夕暮れ前の反比例──『水辺のつつじ』ep.54
その時、すでに僕の集中は心地よく途切れていた。
真上の直管灯ばかりを映していたスマートフォンが緑色に光る。
──今、どこにいる?
──大学の図書館
送信ボタンに触れるや否や、既読がついた。
僕は貸出処理を済ませ、図書館をでる。
陽はもう傾き始めていた。
規則正しい椋鳥の群れが一群、また一群と南西方向へと飛んでいく。
決して交わることのない風変わりな漣のように。
乾いた風が、小脇にかかえた文學大系の栞紐を揺らした。
行き場なく漂う臙脂色。
かじかみ始めた指先で、先頭のページに挟み込む。
──また初めから読めばいい。
おかげで本の中の主人公はいつまで経っても雪深いレールの上を走らなければならないし、無限とも思える悶絶の時間を過ごさねばならないけれども、僕の知ったところではない。
僕は彼の寒さと悶絶とを温かな部屋から見守っていればいいのだから。
今一度スマートフォンを取り出す。
返事はない。
不覚にも熱を帯びたリチウムをポケットのうちに滑り込ませ暖をとった。
左手ばかりが熱くなっていく。
僕はコートの裾を叩いたり前髪を払ったりした後、紺色の立襟を頬まで上げたりしていた。
そんなことを繰り返すうちに、スーツケースを引く音が聴こえてきた。
音はどんどん距離を詰めてくる。
僕の足もまた音に向かって進み始めていた。
音は一瞬止まった。
そして次に動き出した時、音は先ほどより速度を上げて向かってくる。
どうしてだか僕は茫然として数秒前に途切れた音と共に刻の齣の中に取り残されていた。
「瑞樹君……なんで?」
スーツケースの持ち手に凭れかかるようにして彼女は跳ねるように呼吸している。
「何でって?」
忙しなく顔の前で掌をひらひらさせつつ、「だってさ……」と言ったきり、あとは言葉にならない「あー」とか「うー」を繰り返していた。
彼女の思考がぼやけて、その奥に僕の焦点が定まった。
「ゆうかさん。あなた、僕に『今、どこにいる?』と訊ねましたね。」
彼女は変なものが始まった然とした顔をして僕を見ている。
「それに僕は『大学の図書館』と返した。それも、あなたからのメッセージを受け、一分と経たないうちに。」
僕は人差し指を立て、彼女に背を向けた。
「すぐに既読になりました。しかし、待てど暮らせど返信はありません……」
──何が待てど暮らせどだ、ことの始まりからここまで十分も経っていないじゃないか!
自分で自分がおかしくなった。
笑いたくて仕方がない。
僕は振り向く。
彼女はすでに、無遠慮にけらけらと笑い始めていた。
「それはつまり、質問と見せかけた命令……」
「う……ん……?」
「あなたにとっても賭けだった。最寄駅に到着したあなたは、貝原は自宅ないしこの近辺に潜伏していると踏んだのでしょう。」
けらけらはげらげらへと進化を遂げようとしている。
「そして、奴からの返信は……」
「大学の図書館!」
「そう、その通り! 貝原瑞樹の側でもそれは同じことでした。現在地を訊いておいてその回答に返信をしない……ひとつ、よろしいでしょうか?」
「はい?」
「仮に僕の現在地が燕三条駅だったら……?」
「なんでよって返すと思う!」
彼女は笑いに飲み込まれたいと息を吐ききる過去如く言うと「何なの、それ。」と今度は目まであおいで
笑っている。
「……簡単な、推理です。」
よく考えてみれば推理でもなんでもなくて、ただの希望的観測だ。
「早かったんだね。」
「だって友達は今日から仕事初めだし、妹も塾始まって私……」
先ほどまでの笑いは強大な波消しブロックに砕かれたかの如く断ち消えている。
彼女は唇を尖らせ、ぶちぶちと寄るべなさを列挙した。
時を同じくして「はい、これ。」と紙袋を僕の胸に押し当てると、「家に帰るまで、開けるべからず!」と念押しの如く言った。
お預けをくらった僕は、つい「ええ……」と漏らしてしまった。
何が起きたかわからないまま、つかつかと歩いていく彼女の後ろを着いて歩く。
気づけばキャンパスの最奥まで来ていた。
「あった!」
彼女の人差し指の向かう先に目をやった。
──感動をありがとう!
紫紺を撃ち抜く白い八文字と感嘆符が夕暮れ前の黄色い光を吸い込んで胸を張る。
「もう、瑞樹君なんで駅伝の日にバイトなんて入れちゃうかな。」
「リアルタイムだからこそのよさってもんがあるでしょ?」
「ああ! 生駒君の襷をつなぐ直前の走りといったら……」
あまりにも慎ましやかだ。
なぜもっと、主張しないのだろう。
僕は目を輝かせる彼女の隣、僕は考え込んでいた。
感動をありがとう──しかし、これは結果ありきの「ありがとう」だろうか。
もし優勝していたなら……?
「ありがとう」ではなく「おめでとう」だった……?
僕のあの探偵ごっこもそうだ。
そもそも彼女が十分とかからずに現れたから、結果論として待ち合わせが成立したものの……
いや、でも……
「瑞樹君……?」
彼女は遁走を試みている僕の顔を覗き込む。
「もしかして……やいてる?」
「え?」
僕は混乱の中にいる。
「餅……?」
「え? ああ、まあ……モチ。」
「茹でたよ。」
「え……?」
「五百ワット、一分半……」
「え、待って。お餅?」
「トースター、持ってなくて。」
餅の茹だるより長く、焼けるより短い時が流れた。
「じゃあさ、瑞樹君とこのお雑煮は焼き餅じゃないってこと?」
「ううん、焼き餅。」
「ええ……じゃあ今年……」
「食べそびれた、お雑煮は。」
「お雑煮は……?」
「なんでもない。こっちの話。ゆうかは? お雑煮……」
「食べた。焼き餅。」
どうしてだかむくれてしまった彼女と僕は、しばらく餅の話をしていた。
黄色の陽は薄らいで、空は紺へと近づいていた。
「ねえ、瑞樹君。」
「ん?」
この時僕は、彼女のスーツケースの持ち手の主導権を奪うことに秘密裏に成功していた。
「初詣、行った?」
「行ってない。」
「行こ。」
「今から?」
「今から!」
「暗いよ。」
「まだ間に合うって!」
そう叫ぶと彼女はもう駆け出していた。
白いスニーカーが軽やかにアスファルトを蹴り上げる。
僕はその後ろを這うようにして追いかける。
「ゆうか!」
振り向いた彼女は笑っていた。
並んでまた走り出したけれど、僕はまたその後ろ姿を眺めている。
迫り来る橙の波に向かい僕たちは走る。
見えない襷をたなびかせながら。
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【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
桐生ゆうかが帰ってきた。
さて、冒頭で貝原瑞樹が読んでいた小説はなんでしょう?
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雨上がりがゲオスミン、前がペトリコール。
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大正時代にて上原朔也は八歳の思い出を語る。
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ゆきお様・解説
主人公の性格と傾向の分析。
これがあることで、読みやすくなります。
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お・ぬ・し