3.ロンメル将軍の反ユダヤ度はどの程度か?
11281文字:投げ銭せい
btw what’s your take on Opération Walkyrie? the plan to take out hitler but it failed cuz dude had insane luck. hitler ended up purging everyone after, and even field marshal rommel, the desert fox, got caught up in the mess.....
— die dumme Idealistin (@nowarsnokings) April 17, 2026
ちなみに、オペレーション・ヴァルキリーについてどう思う?ヒトラーを暗殺する計画だったけど、失敗したのはあの男が異常な運を持ってたからだよ。その後、ヒトラーは皆を粛清しちゃって、砂漠の狐ことロンメル元帥まで巻き込まれて……。

左上:クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク大佐
右下:シレジア、クライザウのフォン・モルトケ邸宅
◉シュタウフェンベルク大佐(クラウス・フォン・シュタウフェンベルク)は信仰深いカトリック教徒だった。ユダヤ人たちはナチスに対抗し、ドイツ人のキリスト教の洗脳を煽っていたのだ。だから道徳再武装。だから戦後はドイツキリスト教民主同盟となり、ナチスドイツが解除・解毒していたキリスト教への再洗脳となる・・。
◉ロンメル将軍(エルヴィン・ロンメル)の家系はプロテスタント(ルター派)だが信仰深いクリスチャンとは言えない。個人的に「熱心な信仰者」として記録されたものはほとんどない。(だからまた違う理由)
ロンメル将軍の反ユダヤ度はどの程度ですか?
Grok:
ロンメル将軍の反ユダヤ度は、歴史家の評価では「低〜中程度(受動的・看過レベル)」とされています。
熱心なナチス式の狂信的反ユダヤ主義者(例:ヒトラーやSS幹部のような「ユダヤ人は害虫」レベルの憎悪)では全くありませんが、当時のドイツ社会・軍部に広くあった「ユダヤ問題」認識を完全に否定せず、看過したり容認したりした面はあります。積極的にユダヤ人迫害を推進した記録はなく、むしろ一部の残虐命令に抵抗した事例が複数確認されています。
主な根拠(信頼できる歴史資料より)
反ユダヤ的な行動・発言の少なさ
ロンメル自身の手紙や命令に、ユダヤ人を標的にした差別的表現や政策推進の記述はほとんど残っていません。息子のマンフレート・ロンメルは「父は反ユダヤ主義者ではなかったが、ヒトラー政権の反ユダヤ政策は容認していた」と証言しています。街頭での反ユダヤ暴力を見ても「見て見ぬふりをした」程度で、積極的に加担しなかったと回想しています。en.wikipedia.orgユダヤ人保護・命令拒否の事例
フランス占領時、ヒトラーのユダヤ人追放命令を無視したり、ユダヤ人捕虜の処刑命令を焼却・拒否した記録があります。
ヒトラーに対して直接「ユダヤ人問題は止めるべき」と抗議したり、ユダヤ人を軍に取り立てて保護しようとした提案(ヒトラーから「政治がわからない」と一蹴された)も残っています。
低級将校時代には、自分の管轄区のユダヤ人を守ったという証言もあります。history.stackexchange.com
一方で看過・容認した部分
当時のドイツ主流の「ユダヤ人は国家に忠誠を尽くさない」という偏見を共有していた可能性があります(ただし、ナチスの人種理論自体は「ばかげている」と見なしていた節もあります)。
ヒトラー暗殺計画以前は、政権の反ユダヤ政策を「国家の必要悪」として黙認。クリスタルナハト(1938年)後も軍務を続けました。
ソース:ホロコーストWiki(糞)

北アフリカ戦線での複雑さ(最も議論になる点)
ロンメルが指揮したアフリカ軍団の地域では、完全な「憎悪なき戦争」神話は崩れています。
チュニジアなどでユダヤ人強制労働キャンプが設置され、数千人のユダヤ人が死亡(主に病気・酷使)。
部下によるユダヤ人捕虜処刑や現地ユダヤ人コミュニティへの暴力も一部発生。
ヒトラーはロンメルの進撃成功を想定して、エジプト・パレスチナのユダヤ人絶滅部隊(Einsatzkommando Egypt、ガスヴァン使用計画)を準備。ロンメルの参謀部は計画責任者ヴァルター・ラウフと接触していました(ロンメル本人の明確な賛否は記録なし)。
ただし、これらはロンメルが直接命令・主導したものではなく、彼の軍事優先で「後方治安維持」に目をつぶった結果という評価が主流です。勝利していれば中東ホロコーストが拡大した可能性は指摘されていますが、実際の敗北で阻止されました。ホロコーストWiki(糞)

総括(歴史家たちのコンセンサス)
USHMM(米国ホロコースト記念博物館:ユダヤ詐欺メディア):反ユダヤ度や人種差別は「特定しにくい」。極端なナチ政策を「看過」した可能性が高いが、黒人兵や自由フランス兵の処刑命令は明確に拒否。
Wikipedia・複数研究書:ナチス神話の「清廉な軍人」像は誇張されているが、積極的な反ユダヤ主義者ではなかった。軍人としての現実主義が優先され、道徳的反発は限定的。
全体として、ロンメルはナチ党員でもなく、イデオロギーより軍事・愛国を重視したプロの将軍。反ユダヤ主義は「時代背景レベルの受動的容認」にとどまり、シュタウフェンベルクのような宗教的・道義的反発とは異なります。

ユダヤ人たちはナチスに対抗し、ドイツ人のキリスト教の洗脳を煽っていたのだ。だから道徳再武装。だから戦後はドイツキリスト教民主同盟。
要するに、「熱心な反ユダヤ主義者(度:10/10)」ではなく、「当時のドイツ保守派軍人らしい程度(度:3〜5/10)」です。後世の「ロンメル神話」で美化された部分もありますが、史実は上記の通りです。
ロンメル将軍は、積極的な反ユダヤ主義ではなく。とても出来る将軍でしたが、自身の軍の采配についてヒトラーの指示に疑問を持つことが多く、戦争の後半はジリ貧の戦況なのでヒトラーと対立した?もう降伏しろと、ヒトラーかドイツの中央に述べたことがありましたっけ?
はい、その認識でほぼ正しいです。
ロンメル将軍は積極的な反ユダヤ主義者ではなかった。そして非常に有能な将軍で、戦術的な洞察力と大胆な機動戦に優れていました。ただ、ヒトラーの指示(特に補給無視の強攻策や作戦指揮)に疑問を抱き、自身の軍の采配で何度も対立。戦争後半(特に1944年のノルマンディー以降)のジリ貧(消耗戦)の戦況で、ヒトラーやドイツ中央(大本営)に対して「このままでは勝てない」と強く批判し、和平交渉を急ぐべきと進言していました。
「もう降伏しろ」と述べたか? → ほぼその内容
ロンメルは**「無条件降伏しろ」とは一言も言いませんでした**が、**実質的に「戦争を終わらせろ」「西側連合国と和平交渉をすぐに始めろ」**という内容を、ヒトラーや中央に直接・繰り返し伝えていました。ヒトラーにとっては「敗北主義」として受け止められ、決定的な対立要因になりました。具体的な事例(信頼できる歴史記録より):
1944年6月17日・29日のヒトラーとの会談(マルジヴァルやベルヒテスガーデン):
ロンメルはヒトラーに「西方戦線は軍事的にすでに勝てない。政治的解決(和平)を急ぐべき」と直言。ヒトラーが「政治は俺に任せろ」と一蹴したのに対し、ロンメルはさらに「もし総統自身が和平の障害なら、辞任するか自ら命を絶つべきだ」とまで踏み込んだと、複数の側近の回想録で記録されています。reddit com +1
これらの行動は、北アフリカ時代からの「ヒトラーの独善的な命令(補給無視の強攻など)に疑問を持つ」延長線上でした。ノルマンディー上陸後、連合軍の物量と空爆でドイツ軍が壊滅的に消耗する中、ロンメルは「無駄な犠牲を増やすだけ」と判断。ヒトラーの「最後まで戦え」という命令に真っ向から反旗を翻した形です。結果として:
ヒトラーはロンメルを「敗北主義者」と見なし、信頼を完全に失いました。
これが7月20日の暗殺未遂事件後のロンメル追及(周辺関与の疑い→自殺強要)の遠因にもなりました。
要するに、あなたのまとめは史実とかなり一致しています。ロンメルは「ヒトラーのお気に入り」から「現実を直視した批判者」へ変わり、軍事的勝利よりドイツの存続を優先して「和平(=実質的な降伏交渉)」を求めたのです。ただ、ヒトラー体制下ではそんな発言自体が命取りでした。もっと詳しい手紙の原文引用や、具体的な会談記録が必要でしたら教えてください!(主な出典は『The Rommel Papers』やWikipediaの信頼できる脚注、歴史研究書で一致しています)

『ロンメル文書』は、第二次世界大戦中のドイツ陸軍元帥エルヴィン・ロンメルの著作を集めたもので、1953年に出版された。
この本には、イギリスのジャーナリスト兼歴史家であるBHリデル・ハート、北アフリカでロンメルの参謀を務めた元国防軍将校フリッツ・バイエルライン、そしてロンメルの未亡人と息子によって編集された、ロンメルの戦争に関する著作が収録されている。この巻には、リデル・ハートによる序文と解説が含まれている。

BH Liddell Hart 編集による 1953 年版の本の表紙。これは、清廉潔白な国防軍という包括的な神話の構成要素の 1 つとしてロンメル伝説を構築した基礎的なテキストの 1 つです
プロパガンダ入っているよな。
コマンド指令
AI による概要
この画像は、1942年10月18日に発行された、アドルフ・ヒトラーによるいわゆる「コマンド命令(Commando Order)」の英語翻訳文書です。
歴史的背景: この命令は、ドイツ軍がイギリス軍の特殊部隊(コマンド)による急襲に激怒した結果、出されました。
命令の内容: 制服を着用しているかどうかにかかわらず、捕らえられたすべてのコマンド隊員を即座に処刑することを許可する内容でした。
適用範囲: この戦争犯罪命令は、ドイツの占領地域で捕らえられたすべてのイギリス特殊部隊員に適用されました。

コマンドーオーダー
コマンドー命令(ドイツ語: Kommandobefehl)は、ドイツ国防軍最高司令部であるOKWによって1942年10月18日に発令された。

この命令は、ヨーロッパとアフリカで捕らえられた連合軍コマンドーは、たとえ正規の制服を着ていても、あるいは降伏を試みても、裁判なしに即決処刑されるべきであると定めていた。正規の制服を着ていないコマンドー、小グループ、または同様の部隊、工作員、破壊工作員が、直接戦闘以外の何らかの手段(例えば、占領地で警察に逮捕されるなど)でドイツ軍の手に落ちた場合、直ちに保安局(SD、または保安部)に引き渡され、即決処刑されることになっていた。
OKWによれば、これは敵が「ジュネーブ国際条約に違反する手段を戦争遂行に用いた」ことへの報復として行われた。
エルヴィン・ロンメルを含む一部のドイツ軍司令官は、名誉ある行動に反すると考え、部隊に命令を伝えることを拒否した。

コマンド部隊
語源
「コマンド」という言葉が特殊部隊という意味合いで使われたのは、第二次世界大戦中にイギリスのウィンストン・チャーチル首相が新設の特殊部隊をコマンドと命名した事が始まりである(ブリティッシュ・コマンドス)。
ルーツ
かつて、従軍記者としてボーア戦争に参加したチャーチルは、ボーア軍の捕虜となったが、その際にコマンド(Commando)と呼ばれるボーア軍の小規模な義勇騎兵部隊の活動を目の当たりにした。この部隊は土地勘を活かし、イギリス軍に対してヒット・エンド・ラン戦法で奇襲攻撃を行っていた。チャーチルはこうした特殊部隊および特殊作戦に強い関心を抱くようになり、自らが創設に携わった新たな特殊部隊に「コマンド」の名前を用いたのである。また、特殊部隊の発案者であるダドリー・クラーク陸軍中佐が南アフリカ出身であったことも一因である。

ボーア軍コマンドの語源を辿れば、オランダ植民地支配下の南部アフリカ語(アフリカーンス語)で、部族対立の際に部族の中でコマンド・指揮つまり、指揮系統における一部隊を結成したことに由来する。欧米語において、コマンドとは一部隊の名称でもある。第二次ボーア戦争当時の1900年において、ボーア軍が動員した75,000人のオランダ系白人コマンドがゲリラ戦により、イギリス軍450,000人を効果的に引き付けたとされている。
ブリティッシュ・コマンドス
ブリティッシュ・コマンドス(British Commandos)とは、イギリス軍が有したコマンド部隊である。第二次世界大戦中の1940年6月、ウィンストン・チャーチル首相の命令によって編成された。その主たる任務はナチス・ドイツ占領下のヨーロッパにおいて様々な特殊任務を遂行することであった。当初はイギリス陸軍からの志願者で編成されていたが、のちに海軍および空軍を含むイギリス全軍からの志願者や占領地出身の外国人義勇兵なども大勢加わった。
編成
1940年6月、イギリス軍における特殊活動部門としてコマンドスの編成が始まった。ダンケルク撤退の後、首相ウィンストン・チャーチルは部隊の再編成と装備の収集がドイツへの打撃となり、英国の士気を支えるのだと語った。チャーチルは統合参謀本部にてドイツ占領下のヨーロッパに対する攻勢を検討する会議が開かれた際、「例えば敵地沿岸を恐怖で支配できるような、狩人のように特殊な訓練を積んだ部隊を用意しなければならない」と語った。
これに先立って参謀将校ダドリー・クラーク中佐が帝国参謀総長のサー・ジョン・ディル大将に対して類似の提案を行なっている。チャーチルの言葉を受け、ディルはクラークの提案を承認し、1940年6月23日には最初のコマンド攻撃が行われた。

まとめ
◉ブリティッシュ・コマンドスはユダヤ人・ウィンストン・チャーチル首相の命令によって編成された。
◉ブリティッシュ・コマンドスの中身はどうなんだ?
冒頭の「露人の言」によれば「ボリシェヴィズムは露国の産物ではなく、輸入物」であり、革命は「某国ユダヤ人が仕組んだもので、今当地に居る某国の軍隊の半分はユダヤ人」である、某国は「種々の機関を派遣しているが、それを牛耳っているのもユダヤ人である」。
「某国」とは後述するようにアメリカを指す。
ヒトラー的には連合軍が先にやったから、こっちも目には目を、歯には歯をなの?
はい、ヒトラー的にはまさに「目には目を、歯には歯を」=「連合軍が先に国際法違反をしたから、ドイツも同じ方法で報復する」という理屈でした。
コマンドーオーダー(1942年10月18日発令)の公式な理由は、ヒトラー(およびOKW=ドイツ国防軍最高司令部)が「連合軍のコマンドー部隊が先に非道な行為をした」という主張に基づいています。命令文自体にそのことがはっきり書かれています。
ヒトラーの主張(命令文からの直接引用)
「我々の敵は、ジュネーブ条約に違反する戦い方を長らく行っている。」
「コマンドー部隊は特に残虐で卑劣な方法を取っており、捕虜を縛るだけでなく、邪魔になると判断した非武装の捕虜を即座に殺害するよう命令されている。」
「したがって、ドイツも同じ方法を採用する。これらのサボタージュ部隊が現れたら、無慈悲に殲滅せよ。」
つまり、**「向こうが先に捕虜を縛って殺した → こっちも同じように、捕虜にしないで全員即殺」**という報復ロジックです。ヒトラーはコマンドーを「正規兵ではなく、テロリスト・山賊(bandits)」と呼び、軍人としての扱いを拒否しました。
具体的な「きっかけとなった連合軍の行動」(ヒトラーが激怒した2つの事件)
ディエップ強襲(1942年8月19日)
カナダ軍主体のコマンドー作戦。ドイツ側は「捕虜となったドイツ兵が手枷をはめられ、射殺された死体を発見した」と主張。作戦命令書(捕虜を縛る指示)も鹵獲されました。サーク島急襲(Operation Basalt、1942年10月3-4日)
イギリス軍の小型コマンドー部隊がチャンネル諸島のサーク島を襲撃。ドイツ兵5名を捕虜にし、手を縛って連行。逃げようとしたり叫んだりした兵を射殺・刺殺したとドイツ側が記録。これが命令発令のわずか2週間前で、ヒトラーを特に激怒させました。
これらを「連合軍が先に国際法違反(捕虜虐待)をした証拠」と位置づけ、報復としてコマンドーオーダーを出したのです。
ただし、歴史的事実としての注意点
連合軍側は「急襲作戦で逃亡防止のため一時的に手を縛っただけで、意図的な処刑ではない」と主張。
ヒトラーの命令は報復をはるかに超えてエスカレート:軍服を着た正規コマンドーでも、降伏しても即殺、という違法な内容になりました(ハーグ陸戦条約・ジュネーブ条約違反)。
戦後ニュルンベルク裁判では「報復を理由にしても違法命令」と認定され、発令に関わったケーテルやヨードルは有罪(死刑)になりました。
戦後ニュルンベルク裁判、東京裁判はクソ出鱈目。連合軍=ユダヤ・フリーメーソンと言って良い。
ロンメル将軍がこの命令を部隊に伝えなかったのも、「こんな報復は軍人の名誉に反する」と考えたからです。要するに、あなたの読み取りはヒトラーの意図を正確に捉えています。彼は「向こうが先に非道をしたから、こっちも同じ(いや、それ以上に)」という論理で正当化したのです。
命令文の全文を詳しく
ドイツ語原文から
コマンドーオーダー(Kommandobefehl)のドイツ語原文全文をお伝えします。以下は、1942年10月18日付でヒトラーが直接署名した公式命令文の完全な原文です(OKW/WFSt発行の「Geheime Kommandosache」)。これは歴史資料(documentArchiv.de、ニュルンベルク裁判文書、標準的な研究書)で確認される標準テキスト(英語訳)と完全に一致します。
(Grokに英語の全文をもらったが、ドイツ語も貰った。ドイツ語の翻訳をここに)
命令本文(Der Führer)
総統
F.H.Qu、1942 年 10 月 18 日
No. 003830/42 g.Kdos。 OKW/WFSt
極秘
12部
12部目
長年にわたり、我々の敵は捕虜の処遇に関する国際協定に違反する戦争遂行方法を用いてきた。いわゆる特殊部隊の隊員は特に残虐かつ卑劣な行為を行い、自国の犯罪者だけでなく占領地の元受刑者も徴募していることが明らかになっている。押収された命令書からは、捕虜を拘束するだけでなく、邪魔になる、あるいは作戦遂行を妨害する可能性のある非武装の捕虜を即決で殺害することも指示されている。捕虜の殺害を明確に命じる命令書さえ発見されている。
こうした状況において、1942年10月7日のドイツ国防軍報告書の付録では、ドイツは今後、イギリスとその共犯者のこうした破壊工作部隊に対して同じ方法を用いる、すなわち、彼らがどこに現れようともドイツ軍によって容赦なく殲滅されることが既に発表されていた。
したがって、私は命じる。今後、ヨーロッパまたはアフリカにおけるいわゆる特殊作戦においてドイツ軍と戦う者は、たとえ外見上は軍服を着た兵士であろうと破壊工作員であろうと、武装していようと非武装であろうと、戦っていようと逃走していようと、すべて抹殺される。作戦のために船で到着しようと飛行機で到着しようと、あるいはパラシュート降下であろうと、何ら違いはない。たとえこれらの者が発見された際に明らかに捕虜として降伏する意思を示したとしても、一切の慈悲は与えてはならない。すべての事例は国防軍最高司令部(OKW)に報告されなければならない。
工作員や破壊工作員など、こうした特殊部隊の個々の隊員が、占領地の警察などを通じて何らかの形で国防軍の手に渡った場合、直ちにSD(親衛隊保安部)に引き渡さなければならない。たとえ、捕虜収容所などに一時的にでも収容することは厳しく禁じられている。
この命令は、公然とした戦闘中、または通常の作戦、大規模な攻撃、大規模な上陸作戦、空挺作戦中に捕虜となった、あるいは降伏した敵兵の処遇には適用されない。また、海戦や航空戦の後、パラシュート降下によって命を救おうとする者にも適用されない。
部隊への指示義務を怠った指揮官および将校、あるいは自らこの命令に違反した指揮官および将校は、すべて戦争法に基づき責任を問われることになる。
(署名) A. ヒトラー
付属のカバー文書(ヨードル大将の配布指示、翌19日付)
翌日(10月19日)にアルフレート・ヨードル大将(作戦部長)が22部を配布した際の極秘指示文も重要です(これも命令の一部として扱われます)
国軍最高司令部
F.H.Qu.、1942年10月19日
No. 551781/42 g.Kdos. 参謀長 W.F.St/Qu.
22部
21部
同封の総統命令は、敵のテロ組織および破壊工作組織の壊滅に関連して送付されるものです。
この命令は指揮官のみを対象としており、いかなる場合も敵の手に渡ってはなりません。受領機関によるさらなる配布は厳しく制限されなければなりません。
配布リストに記載されている機関は、この命令のすべての写し、またはその抜粋を、この写しとともに返却し、破棄する責任を負います。
軍作戦参謀長
(署名)ヨードル
文のドイツ語版や特定部分の解説が必要でしたら、すぐにお答えします!
ドイツ語版も英語版も基本的に同じだが、ドイツ語版のほうが口調が厳しいためかより分かりやすかった。(どちらも綺麗に翻訳できる)
敵とはいえ、ロンメル将軍は凄い将軍だとチャーチルは称えてますよね?反ユダヤ主義じゃない、ユダヤ人だからって殺したりしない人物と知っていた?
はい、チャーチルはロンメル将軍を「偉大な将軍」と公に称賛しています。
ただ、あなたの推測(「反ユダヤ主義じゃないのをユダヤ人だから殺さない人物だと知っていたんじゃないか」)については、歴史的事実として裏付けられる証拠はありません。チャーチルの称賛は純粋に軍事的才能に対する敵将としての敬意で、反ユダヤ主義やユダヤ人処遇に関する個人的道徳を知っていたわけではないようです。
1. チャーチルの具体的な称賛(史実)
1942年1月27日、イギリス庶民院での演説(北アフリカ戦線でロンメルが優勢だった時期):
「我々には非常に大胆で巧みな敵が対峙している。そして、戦争の惨禍を越えて言わせてもらえば、**偉大な将軍(a great General)**だ。」
(原文:"We have a very daring and skilful opponent against us and, may I say across the havoc of war, a great General.")
この発言は、当時のイギリス国内で北アフリカでの敗北続きを説明するための政治的発言でもありました。チャーチルは「敵ながらあっぱれ」とロンメルの戦術的天才を認め、国民の士気を保つために使いました。
戦後(1950年)の回顧録『第二次世界大戦』第3巻でも、チャーチルはこの称賛を繰り返しつつ、ロンメルがヒトラーを憎み暗殺計画に関わったことを評価していますが、それも戦後の知識です。
2. 「反ユダヤ主義じゃないのをチャーチルが知っていた?」→ ほぼない
当時のチャーチル(および連合軍首脳)がロンメルの個人的な反ユダヤ度や「ユダヤ人だから殺さない」という性格を具体的に把握していた記録は一切ありません。
戦時中のイギリス諜報はロンメルの軍事行動・補給状況・作戦意図に集中していました。ロンメルがコマンドーオーダーを部隊に伝えなかったことや、北アフリカで一部のユダヤ人関連命令を緩やかに扱った可能性は、戦後になってから明らかになった部分です。
ロンメルの「反ユダヤ主義が低かった」という評価は、戦後の「ロンメル神話」(西側がドイツの「良心的将軍」像を積極的に広めたもの)で強調されたものです。
むしろチャーチルは「敵の優れた将軍」としてロンメルを政治的に利用しただけ。ロンメルの人道性(反ユダヤ・反残虐命令拒否)は、ヒトラー暗殺未遂後の自殺強要(1944年)でようやく西側に知られるようになり、戦後さらに美化されました。
まとめ
チャーチルは確かにロンメルを「凄い将軍」と敵ながら称賛しました。これは事実で、当時の演説でも回顧録でも確認できます。
ロンメル自身は前回お話しした通り、積極的な反ユダヤ主義者ではなく、命令拒否も複数ありましたが、それはチャーチルにとって「称賛の理由」ではなかったのです。
戦後西側が、なぜ多くの映画でロンメルの宣伝をしたんですか?
はい、戦後(特に1950年代)の西側(主にアメリカ・イギリス)でロンメル将軍を英雄的に描いた映画がたくさん作られたのは、「ロンメル神話(Rommel myth)」**という意図的なイメージ戦略の産物です。純粋に「凄い将軍だったから」ではなく、政治的・軍事的な必要性から宣伝された側面が非常に強いです。
主な理由:冷戦下の「西ドイツ再軍備」と「旧敵との和解」
1950年の朝鮮戦争勃発で、米英は「ソ連(共産圏)に対抗するため、西ドイツを西側陣営に引き込み、再軍備(Wiederbewaffnung) する必要に迫られました。1955年に西ドイツはNATOに正式加盟しますが、そのためには「ナチスドイツのイメージ」を払拭し、西ドイツ軍(ブンデスヴェーア)を信頼できる味方として国民に受け入れさせる必要がありました。
そこでロンメルは**理想的な「good German(良いドイツ人)」**の象徴として利用されたのです。
「ヒトラーと距離を置き、反ナチス抵抗派だった」
「清廉で名誉ある戦争を戦ったプロの軍人」
「連合軍からも敬意を払われた敵将」
これにより、**「ドイツ軍=全員がナチス犯罪者ではない」**というイメージを植え付け、西ドイツ再軍備をスムーズに進め、英米との和解を促進したのです。ロンメルは「ヒトラーの被害者」として描かれることで、西側国民にも受け入れやすくなりました。en.wikipedia.org

代表的な映画とその影響
『砂漠の狐(The Desert Fox: The Story of Rommel)』(1951年、アメリカ、ジェームズ・メイソン主演)
これが最も有名で、神話の決定打となった作品です。ロンメルをヒトラーに反発し、暗殺計画に(間接的に)関わった「悲劇の英雄」として美化。公開当時、欧州で物議を醸しましたが、西ドイツでの再軍備を後押しする文化外交的な役割を果たしました。ハリウッドはこれを「旧敵との和解のための文化外交」と位置づけていました。en.wikipedia.orgその他にも『Raid on Rommel』(1971年)など、1950〜70年代にかけてロンメルを主人公にした映画・ドキュメンタリーが複数制作されました。

戦時中からの布石も
実は戦時中から英国側は「ロンメルはスーパーマン級の将軍」と宣伝していました。これは自軍の北アフリカでの敗北を「相手が天才だったから」と説明するためのプロパガンダでもありました。
戦後、これがそのまま「good German」像に転用された形です。
要するに、西側はロンメルを「敵ながら名誉ある将軍」として宣伝することで、冷戦の現実政治(西ドイツを味方につける)を後押ししたのです。ロンメル自身の人柄(反ユダヤ度が低く、コマンドーオーダー拒否など)も神話に都合が良かったですが、それは「利用できる材料」として強調されたに過ぎません。後年の歴史研究では、この「ロンメル神話」は史実を美化しすぎていると(ユダヤ人たちから)批判されています。
おわり
ここから先は
¥ 150
特に無料閲覧にしてある記事に100円でも200円でも入れてもらえると、書き続けることができるのでよろしくお願いします。m(_ _)m
