『殴り殴られ詩人酒場』ep.86「変幻自在の文士様」
──ドン
腹に響く重たい音に頭を擡げると、白い窓から紫、黄、それから赤だの青だのの光の破片が部屋に流れ込んでくるのが見えた。
窓の外を見遣ると、そこいら一帯白いのに、向かいの庇だけが錆色をむき出している。
──ドン
今度は何だ。
窓の外に変化はない。
しかし、音は近づいてくる。
間も無く襖は破られて、趾にして五十本、十の跣が俺の眠気を蹴散らした。
そのまま階下まで引き摺り下ろし、畳の上に転がした。
気づいた時には俺はもう、愉快な闖入者たちの玩具にされていた。
「あんたたち! 草履揃えな!」
イヨさんの怒号が飛ぶ。
足音はまとめて玄関へと流れ、再び引き潮の如く戻ってくる。
「あ! おめェそれ俺の黒豆……!」
「なんだ、朔兄のけちんぼ! いいじゃねェか、ちょっとくらい……」
まず、俺は馬になった。
それから雄鶏になって鳴いたり、雌鳥になって卵を産んだりもした。
巡査になって五人の悪人をとっ捕まえて牢にぶち込んだし、尋常小学校のカブラギとかいう教師になって一年生の国語と算術を教えたりもした。
赤ん坊にもなったし、おとっつぁんになって会社勤めなぞもした。
学生服の襯衣に洋袴、手拭いで拵えた襟締を締め、外套を羽織ったいやにお道化たおとっつぁんだった。
「帰ったよ。」
俺は玄関から中へ入った。
「あら、あなたおかえりなさいまし。今日はまたずいぶんと早かったのね。」
「ああ。市電のつなぎがうまいこといってね。」
朱の着物の四尺に満たない妻は外套をずるずる引きずって衣桁に突っ掛けると、仏壇の横に放った。
それが可笑しくて、つい笑いかけて咳払いで逃すとすかさず、「やァね、お風邪かしら。」と上り框に腰をかける俺の額に手の甲をあてがった。
思いの外、手の大きいことに驚いた。
「んまァ! 紛らわしいこと! なんてことないじゃないの。早く手ェ洗ってらっしゃい!」
「はいはい。」
「はいは一回!」
「はい……」
俺は前髪が七三に撫で付けられたような気持ちになった。
朱の妻につづいて座敷に上がると、四尺をゆうに超えた女の赤ん坊が手足を縮こめぐずっている。
それを妻と同じほどの背丈の女学生の娘と、帝大生だという息子があやしていた。
「おとっつぁん、お帰りなさい。」
「ああ、ただいま。」
「ねえ、お父様。ミチがね、お腹空かして泣き止まないのよ。」
娘は自分より大きな赤ん坊の頭を撫でてやっている。
「うるさくって勉強できやしないよ!」
俺は着物の袖を洟で汚す息子の鼻をちり紙で拭った。
俺は鞄を漁る真似をした。
「朔ちゃん、朔ちゃん……」
何やらイヨさんが眴している。
「なんだい? イヨさんも入りたいのかい?」
「馬鹿言え。ほれ! これ、食わしておやり。」
イヨさんは壁の時計を指し、怒鳴り囁いた。
時計は八つ時をやや過ぎたことを報せた。
「ありがとな。」
「気安く触るんじゃないよ!」
イヨさんは肩を払った。
だが、その顔は笑っていた。
「毎度ォ!」
俺はやっとこ鞄を漁り終えたみたいな顔をして、娘と息子、そして妻に干し芋を渡した。
「あなた、また無駄遣いして!」
妻は怒る。
また……?
「会社の横にそりゃあうめェ和菓子屋ができてな。そこの婆がまァた商売上手でよ。ついな。」
乳飲子も首が据わって歯も生えそろったようだ。
「誰がばばあだって?」
勝手口からの闖入者に俺の家族は怯え慄いている。
「び……美人女将! 商売上手、器量よし!」
「もっと!」
「才色兼備! 傾城傾国! 沈魚落雁!」
「今日はこの辺にしてやらァ!」
闖入者は去った。
「ぶぶぶぶぶぶぶ………」
一難去ってまた一難、であろうか。
俺たち家族の間を縫うようにして走る怪しげな紺の着物。
これまた四尺にやや足りないほど、妻よりもっと小さい。
「おめェさんは何なんだい……?」
「蝿!」
「蝿?」
戻ってきた闖入者も一緒になって、大いに笑い合った。
子どもらが干し芋に夢中になっている間に、俺は土間に追いやられた朝飯の続きを食べ始めた。
餅は冷え固まって、危うく前歯を失うところであった。
「朔ちゃん、あんた案外おとっつぁんに向いてるじゃないかい?」
イヨさんは芋を食う片手間に話しかけてくる。
「なんだい、それ。おとっつぁんに向き不向きがあんのかい?」
「ある程度あんだろうよ。私のおとっつぁんはおとっつぁんには向いてたけど旦那には向いてなかったね!」
「へえ……」
俺は芋に夢中になっている子どもらを眺め見た。
「ま、子どもに向かねェ子どももいるしな。」
小鉢の隅、最後の一粒になった黒豆がいつまで経ってもつまめなかった。
「兄ちゃん、あのね。」
「お、どうした、ユリ子。芋、おかわりすっか?」
ユリ子は首を横に振った。
朱の着物の袖を握り締めている。
「朔ちゃん、あんた離縁されたのかい?」
「うるせェよ。」
ユリ子の答えを待つ間、イヨさんが俺を茶化した。
「……わたし、『西瓜の馬車の王子様』のおはなしが聴きたいの。兄ちゃん、前、途中までしかおはなししてくれなかったでしょう? 続きがね、気になって。」
「ああ……」
「おとっつぁんとね、本屋に行ったの。でもそんなおはなしは聞いたことないって。お店の人、言ってた。」
イヨさんが俺の肘を小突く。
「学校の子にもね、『西瓜の馬車の王子様』のご本があったら貸してほしいって言ったんだけど……」
「なかった?」
「うん……」
「カブラギ先生にも聞いた。」
「わかった。じゃあ、そうだな。みんなが芋、食い終わったらな。」
ユリ子の顔がぱあっと明るくなった。
「さあさ、あんた達、早く食べておしまいなさい。おとっつぁんが『西瓜の馬車の王子様』のおはなしをしてくださいますよ。」
ユリ子が呼びかけると、赤ん坊も女学生も帝大生も、それから蝿も顔を真っ赤にして頬と顎を動かしていた。
五つの喉が鳴り終えた時、俺は物語を始めた。
──ある日、王子はおとなり芒の国の王子とともに……
俺は彼らの黒々とした瞳が恐ろしかった。
瞳の奥に流れる清らなる血が透けて視える。
なにかの弾みで濁らせてしまいそうで、ただただ恐ろしかった。
それでも俺は物語を続けた。
でたらめと言ってしまえばその通りだ。
その実、このおはなしはまだインクの色に染まっていない。
言わば透明な物語だ。
「なあ、朔兄。さっきと話違うんじゃねェか?」
「もう一回!」
彼らがせがむたび、空は橙を濃くしていった。
幾度、繰り返しただろう。
幾度目かで橙と紺とが混じり始めた。
──後には秋桜の花がただ、揺れるのでした。
「もういっぺん、聞かせておくれよ。」
「いや、今日はここまでだ。」
東の空はもうすっかり藍色に染まっている。
ごねる子どもらを見送って、俺は部屋に戻ろうとした。
背に冷えた衝撃が走る。
「あ、おめェ! やったな?」
あの蝿の子どもがにやついてやがる。
俺は足元の雪を引っ掴んだ。
その引っ掴んだ方の腕をイヨさんが引っ掴んだ。
「これ! おとなげないね、朔ちゃん!」
「だって……」
「だってじゃない!」
「やーい、朔兄怒られてらァ!」
おとなげない。
本当にその通りだ。
しかし、大人らしいというのも俺にはまだわからなかった。
イヨさんのため息が縁側に浮かぶ。
凪いだ晩だ。
そうとは言ってもまだ、晩飯には早すぎるような時間である。
──また明日。
聴こえないふりをしたあの言葉に、今さら返事をする。
──また明日。
明日を想像しながら、銀に輝く星を数えた。
↑
ゆきお様・解説
とにかく読んでくれ。
全貌解明じゃ!
いいなと思ったら応援しよう!
よもぎちゃーん!
はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し