど力が入っていた。
「メンバーも何も言わないし、スタッフも普段通り接してくれます。でも、それが余計に申し訳なくて。俺一人の問題だったはずなのに、気づけばみんなを巻き込んでしまっている気がして……俺がいることで、みんなに迷惑をかけるなら。何か話すことで、もっと傷つく人がいるなら。そう考えると、どうしたらいいのか、分からないです。もう、いっそのこと……全部やめちゃおうかなって思う時もある」
ここまで一気に話すと、男は俯いた。
店内に小さな沈黙が落ちる。
「お客様が、秘密や胸の内を教えてくださったので」
真琴は男の正面に改めて向き直り、静かに微笑んだ。
「私からもひとつ、秘密をお話ししてもよろしいでしょうか」
「……秘密?」
男がわずかに首を傾げる。
その表情を見つめながら、真琴はゆっくり頷いた。
【続く】
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