「TAP BAR 10」色彩のバーテンダー 〈6. 赤銅のラオホと失われた記憶(後半)〉
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6.赤銅のラオホと失われた記憶(後半)
紺色のジャケットに、白いシャツ。
派手さはないが、清潔感があり、背筋がまっすぐ伸びている。
年齢は四十代半ばほどだろうか。会社員にも、公務員にも見える。けれど、そのどちらとも少し違うように見える。
髪は短く整えられ、眼鏡の奥の目は穏やかだ。けれど、妙に隙がない。
真琴は反射的に背筋をすっと伸ばした。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
男は静かに会釈すると、店内をぐるりと見渡した。
その視線が、カウンターの中央で止まる。まるで、そこに座ることを最初から決めていたかのようだった。
「一人です」
「はい。お好きな席へどうぞ」
男は視線で捉えていたカウンターの中央席へ、そのままそっと腰を下ろした。
落ち着いた動作だった。椅子の引き方、鞄の置き方、手元の揃え方。そのすべてが過不足なく整っている。
真琴はおしぼりを差し出しながら、男の顔をもう一度ちらりと見た。
どこかで見たことがあるような気がする。
球場だろうか。ビールの売り子をしていた頃の客。三塁側の常連。バックネット裏。
当時のことを思い返してみるが、うまく結びつかない。
そうでないとすれば、仕事関係だろうか。居酒屋、仕入れ業者、長さんの知り合い……いや、多分それも違う。
けれど、この整った細い眉には、確かに見覚えがある。それなのに、記憶の引き出しに手を伸ばすと、指先が空を切るように何も思い出せない。
「ビールはお好きですか」
そう尋ねると、男は少しだけ目を細めた。
「ええ。好きです」
その声を聞いた瞬間、こめかみの奥がわずかに疼く。
鋭い痛み、というほどではないが、古い扉の蝶番が、ぎしりと軋むような感覚。
「ここは、客に合うビールを選んでくれると聞きました」
「……えっ?」
突然尋ねられたことに、真琴は少し動揺した。
「あれ、違いましたか?」
「いえ……ただ、それは特別メニューといいますか、私の気まぐれなんです」
「ほう。噂で聞いたもので、てっきり定番なのかと」
「店舗のホームページにも書いていないんですけれど……どなたかの紹介ですか?」
「いえ。でも、評判ですよ。ここには色彩のバーテンダーがいる、と」
その呼び名に、真琴の指先がわずかに止まった。
目の奥に残る鈍い痛みが、ずき、と疼き始める。
それを静かに沈めるように背筋を正すと、もう一度正面から男の表情を捉え直す。
どうやら、真剣な眼差しのように見える。
「もし、ご希望でしたら」
「それはありがたい。ぜひ、お願いします」
丁寧に頭を下げる男の姿を見ながら、真琴は細く息を吐いた。
「承知いたしました。少々お待ちください」
真琴は小さく頷き、タップへ向き直った。
昨晩、豪が丁寧に磨いてくれた十本のハンドルを左から順に眺めていく。
まだ体が本調子ではないからなのか、或いはただ気乗りしていないだけなのか、鋭いひらめきのような手応えはない。
普段なら、色を見た瞬間に、ふっと一本の線が繋がることがある。この人にはこれだ、と理由より先に指先が動くような感覚。
けれど今日は、その感覚がまだ遠かった。
どれを選ぶべきか、珍しく迷っている。
その時だった。
ふと、右から二番目のタップに目が止まった。
ラオホ。
燻製麦芽を使った、少し変わったビールの一つだ。
焚火のあとに残る薪のにおいのような、スモーキーなドイツ・バンベルグ発祥のビール。
中でも、今日この店にあるのはベリーチップによって薫香をまとったロートビア、いわゆるレッドビールだ。
好き嫌いは分かれるが、一度この魅力にはまると忘れられなくなるビールでもある。
赤銅色の液体は、どこか焚火の最後に残る熾火を思わせた。火は消えたはずなのに、近づけばまだ熱を持っている。
静かに、けれど確かに、内側に熱を残している色。
男の背後には、淡い青灰色が静かに揺れていた。
怒りでもない。悲しみでもない。雨が止んだあと、誰もいなくなった校庭に残る煙みたいな色。
終わったはずなのに、まだどこかで燻り続けているもの。
ラオホの燻香を思い浮かべた瞬間、男の背後に揺れる青灰色と、するりと結びついた。
赤と青。色は違うのに、不思議と同じ匂いがした。
燻製麦芽の香りを纏う、煙のビール。
消えない煙を抱えた人には、煙の香りがするビールが似合うだろう。
真琴は小ぶりのチューリップグラスを取り出すと、リンサーに伏せた。
ジャッ、と鋭い水音が響く。
冷えたグラスを斜めに傾けタップを手前へ引くと、赤銅色の液体が、細い流れとなってグラスへ注がれていく。
夕焼けを閉じ込めたような、どこか懐かしい色だった。
最後に少しだけグラスを軽く回す。
立ち上る白い泡の奥に、ほのかな燻製香が静かに開いた。
「お待たせいたしました。ラオホです」
男の前へ滑らせると、興味深そうに目を細めた。
「ほう。レッドビールなんですね」
「はい。燻製の大人な香りが、お客様のイメージに合うと思って選んでみました」
男はグラスを持ち上げると、立ち上る燻香を確かめるように目を細めた。
「不思議ですね」
「不思議?」
男はグラスを傾ける。
燻香が鼻先を抜けると、懐かしそうに目を細めた。
「ええ。こういうところは……変わらないんですね」
それは、独り言のような小さな声だった。
男はしばらく、グラスの中の赤銅色を眺めていた。
「……昔から、あなたはこういうものを選ぶのが上手かった」
カウンターを片付ける真琴の指先が、ぴたりと止まった。
「ビールを選ぶとき、相手の表情をすごく見るでしょう。色を視る時みたいに」
男は小さく笑う。
「ずいぶん助けられたものです」
すると、もう一度グラスに口をつける前に、こちらをゆっくりと見上げた。
穏やかな目。その奥には、重石のような別の強い意思があるように光る。
「……覚えていませんか?」
カタン、とカウンターのスイング扉が揺れる。
店内の空気が一瞬で変わった。
キッチンの奥でグラスを拭いていた豪が、こちらを振り返る気配がした。
真琴は男を見つめたまま、静かに息を吸った。
「申し訳ございません。どこかでお会いしたことがあるでしょうか」
「ええ」
男はラオホを口に含んだ。
こく、と喉が小さく動く。
グラスを置く音は優しく、とても静かだった。
「もう十年ほど前のことになりますが」
こめかみが、さっきより深く疼く。
頭の中でもう一度記憶を探ってみるが、手がかりは何も見つからない。
「立花真琴さん」
その瞬間、背筋を細い氷の指でなぞられたような感覚が走った。
客に名前を呼ばれること自体は珍しくない。店の紹介記事に出たこともあるし、常連なら知っている人もいる。
けれど、この響きは違う。
名前を呼ばれたのではなく、身元を確認されたような事務的な響きだった。必要な情報だけ取り出すような、感情の温度を感じない声。
「あなたに、もう一度お願いしたいことがあります」
男がそう声をかけた、その時だった。
「帰れ」
低い声が、店の奥から飛んできた。
真琴が振り返るより先に、豪が先に「えっ」と声を漏らす。
バックヤードへ続くスイングドアの前に、神崎が仁王立ちで立っていた。
いつからいたのだろう。
派手なアロハシャツも、伸びた髭もさっきと同じなのに、別人のように表情が強張っていた。
笑っていないオーナーは、ひどく珍しい。
「……オーナー?」
真琴が声をかけたが、神崎は振り向かないまま、視線はじっと男を捉えていた。
男はそれに驚いた様子もなく、ゆっくりとグラスを置く。
今度はカタッという音がやけに大きく響いた。
「久しぶりだな、神崎」
「帰れ、と言った」
店内に沈黙が落ちる。
豪の目だけが、二人の間を忙しなく行き来する。
「え、知り合い……なんすか?」
「昔の仕事の知り合いだ」
神崎はそれだけ答えた。声色に怒りが混ざっている。
短い言葉が、床に落ちた氷のように冷たく響く。
「今日は客として来ただけだ」
男は静かに言葉を返す。
「嘘をつけ」
「ビールを飲みに来たんだよ。知らないのか? 評判なんだ、立花さんの仕立てるビールが」
「……用件があるんだろ」
神崎の声には、いつもの軽さが一切ない。
真琴は自分の心臓が、少しずつ早くなるのを感じていた。
自分も、この男を知っている。知っているはずだ。それなのに、思い出せない。
男の背後では、無色透明に近い淡い青灰色が、静かに波打っている。
「相変わらず俺は嫌われてるのか、お前に」
「嫌いだとかそういうんじゃない。俺は……お前らの正しさを信用していないだけだ」
男は胸ポケットに指を伸ばしかけた。
そこに電子煙草があることに気づくと、神崎が低く言う。
「おい、ここは禁煙だ」
「ああ、それは失敬」
男は悪びれもせず、すっと電子煙草を胸ポケットに戻す。ネクタイを少し緩めると、神崎の方へくるりと椅子ごと向き直った。
「……警察はまだ諦めていない」
男がそう言うと、背後に火花のような赤がバチッと弾けた。
後ろから見守る豪が、息を呑む音がする。
「警察……?」
その単語を聞いた瞬間、真琴の視界が一瞬だけ白く瞬いた。
蛍光灯。消毒液。ショッキングピンク。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
「立花さんの力が必要になるかもしれない事件があるんだ」
「いい加減にしろ」
神崎が大きく一歩、前に出る。
その背後に、真琴が見たことのない色が立ち上った。橙ではない。金でもない。焼け焦げた鉄のような、暗い赤茶色。
オーナーらしい、静かな怒りの色だった。
「彼女はもう関係ない」
「そう言い切れる状況ではないんだ」
「言い切れる。俺が言う」
「立花さん、」
「名前を呼ぶな」
空気が張り詰める。
豪はいつになく真剣な表情で、庇うように真琴の方へ半歩近づいた。
真琴はただそこに立ち尽くし、自分の手元に視線を落とす。カウンターに添えた指先が、微かに震えていた。
「待ってください。私……いま、何の話をされているんですか」
どうにか声を絞り出すと、神崎と男が、ほとんど同時にこちらを見た。
「本当に、覚えていないんですね」
男の背後に、淡い水色が跳ねた。まるで、少し寂しそうな感情を、押し殺しているかのように。
「覚えていない?」
豪が小さく繰り返す。
真琴の胸の奥で、何かが軋んだ。
(忘れている? 私は、何を忘れている……?)
この感覚は、初めてではない。今までも時々あった。
高校から大学時代の記憶に、妙に白い空白がある。入院していた時期の前後。見知らぬ廊下。知らない大人たちの声。
けれど、両親もオーナーも、深く聞いてくることはなかった。
今思えば、それだけで何かおかしいとわかるはずなのに。
目を逸らしてきたのか。何から? 忘れているのではなく、忘れることで生きて来られた、何か。
「私は、何か……事件に関わっていたんですか」
男はグラスをゆっくりと傾けたまま、何も答えなかった。
代わりに、神崎が口を開く。
「真琴」
その声にはさっきまでの冷徹さも責めるような熱もなく、驚くほど穏やかだった。
初めて、球場で出会った時と同じように。
「お前は何も関わっていない。大丈夫だ」
それだけ言うと、神崎はもう一度男に視線を向ける。
「今日はここまでだ」
「でも、」
「……頼む」
オーナーの背中が見える。
真琴は息をのんだ。
いつも飄々としている人だ。何を考えているか分からなくて、勝手で、急にいなくなって、急に帰ってくる。
そんなオーナーが、今、真剣な表情で頭を下げている。
男は静かに息を吐くと、残っていたビールを一気に飲み干した。
背広の内ポケットから名刺を一枚取り出すと、それをすっとカウンターへ滑らせる。
「無理に思い出させるつもりはありません」
男は真琴へ向かって、深く頭を下げた。
「ただ、あなたに救われた人間もいたということだけは、いつか知ってほしい」
神崎の眉がわずかに動く。
男はそれ以上何も言わず、席を立った。
ポケットから小さな黒い財布を取り出す。
「お代は」
「いらん」
神崎が即座に答えた。
「客扱いしない」
「では、次は客として来ます」
「もう、来るな」
男はそれを聞いて、なぜかほっとしたような表情で苦く笑った。
「ごちそうさまでした。ビール、とても美味しかったです」
──カラン。
ドアベルが鳴ると、男は地上へ続く階段の方へ、ゆっくりと消えていった。
◇
男が去っていたあとも、しばらく三人は誰も口を開かなかった。その静けさは、まるでさっきの出来事はなかったことだと言っているかのように。
店内には、空になったビールグラスだけが残されている。
その底に溜まった赤銅色の雫が、照明を受けて小さく光っていた。
豪が、二人の様子を恐る恐る見比べながら、ようやく口を開く。
「あの……オーナー」
「なんだ」
「昔の仕事って、何ですか」
神崎は何も答えない。
「警察って、どういうことですか」
真琴は、カウンターに置かれた名刺へ視線を落とした。
警視庁捜査一課 佐伯嶺二。
名前を見ても、何も思い出せない。
名前どころか、思い出すきっかけになるパズルのピースすら、もう見つけられないような気がした。
「私、あの人と会ったことがあるんですね」
真琴が小さくつぶやくと、神崎はゆっくりとこちらに体を向ける。
「……ああ」
「いつのことですか」
「昔だ」
「オーナーが知っているということは、私たちが知り合った後の話じゃないとおかしいじゃないですか。でも、そうじゃないですよね」
「……」
「どうして、何も教えてくれないんですか。私は、何を……したんですか」
神崎の目が、ほんのわずかに揺らぐ。
その様子を真琴に悟られまいと、逃げるように瞳を伏せる。
「色を視た」
「誰の?」
再び、深い沈黙が落ちる。
これ以上聞いてはいけない。
その方が自分を守れる。
そう本能が告げている。けれど、もう止まれなかった。
「私は、誰の色を見たんですか」
神崎はゆっくり顔を上げると、そのまま天井を見上げ、長い息を吐いた。
「真琴」
「はい」
「この世の中にはな、思い出さなくていい記憶もあるんだ」
その言葉は、さっきと同じくらい、ひどく優しかった。
オーナーが自分を守ろうとしてくれていることは、痛いほどわかっている。
けれど、今はその優しさが、胸の奥を鋭く刺す刃のように感じる。
「それは、私のためですか」
「そうだ」
「それとも……神崎さんのためですか」
神崎は息を飲んだまま、何も答えなかった。
冷蔵庫の低い唸りだけが、店内に静かに続いている。
真琴は名刺から目を離すと、空になったグラスを手に取った。
洗わなければ。客が残したグラスは、いつまでもカウンターに置いておくものではない。
まだ残っていたグラスのひんやりとした感触に、真琴はなぜか、泣きたくなった。
「……それがオーナーの答えなんですね」
それだけぽつりと零すと、真琴は神崎と目を合わせないまま、グラスを洗い場へ片付けに行く。
背後で、神崎が静かに声をかけた。
「今日は、俺が店を閉める」
「まだ、開けたばかりです」
「閉める」
「……横暴ですね」
「オーナーだからな」
右往左往していた豪は、それを聞いてほっとしたように息を吐いた。
真琴は何も言わず、背を向けたまま洗い場へ向き直る。
グラスの縁からこぼれた赤銅の雫が、指先に一滴落ちた。
洗い場の水に溶けると、それらはすぐに透明になって流れていく。
まるで最初から、そこになかったみたいに。
(思い出さなくていい記憶)
神崎の言葉が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
本当に、そんなものがあるのだろうか。知らないままでいる方が幸せなこと。忘れたままでいた方がいいこと。思い出すことで傷つくのは自分なのか、それとも他の誰かなのか。
蛇口を閉める。シンクに落ちる最後の雫の音が、残響のように静かな店内に響いた。
──ズキン。
不意に、胸の奥がちくりと痛む。
理由はわからない。
焦げたような煙の匂いと、雨上がりのアスファルトの冷たさと、それから──
鮮やかなショッキングピンク。
その色だけが、輪郭を持って記憶の底から浮かび上がってくる。
真琴は、その色を確かに知っていた。
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