日々の形──『水辺のつつじ』ep.57
渋谷のミニシアターで映画を観た。
エンドロールが切れる頃には僕だけが取り残されていて、軽い立ちくらみを起こしながらプラスチックカップの中身を飲み干した。
ずいぶん薄まっていたけれど、ちゃんとコーヒーの味がした。
僕は壁に寄りかかり、意識の揺らぎの収まるのを待っている。
──震源は?
なんて慌ててSNSを開くほどの俊敏さもなく、「ああ、またか」と目を閉じる。
不思議なことに、閉ざすほどに揺れは酷くなるのだ。
前へ、後ろへ、右へ、左へ。
側転、バク転、バック宙……途端に運動神経抜群になってしまう。
そういう時の僕の呆れと諦めと、はたまた安堵の心の配合の緻密さときたら、天才科学者ですらお手上げだろう。
文系が理系を翻弄する……という出演者が全員、僕の顔をした妄想が、明滅する残像のまま人の群れに重なっている。
まだまだ揺れはおさまりそうもなかった。
僕はさっきまでそこの黒い扉の向こうのコンクリートの箱の中にいた。
箱の中には赤とか、黄色とか、水色の椅子が不規則に並んでいる。
とはいえ、僕がその規則性に気づけていないだけで本当は何か理由があるのかもしれない。
それに加えて、空席だらけだというのに僕の真横の黄色の椅子にどっかり座って不機嫌そうに足を組む人がいたり、連れ立ってきた割に何やらこそこそ言葉を交わしてから、別れて片方は赤、もう片方も赤と言った具合に赤をめがけて座る人もいた。
僕はわからないなりに、その中の水色の椅子に座っていた。
正面には白い布がかかっていて、少年少女の逃避行の形をした光が投影されていた。
僕はその反射したものに照らされながら無意識に呼吸を繰り返した。
ストローから吸い上げたのはコーヒーの色をしたオレンジジュースだったし、ホットドッグもキャセロールも全部、甘ったるいキャラメル・ポップコーンの匂いがした。
──一万円から、お預かりいたします!
──チケット、拝見いたします。
効かせ過ぎた気が招く、誰かのせせら笑い。
効き過ぎた暖房でのぼせる僕。
過剰なあれこれ。
ポケットの中、過剰包装のビスケットが割れるみたいに、揺らぎと変な残像は砕け晴れ渡り始めた。
ビルの頭に切り取られた空は窓同士がぶつけ合う太陽光の反射のせいか、逆光の影とも違う不気味な青色を呈している。
怖いもの見たさで一、二回──いや、四、五回頭を上げ下げした。
その度に空の底が近付いてくるような気がして、小走り気味に足を動かした。
横目に並走する気配を感じる。
──鳩だ。
渋谷のアスファルトを走る鳩は灰色だった。
程なくして地面色の鳥は「プン」と音を立て飛び去った。
もう、空の底は途方もないほど遠ざかっていた。
目当ての書店を目指して歩く。
とはいえ他人から見れば漫ろ歩きだろう。
僕は今、樹海に迷い込んだ──それも一番質の悪い、興味本位に踏み入れて、抜け出せなくなったような状態なのだ。
大学に行ったら全コマ休講だった。
それでもいつもなら渋谷なんて来ようと思わないのに、どういうわけか、気がついたら電車に乗っていた。
平日の電車は人がまばらだった。
なけなしの乗客を眺める。
一体、何をしている人たちなのだろう。
きっと彼らも僕に対して同じことを思っている。
「あ。」
ぐるぐると思考を巡らせている間に、僕自身もぐるりしていたらしい。
映画館まで戻ってきた僕は、心身共に堂々巡りした挙句、在るようで無い予定が狂わされたと変な被害妄想を抱きながら無事書店へと辿り着いた。
たかだか硝子一枚で隔てられた静と騒にややぞっとしている。
目に映るものはうるさいままなのに、耳だけが静まり返る。
自動扉が僅かな隙間を残し、一瞬躊躇ってから閉じ切るあのたかだか一秒あるかないかの間が、僕は好きになれない。
紙を繰る音と、咳払い、レジで交わされる二言、三言。
例に漏れず、僕も書店のお手本みたいな音を出して、再び雑踏へ身を投じた。
書店を出て、十歩と歩かぬうちにコンビニを見つけた。
ホットドッグとアイスコーヒー。
正しくはホットドッグと、アイスコーヒーを注ぐ前の氷。
僕は恐る恐る手に取った。
恐々レジへ持って行き、会計を済ます。
コーヒーマシンに透明カップを差し入れ、アイスコーヒーLのボタンに触れた。
無宗教のくせして、僕は祈るように指同士を噛ませ目を閉じる。
完成を知らせる電子音で目を開け、カップを取り出した。
色は、コーヒーの色をしている。
匂いも、ちゃんとコーヒーだった。
依然として、怪しいままのホットドッグの匂いを嗅ごうと密かに顔の側に運びつつ僕は店を出た。
これまた十歩といかないうちに、公園を見つけた。持て余した空間に、不良在庫の庭木を植えたような公園。
ベンチと二つで一組のブランコ一基があるのみである。
ここにも鳩がいて、しきりに砂利をつついている
やっぱり鳩は灰色だった。
ベンチには先客がいる。
僕はブランコに座った。
膝でコーヒーを挟み、ホットドッグの封を切った。
ケチャップと、冷えた脂の匂いがした。
ああ、ホットドッグの匂いだ……
口の水分が奪われるたび、砂漠の旅人の如くコーヒーを流し込む。
残すところあと一口といったところでベンチに座っていた老婦人が何かを放った。
その何かはあろうことか僕の足元に転がった。
バサバサと影が降ってくる。
思わず腕で顔を覆った。
口の中の、飲み込みきらないあれこれはキャラメル・ポップコーンの味に変わった。
「ごめんなさいね。」
そう言って、彼女は去っていった。
あとにはビスケットらしきものの残骸と、三羽の鳩、そして僕が残されていた。
白い羽が吹き溜まっていた。
アパートに戻る前、ドラッグストアに寄った。
僕は箱ティッシュの残りが少ないことを思い出したからだ。
そのくせ、店を出た僕の手に五箱一セットのティッシュはぶら下げられていなくて、代わりに断りそびれた大きすぎるレジ袋の中ではウェットシートと歯ブラシ二本が空間を持て余し、やたらと音を立てていた。
日が暮れかかっている。
僕の一日のラストシーンは、箱ティッシュの買い忘れ……?
だとすれば、今は随分とマヌケなエンドロールだなあ。
そんなことを思いながら僕は白鳩の待つ部屋へと歩いて行く。
コートのボタンには夕焼けの色が浮かんでいた。
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【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中
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ハンドリガードは赤ちゃんのやることですが……
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ゆきお様・解説
読みましょう。
むしろ、読まないと、わからないぜ、きっと。
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ポテトチップスよりも
お・ぬ・し