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ある日西銀座にて、ジェラシーの油染み

私には夢がある。
それは菊池寛と一緒に西銀座にある一流レストランに行き、彼よりも先に
「スープとカツレツとライスカレー、私はそれだけ。アンタは?」と言うことだ。

それで、寛は私のことを無礼だなと思いつつもそこは大人の余裕で平然とこう注文するのだ。

「では、僕ちんはライスカレーとスープ、そらからカツレツ。君と同じだ。奇遇だね。」

だがしかしその目は笑っていない。
瞳孔にデカデカと「殺」の字が浮かび上がっている。
それも、大き過ぎて大体見切れている。

テーブルの横に立つボーイも笑顔の裏で怒りの炎を燃やしている。
多分、隣のテーブルのマダムが頼んだフィレステーキを焼くのは紛れもなく彼だ。
ミディアムレアって言っていたけど、これは間違いなくウェルダンで提供されるに違いない。

それで、薄いレモン味のソーダ水で乾杯する。
でも実は寛の方はレモンサワー。
いくら彼が飲兵衛でもストローで吸ったらどうなるかしらね……
っていうのは冗談で、そんなのは昭和レトロなはったりなんでしょう?
パチパチと弾ける炭酸は少々粗めの舌触り。
そちらのご婦人の真珠のネックレス程の泡が弾け飛ぶ。

「でも私、試したことがあるわ。ストローでテキーラ。」
「で、どうなったんだい?」
「聞くだけ無粋じゃあないかしら? わかるでしょう、あなたほどの文豪・・なら。」

ここで私にはスープ、そして彼の前にはライスカレーが置かれる。
「スープでございます。」
そう言ったボーイの蝶ネクタイはひん曲がっている。
「ライスカレーです。」
ひん曲がった蝶ネクタイのまま、器用に右の眉頭だけをぴくりと動かした。

「ふふ。お店の方のご機嫌を、損ねちゃったみたいね。」
「君のせいだろう……」
顎を引き、丸眼鏡の上方から直接視線を突き刺してくる。

なんの含みもなく素直に怒りを滲ませる寛はとても誠実だと感じた。
ここで感情を隠すようなら彼は後世に名を残すこともなかっただろう。
それこそただの下心モリモリオジとして祀られる未来を大人しく待つのみであった。
だったらまだ葬り去られた方がマシだ。

「ところで先生。昨日、夢枕に芥川さんが立ったの。」
「ほお。何か喋ったのかい?」

寛はライスカレーのライスを几帳面にルゥに寄せながら口に運んでいる。
その速さたるや目を見張るものがある。
さながら食べ方まで美しい大食い系ASMR!
時代が違えば人気が出たはずだ。
特に、“字幕芸”で爆発的に伸びるタイプ。

「いいえ。何も。」
私はスープの中の角切りの具を、人参、セロリー、キャベツ、ベーコンの順に食べ進めていく。
「ははっ……君も変わり者だね。」

寛は若干呆れ気味だ。
見当がついている。
でもここは、気づかないふり。

「お待たせいたしました。えー、こちらがカツレツ、こちらがスープでございます。」
ボーイはみごとなしたり顔だ。

「それで、見てくださる? 今日先生にお会いするから書いてみたの。」
「ん?」
「短いから、そう手間は取らせないわよ。安心して。」
「いやあ……」

明らかに困り果てている寛をよそに私は左手で持ったフォークをカツレツに突き立て豪快に噛みちぎる。

左目の下をぴくつかせながら顎を引く寛。
それでもスープをすする寛。
思いの外熱くて舌を火傷するも懸命に隠蔽する寛。

皿に降り積もるアカギツネの背中のような揚げ衣を眺めつつ、寛は思っている。
食事も喉を通らない程のスランプだと心配して損をした!
奢るなんて言うべきではなかった!

ぼんやりとした硝子……
また随分とありきたりな題名をつけたものだ。
よくもまあこんなにも捻りのないものを堂々と……

なんだかんだで寛は原稿に目を通しながらスープを掬う。
つっぱねられぬのは、己の苦い過去のせい……
と若き日の自らの心のうちを恨む。

「オウォ!!」

頬の内側を噛み、苦悶の表情で足をバタつかせる彼の後ろでボーイがこちらに背を向けテーブルを拭いている。
しかし、肩越しにほくそ笑んだ。
見えたぞ!
今、ニヤッとしたの、見えたぞ!
「このおっさんの髪の毛のクルクルはおしゃれパーマなのか、それとも天然パーマなのか」じゃろ?
あ、違いますか?
そうですか。
失礼つかまつった!

寛は読む。
私は食べる。

三分と経たずに寛は原稿を裏返した。

そこへあのボーイがやってきて、「ライスカレー福神漬けマシマシマシマシマシマシ……マシマシ? あれ?」
とマシマシの数にパニックを起こす。
「気になさらなくてよくってよ。」
「いいえ、そう言うわけにはいきません。マシマシマシマシマシマシマシマシマシマシマシマシでございます。」
西銀座の一流店の維持なのだろう。
私はこのボーイのプロ意識というものに我がていたらくを悔いる。

書けぬ書けぬと頭を抱え、壁を蹴り、天を仰いでボソボソボソボソとできもしない絶命への欲望を吐き散らかし、またその心を見えぬ鎖で締め上げる様に酔いしれていた……

途端にこの世の恥という恥全てを背負ってしまったかのような感覚に陥る。
そしてその恥という恥全てをずっしりと含んだ紙切れを彼に預けている。

書けない自分への陶酔物語!
なんたる恥!
今すぐ腹を切り開き、肝臓を取り出して牛乳にしたしておきたい!

寛は何事もなかったかのように、背筋を伸ばし紳士然としてカツレツをナイフとフォークで器用に切っては口へと運んでいる。
またそれも早回しの如く。

私は涙目で福神漬けの山を崩していく。

「あの……」

残り少なくなったカツレツを前に、ナイフとフォークの速度を落としている寛。

「君は誰かの才に嫉妬したことはあるかい?」
「え?」

そりゃあ、ある。
なんなら、この世の全ての才能に嫉妬している!
私からすれば私以外の人間……否、動植物全てが嫉妬の対象と言っても過言ではない。

その最たるは「土」だ。
あれはすごい。
命を育むこともすれば、殺すこともする。
それでいて、生を死に変えることもすれば、死を生へと変換する装置にもなり得る。

「も……もちろんありますわ。今だって、この世の全てに……」
「弱い! 弱い! もっと、もっと絞るのだ! 嫉妬の幅を絞るのだ!」

そうだ。
この男、芥川龍之介への嫉妬心だけで大バズりをかましたのだ。

「君、嫉妬は“汚い”“恥ずかしい”と思っているんじゃないか?」

見透かされている。

「汚くてなんぼだ。恥ずかしい? 恥じてなんぼだ。汚くなれ! 盛大に恥じたまえ! こんな薄まった嫉妬心、クソの役にも立たぬのだよ! 誰の心にも響きやしないのだよ!」

そうだ。
正統の成功ルートを直走る者の姿に心を乱され、必死に逃げて逃げて隠れて逃げて、また隠れて逃げて、手に入れたのは仮初めの安息で、そんなところで生み出した言葉など全ては空虚なのだ。
上手くやれている、それは勘違いでしかなかったのだ。

「もっとだ。悔しがれ! 己の中の悔しさをぶつけるんだ! あるんだろう? 向こうになくて、自分にだけはある何かが。それを知らしめたいのだろう? 内面など汚くたって構わん!」

泥臭い嫉妬心を無駄なく、見事に燃やし切ったこの男の言葉の重みときたら。

俺は一人、雑踏に置かれた透明の箱の中に入れられている。
「出せ! 出してくれ!」
そう叫んでいるつもりだが、肺から出た空気が喉を梳いていくのみで声にならない。

透明な壁を拳の小指側で殴りつける。
ゴッ……ゴッ……と鈍い音がする。
この透明は、分厚い
先が見えている。
光は届いている。
しかし、細胞の塊はここをすり抜けることができない

『ぼんやりとした硝子』

「“透明な箱”……なんという陳腐な表現なんだ。ここに君の悪いところ全てが出ている! 悪者になりきれない、恥じることを恥と捉えておる!」
「先生なら……先生ならいかに表現なさるの?」
「“奴は嫌味な人間だ。身動きの取れぬ俺に、どうだ? そこでタップダンスでもしてみせてくれないか?と言って退ける”」
「え?」
「いけすかぬ奴は悪役にしてやる。嫌な奴として描いてやる。」

──『無名作家の日記』。
目を覚ますと、画面は原稿用紙の四十五ページ目で止まっている。

やるじゃん。
そう自画自賛したのも束の間。

っっっwっっっっっっあtwっw

パソコンの画面

なんなんだこれは!
恥じろ!
盛大に恥じろ!

伸びをすると、身体がギシギシと軋む。
全ては幻だったのか、と窓の外ぼやぼやの月を眺めため息をひとつ。

原稿には寛がこぼしたカツレツの油染みが残っている。
それを指で撫で付けながら、燻り続ける胸へ酸素を送り込んだ。

私は今から汚くなりにいく。
盛大に恥に行く。

たとえそれで、灰になったとしてもかまうものか。



酔っ払って谷崎潤一郎を召喚しました。


梶井基次郎は爆弾魔ではありません。


夏目漱石を怒らせるのは至難の業だそうです。



【参考資料】
古川緑波『食べたり君よ』

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