どちらにしようかな天の神様の言うとおり
「どちらにしようかな天の神様の言うとおり」
これは、日本人なら誰もが口にしたことのあるフレーズです。
それにしても私たちは、なぜ神様に決めてもらっていたのでしょうか──
「どちらにしようかな」は、複数の選択肢から一つのものを決定するための遊び歌です。
このような歌は、日本に限らず諸外国にも存在しています。
各国の「どちらにしようかな」を見ると、意外なことに、神様に決めてもらうのは日本だけなのです(各国の類似表現については、Wikipedia等に整理されています)。
📌この記事では──
日本人が言う「天の神様の言うとおり」から、日本人の無意識の信仰心について考えます。
1|天の神様の言うとおりの発祥
この歌は、特定の地域で始まったという明確な史料はありません。
子どもたちの遊びの中で、自然に広まったわらべ歌の一種です。
鬼ごっこなどで順番や役割を決めるための歌は江戸時代以前からあり、現在の形「どちらにしようかな〇〇の言うとおり」は、明治〜昭和時代に子ども文化とともに全国に広まったと考えられています。
〇〇の部分は「恵比須様・大黒様・天神様」など、具体的な神の名を用いる場合もあったようですが、次第に「天の神様」になりました。
2|多様なバリエーションから見えるもの
地域によって「〇〇の言うとおり」に続く歌詞は、様々なバリエーションが許容されていますが、全国的に〇〇の部分は「天の神様」にほぼ統一されています。
「天の神様」にほぼ統一されている
民俗学的に見ると、全国のバリエーションを集めても、〇〇の部分は、
天の神様
神様
裏の神様(少数)
天神様(少数)
というごく狭い範囲に集中しています。
一方で「〇〇の言うとおり」に続く歌詞は、
鉄砲撃ってバンバンバン
柿の種
なのなのな
へのへのもへじ
ぷっぷっぷ
すっぽんぽん
などのほか、無秩序なほど多様です。
これには「ここは壊してよいが、ここは壊してはいけない」という無意識の線引きが現れています。
3|なぜ「神様」の部分は固定されるのか
理由① ここが歌の核心だから
この歌は「選ぶこと」「決めること」が目的ですが、「公正であること」「委ねること」に本質があります。
そのために必要なのは、「決定権を自分以外に移す装置」であって、それを担っているのが「神様」にあるのです。
もしここを壊してしまうと、ただの数え歌やじゃんけんと変わらなくなります。
つまり、「神様の言うとおり」であることで、決定が正当化されるのです。
理由② 無用な争いを避けるため
先ほど、神様部分のバリエーションで「恵比寿様・大黒様・天神様」などがありました。
これらが「天の神様・神様」に収斂していった理由としては、特定の神には地域性や特定の機能(商売、豊穣、学問など)があるため、どの神にするかという無用な争いを避けるようになったのではと考えられます。
理由③「天」が付くことで最強感が増す
シンプルに「神様」だけでも成立しますが、天の神様になると、「天にいる・すべてを知っている・すべての神を超越する・最上位者・最終判断者」というニュアンスが強化されます。
神様の中でも「天の神様」は、子ども社会における最強の共通語であるため、最終的に残ったのでしょう。
これは、日本人が無意識に畏れ敬い親しんでいる「お天道様」と同じ感覚です。
4|無意識に神様を信じる日本人
「天の神様の言うとおり」には、日本人の無意識の信仰心がはっきりと現れています。
これは「優柔不断」や「責任回避」ではなく、むしろ「自分が最終判断者であるべきではない」という意識が、内在されているのです。
なぜ信仰心と言えるのか
もし決定が単なるランダムでよければ、わざわざ神様を持ち出す必要はないはずです。
しかし、日本人の意識は「神様の言うとおり」が定型になっており、偶然の選択では満足できず、「神意に従いたい心」が現れているのです。
「天の神様の言うとおり」は、自分の好みでも、強い者の意見でも、多数決でもない、まさにすべてを超越する最終判断者に委ねる宣言と言えるのです。
この感覚は、実は聖書にも非常によく似た表現があります。
【箴言 16章33節】
人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。
無意識に受け継がれる信仰文化
そして重要なのは、子どもたちは、そうするように強いられたわけでもなく、ごく自然に違和感なく空気を読み取り、無意識のうちに「神に委ねる言葉」を使っていることです。
実際は、天の神様に示された(はずの)結果に従わないケースもあるかもしれませんが、一旦、神に委ねるという思いは、無意識の信仰心と言えるでしょう。
補足:
「鉄・砲・撃っ・て・バン・バン・バン」などのバリエーションはすべて奇数音で、神意をくつがえす手段になっています(笑)
5|無宗教の日本人の信仰心
現代の日本人の多くは「自分は無宗教」と言います。
それは「神を信じない」というより、宗教組織に属さない、あるいは信条(信じているもの)を言語化していないという意味で使われています。
実際、生活の中には──
「天の神様の言うとおり」「お天道様は見ている」「罰が当たる」「いただきます」といった超越者に対する畏敬の念が、ほぼ無意識に根づいています。
正月には初詣、子が産まれればお宮参り、七五三を祝い、不安の解消に御守を求めます。それも強制されることなく、自らの意思でです。
これは「信じている」と宣言せずとも、信じているのです。
日本人は、信仰と宗教との線引きを無意識に、あるいは意識的にしており、実質(心の奥底の信仰)を大切にする思いから形式的な宗教(心の伴わない強制)に価値を見出さないのかもしれません。
日本人の多くは決して無神論者ではなく、無意識の信仰を持つ有神論者と言えるでしょう。
【詩篇 37篇5-6節】
あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。
📍こちらの記事も是非お読みください。
日本人は知らず知らずに、お天道様を通して聖書の神を畏れ敬い親しんでいることを考察しています。

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