触れる、水──『水辺のつつじ』ep.58
アラーム音が妙にくぐもっていた。
プールの底で聴く、長いホイッスルのように。
「どこ……」
疼く頭の血管を枕に押し付け、手の届く範囲を無作為に叩く。
恐る恐る、片目を開けた。
ひどく眩しい。
アラームは鳴り続けている。
「うるさい……うるさい……」
僕の声が一番うるさい。
絶え間なく喉奥から湧き出てくる言葉は、もはや意味を持たないただの文字のかたまりでしかなかった。
依然として見つけられない音の出所にもうんざりして、僕は再び目を閉じる。
不愉快極まりない二度寝を貪った。
相変わらず淡々と仕事をこなすスマートフォンが不憫になって、僕はようやく身体を起こした。
頭はまだ、疼いていた。
──脳天から左に三センチ、そこから同じく三センチ下がったあたり。
そこからパフェスプーンを突き立てる。
そしてそのスプーンで右眼を裏側から抉り取られているような感覚。
疼くごとに視界は銀色に明滅した。
とはいえひねもす部屋にこもるわけにもいかない。
僕は顔を洗い、鎮痛剤を飲んだ。
シャツのボタンを外すより、ブリスターから錠剤を取り出す方がよっぽど手慣れている。
それはそれでどうなんだろう。
パジャマのボタンを外すぎこちない指は、器用に錠剤を押し出していく。
僕は舌の裏に糖衣錠を放り込んだ。
口中に甘さが染みてきたところで、水でいっきに押し流す。
いつもなら、の話だ。
今日の水はいつもより塩素臭く感じられて、飲み込むことを躊躇った。
なんとなく、気味が悪かった。
気休めにすらならない鎮痛剤の如く、だらだらと垂れ流したままにしているテレビが告げる午前九時。
──今年は例年を大幅に上回る感染者数となっており……
──受験シーズンですし、心配ですね
──手洗い、うがいの徹底と……
淡々としたキャスターと、感情の上澄みを泡立てたようなコメンテーター。
画面はもう、原宿のパンケーキと生クリームの山を映している。
僕はコップに残った水を飲み干した。
生ぬるい消毒液が舌を、喉を、ぬめりながら清浄にしていく。
これは、許しであると同時に罰でもあった。
口の中で塩素の匂いが回遊魚の如く、周り続けている。
ゴミ箱の中、質感違いの銀紙が幾重にも重なっている。
パンケーキとクリームは、ボタンひとつで跡形もなく消え去った。
そのあとには、かろうじて外に出られる形をなした僕がこちらに発光部を突きつけたまま佇んでいた。
雨がビニール傘を叩く。
水はすべり、何粒かで徒党を組んで落ちていく。
彼らの落ちゆく先のアスファルトでは、もう雨水が屯していて、汚れた顔で今か今かと待ち構えている。
靴の中がねばっこい音を立て始めた。
どこか街がよそよそしい。
違和感の正体を求めて、僕は風景を手繰った。
まだ、よくわからなかった。
いくつもの水の流れる音が混ざり合っている。
「なんだっけ、こういうの?」
「は?」
「あんじゃん、なんか。」
「ああ……ああ! あの、そうそう……」
手をかざしてもいないのに水を吐き出し続ける自動水栓を前に学生が何かこう、嘔吐しそうなジェスチャーを繰り返していた。
「ホテルの入り口とかにあるやつ!」
「馬鹿、やめろって!」
「マーライオンだ、マーライオン。」
結局、なんだっけ、と言い出した本人が解決して二人は扉の向こうに消えていった。
弧を描く銀の管は、依然として水を吐き出し続けている。
水は、動く限りは腐らないと聴く。
とはいえ、水は化合物に過ぎない。
所詮、意思を持たざる物質である。
群れ泳ぎ続ける外、生きる術なき鰯のように、己の意思で動くことはできない。
できない?
いや、しないのだ。
さすれば腐敗を待つだけだ。
しかし水は、自分が動き続ける限りは腐らないことはおろか自分が水であることすら気づいていないだろう。
ともすれば今、水の出ていない方の管の中では腐敗が始まっている……?
僕は手を差し入れて、水を動かした。
「なんだ。瑞樹、まだこんなとこにいたのか。腹でも壊した?」
「ああ……木島君。」
「おいおい……『ああ』ってこたァないだろ? こんなとこで油売ってな……」
「水、見てるだけだから。」
「……まあ。うん。って! 何? どうした?」
「何が?」
「いや、水! 瑞樹……? なんでこれこっちも水出てんの?」
木島君の頬は蒼褪めていった。
壁に背をつけ、指先を慄わせている。
「瑞樹!」
僕は足元の扉をこじ開けて、黒いプラグを引き抜いた。
「は?」
「ん?」
「いやいやいやいや、嘘だろ? 俺のあの、ヒュッってなったやつ、ヒュッってなったやつを返せ!」
木島君は僕の肩を掴むと前に後ろに揺らした。
僕の中の、腐った水の妄想は澱むことなく撹乱された。
「いいからお前、早く戻れよ。桐生が『瑞樹君、瑞樹君』ってミィミィミィミィ、猫みたいに鳴いててうるせえから!」
彼女の姿を想像して、僕は笑った。
記憶の断片を繋いでも、信憑性が足りなくて妄想で補足をし過ぎたせいだろう。
「お前、愛されてんのな。」
木島君の肘が肋骨にめり込んで、僕は項垂れていた。
結局僕は木島君に肩を支えられながら廊下を歩いた。
どういうわけか、僕はその手を見られなかった。
「大丈夫だから、ありがとう。」
「無理すんなよ。」
「いや、木島君が肘鉄したからじゃん。」
「あ……」
彼は決まり悪そうに手の甲を掻いて、咳払いをした。
「ところでさ、ミィミィミィミィって……どんな感じだったの?」
「お? 気になる?」
「うん。」
「知りたい?」
「知りたい。」
突然、木島君は立ち止まった。
危うくその背にぶつかりそうになる。
すると彼はマリリン・モンロー顔負けの内股を披露して、僕を見上げた。
そして、僕の名前を呼ぶ。
この世の砂糖のほとんどをバーナーで焦がしたような甘い声で。
「笑えよ!」
僕たちは「廊下を走るべからず」の掲示の横を平気で走り抜けた。
──笑えるはずがない。
あれはどう見ても誘惑の眼差しではなく、カツアゲの眼光だったのだから。
入学試験を翌日に控え、会場設営はいよいよ大詰めを迎えている。
「あ、瑞樹君。おかえり!」
教室後方の壁に寄りかかり、彼女は朗らかに笑っている。
内股でもなければ砂糖が焼けこげたような声ではない。
「何? 走ったの?」
僕は息が上がりすぎて、声を出せなかった。
「もう!」
彼女は僕の肩を小突くと、またすぐに隣に立つ友人と話し始めた。
僕はそんな彼女達の気配を背後に感じながら、受験番号の書かれたシールを貼り付けていく。
「ねえ? 明日の試験って文学部だけなの?」
「さようにございます、文学部のみであります。」
木島君は妙な日本語で彼女たちに迫って行った。
「さあさ、未来の弁護士様はさっさと帰って勉強勉強!」
木島君は二人の肩を掴むと教室の外へ押し出した。
「ちょっと! なんで?」
扉のガラス窓越しに彼女が唇だけでしゃべった。
僕はただ、頷いた。
彼女は微笑み、手を振って去って行った。
「なに高低差のないロミジュリごっこしてんだよ!」
なぜかこの一瞬、申し合わせたみたいにみんな押し黙っていた。
僕が笑ったときにはもう、その声はその他大勢の中に紛れてしまった。
残りの受験番号シールを貼り終えた僕は、さっきまで彼女たちがもたれかかっていた壁に、最後の仕上げのタイムスケジュールを貼り付けた。
紙の端を、撫で付ける。
手を見る。
また、紙を見る。
何も、ない。
「瑞樹?」
僕は背中を壁に貼り付けた。
顔には笑顔を貼り付けた。
窓の外、降る雨は透明だった。
足元を見る。
僕の足跡だけが、白いタイルにこびりついていた。
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