2.ロンメルとヒトラー暗殺計画との関連性
4495文字:投げ銭せい
◉このnote答えを得た時の資料です。
ナチス・ヒトラーに関する真実は無数の嘘に覆われているが、それでも、真実を大まかに見極めることができる。
rommel wasn't some fancy junker aristocrat either. hitler personally hyped him up and promoted him. hitler wanted to show germany that in the nazi system, you didn't need a "von" in your name or a rich family to become a field marshal. you just needed talent pic.twitter.com/ZeRS1prNFH
— die dumme Idealistin (@nowarsnokings) April 18, 2026
冷戦が始まると、西側諸国はソ連に対する緩衝地帯として西ドイツを必要とした。ドイツ軍の正当性を再び示すため、映画やメディアはドイツ軍の将軍たちを「道徳心のあるプロの兵士」あるいは「反ヒトラーの英雄」として描き始めた。
1942年、ヒトラーは捕虜となった連合軍のコマンド部隊を処刑しなければならないというコマンド部隊令を下しました。ロンメルはただそのメモを
燃やして無視したのです。

AI
第二次世界大戦中にアドルフ・ヒトラーによって署名された「コマンド命令」と呼ばれる秘密文書の写しです。
日付: 1942年10月18日。
内容: 敵国イギリスの特殊部隊コマンドがジュネーブ条約に違反した戦闘を行っているとして、彼らを捕らえた場合には即座に処刑するように命令した。
歴史的背景: この命令は国際法に反する戦争犯罪と見なされています。
しかしロンメルはそのメモを燃やして、無視した。
ワシ:ドイツ語の文もあるが、これ画像検索で一枚しかでてこない、それもそのリンク先を確認できないが…Grokに聞いたら教えてくれた、それは次回で。
btw what’s your take on Opération Walkyrie? the plan to take out hitler but it failed cuz dude had insane luck. hitler ended up purging everyone after, and even field marshal rommel, the desert fox, got caught up in the mess.....
— die dumme Idealistin (@nowarsnokings) April 17, 2026
ところで、ワルキューレ作戦についてどう思いますか?ヒトラー暗殺計画だったのに、ヒトラーの運が良すぎて失敗に終わった作戦です。結局ヒトラーはその後、全員を粛清し、砂漠の狐ロンメル元帥までもが巻き込まれてしまいました……。
ヒトラー暗殺計画だったのに、ヒトラーの運が良すぎて失敗に終わったワルキューレ作戦とは?
**ヴァルキューレ作戦とは、1944年7月20日に実行されたヒトラー暗殺未遂事件の核心となった計画です。
あなたがおっしゃる通り、「ヒトラー暗殺計画だったのに、ヒトラーの運が良すぎて失敗に終わった」象徴的な作戦で、ドイツ軍内部の反ヒトラー抵抗派(主にシュタウフェンベルク大佐ら)が主導しました。
1. 元々は何の計画だったのか?
ヴァルキューレ作戦は、ヒトラー自身が承認した公式の緊急計画でした。
目的:ヒトラーが死亡・暗殺されたり、国内で反乱が起きた場合に、**予備軍(国内予備軍)**を動員して秩序を維持し、ナチス政権の継続を図るための「政府継続計画」。
これを抵抗派が密かに改変して「ヒトラー暗殺後のクーデター計画」に転用したのが実態です。
暗殺成功後、「ヒトラーはSS(親衛隊)のクーデターで殺された」と偽装。
予備軍を動員してベルリンや主要都市を制圧、ナチス幹部を逮捕し、新政権(ゲルデラーやベックら)を樹立して連合国との和平交渉を目指す。
抵抗派の中心:クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐、フリードリヒ・オルブリヒト大将、ヘニング・フォン・トレスコウ少将ら。約200人規模の軍人・文民が関与。
ワシ:すでに少し調べてた。

右下:シレジア、クライザウのフォン・モルトケ邸宅
◉シュタウフェンベルク大佐(クラウス・フォン・シュタウフェンベルク)は信仰深いカトリック教徒だった。ユダヤ人たちはナチスに対抗し、ドイツ人のキリスト教の洗脳を煽っていたのだ。だから道徳再武装。だから戦後はドイツキリスト教民主同盟となり、ナチスドイツが解除・解毒していたキリスト教への再洗脳となる・・。
◉ロンメル将軍(エルヴィン・ロンメル)の家系はプロテスタント(ルター派)だが信仰深いクリスチャンとは言えない。個人的に「熱心な信仰者」として記録されたものはほとんどない。(だからまた違う理由)
2. 1944年7月20日の出来事(時系列)
場所:東プロイセン・ヴァルシャウ(狼の巣、Wolfsschanze)の総統大本営。
シュタウフェンベルクの行動:
片腕(右腕を失っていた)ながら爆弾入りの鞄を会議室に持ち込み、ヒトラーのすぐ近くの床に置く。
爆弾はイギリス製の特殊時限爆弾(プラスチック爆薬+信管)。2つ用意したが、時間不足で1つしか起動できず。
「電話をかける」と偽って退出。
爆発:午後12時42分ごろ。爆弾は爆発しましたが、ヒトラーは軽傷(鼓膜破裂・火傷・震え)だけで生還。
3. なぜ失敗したのか?(ヒトラーの「運」が良すぎた主な理由)
歴史家が「奇跡的な幸運」と呼ぶほど、複数の偶然が重なりました:
会議場所の変更
当初はコンクリート製の地下 bunker(密閉・強固)で予定されていましたが、その日は木造の地上会議室に変更。爆風が壁・天井を吹き飛ばして逃げ道ができ、殺傷力が大幅に低下。鞄の移動
シュタウフェンベルク退出後、別の将校(ハインツ・ブラント中佐)が「邪魔だ」と鞄を重いオーク材の会議テーブルの脚の後ろに移動。テーブルが盾になってヒトラーを守った。爆弾の不完全起動
2つ目の爆弾を起動できず、威力不足。その他の偶然
ヒトラーが予定より早く会議室に入ったタイミング。
窓が開いていたため爆圧が分散。
これらが重なり、ヒトラーは「運が良すぎて」生き延びたのです。もしコンクリートbunkerで、鞄がそのまま近くに置かれていたら、ほぼ確実に即死でした。
4. その後の失敗と結果
シュタウフェンベルクは「ヒトラー死亡」と信じてベルリンに飛び、クーデターを実行開始。
しかしヒトラー生存の報が伝わると、抵抗派の動きが混乱・停滞。予備軍司令官フリードリヒ・フロム大将の裏切りもあり、わずか数時間で鎮圧。
報復:約7,000人が逮捕、約5,000人が処刑(人民法廷で)。シュタウフェンベルクらは即決処刑。ロンメル将軍も「関与疑い」で自殺を強要されました(前回の会話通り)。
要するに、ヴァルキューレ作戦は「ヒトラーさえ死ねばドイツを救える」と信じた抵抗派の悲劇的な挑戦でしたが、ヒトラーの異常な幸運と計画の綻びで失敗。結果としてナチス体制はさらに強硬化し、戦争は1945年まで続きました。
この時、ムッソリーニがナチス本部に来てませんでしたっけ?

はい、ユーザーがおっしゃる通りです。
1944年7月20日のヴァルキューレ作戦(ヒトラー暗殺未遂事件)の当日、ベニート・ムッソリーニは実際に「狼の巣(Wolfsschanze)」を公式訪問していました。
ただし、爆発の瞬間に同席していたわけではありません。爆発後に到着して、ヒトラーと一緒に爆破現場を視察したのです。
正確なタイムライン
爆発時刻:午後12時42分(会議室で爆弾が炸裂)。
ムッソリーニの到着:午後3時頃(列車で到着。ヒトラーが雨の中、駅まで出迎え)。
爆発後、数時間経ってからヒトラーと会談し、損傷した会議室を一緒に視察しました。
このときの有名な写真、ヒトラーとムッソリーニが爆破された会議室の残骸の中で驚いた表情で並んでいる写真が複数残っています。alamy.com
なぜムッソリーニがその日にいたのか?
元々、ヒトラーとムッソリーニの首脳会談がその日に予定されていました。
ムッソリーニ来訪のため、通常午後1時開始予定の軍事会議が30分繰り上がって12時30分になりました(これが結果的に暗殺計画に影響を与えました)。
爆発後、ヒトラーは負傷したまま「神の摂理で守られた」とムッソリーニに語りました。リンク
この写真は戦後、ヒトラーの「運の強さ」と「ムッソリーニとの最後の会談」の象徴としてよく使われます。ムッソリーニ自身はこの出来事を「奇跡」と受け止め、ヒトラー体制への忠誠を改めて確認したと言われています。
要するに、あなたの記憶は完全に正しいです。
ムッソリーニは「爆破された本部」にヒトラーと一緒に写っていますが、爆発の瞬間にはまだ到着しておらず、事件後の視察写真なのです。この写真をもっと詳しく見たい、または他の関連写真(駅での出迎えシーンなど)が知りたい場合は教えてください! 史実は上記の通り、複数の資料で一致しています。
このワルキューレ作戦の失敗・・ヒトラーはその後、全員を粛清し、ロンメル元帥までもが巻き込まれてしまった・・このような展開だったんですか??
はい、あなたの認識は史実とほぼ完全に一致しています。 ヴァルキューレ作戦(7月20日事件)の失敗後、ヒトラーは猛烈な報復と大粛清を敢行し、反ヒトラー派を徹底的に根絶やしにしようとしました。その過程で、ロンメル元帥も「関与の疑い」をかけられて巻き込まれ、結局は自殺を強要されるという悲劇的な展開になりました。
1. 失敗直後の即時報復(7月20日当日)
爆発後、ベルリンでクーデターを試みた抵抗派の一部(シュタウフェンベルク大佐、オルブリヒト大将ら)は即座に逮捕・処刑されました。
国内補充軍司令官フリードリヒ・フロム大将は自分を守るために、抵抗派を「即決裁判」で銃殺させるなど、混乱の中で多くの犠牲者が出ました。
2. ヒトラーの大粛清(7月21日以降)
ヒトラーは生存をラジオで発表した直後から「容赦ない一掃」を命じ、**ゲシュタポ+RSHA(国家保安本部)**が大規模捜査を開始。
逮捕者:約7,000人(事件直接関与者+周辺者+以前から反ヒトラーと目されていた人々も含む)。
処刑者:約4,980〜5,000人(人民法廷でローラント・フライスラー裁判長がの裁判)。
処刑方法は残虐を極め、ピアノ線での絞首や肉フック吊るし公開処刑なども行われました。
家族・親族にも「連座制」で処罰が及び、強制収容所送りになるケースが多数ありました。
この粛清は軍部・文民を問わず、反ヒトラー派のほぼ全滅を意味し、ドイツ国内の抵抗運動を根こそぎ消し去りました。encyclopedia.ushmm.org

話がおかしいと思いGrokのリンク先を見れば、ユダヤ人の詐欺ホロコースト百科事典。ワシは逆にユダヤ人の嘘の確認に使っている。
3. ロンメル元帥の場合(「巻き込まれた」典型例)
ロンメルは暗殺計画の核心メンバーではなかった(暗殺自体に反対で、「ヒトラーを裁判にかけて追放すべき」との立場)。
しかし、以下の理由でゲシュタポの捜査網に引っかかりました:
側近(参謀長ハンス・シュパイデル中将ら)や他の抵抗派将校(フォン・シュティルプナーゲル大将など)の尋問(拷問下の自白)で名前が挙がった。
クーデター後の新政権で「要職に就く予定者リスト」に記載されていた。
ヒトラーに対する和平進言(西方戦線での「もう戦えない」との直言)が「敗北主義」と見なされていた。
ヒトラーはロンメルの絶大な国民的人気を考慮し、公の裁判は避けました。
1944年10月14日、2人の将軍がロンメルの自宅を訪れ、選択を迫りました:
自殺(シアン化カリウムの毒薬)→ 家族の安全と国家英雄としての国葬を保証。
公式発表は「戦傷による死亡」でした(実際は10月14日の出来事)。
まさに「失敗→全員粛清→ロンメルも巻き込まれて強制自殺」という流れです。en.wikipedia.org
つづく
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