『殴り殴られ詩人酒場』ep.77「かまかけ女将」
小雪のちらつく縁側を背に、イヨさんと俺は並んで豆腐だけの味噌汁をすすっていた。
「よいお年を。」
そう言って、今日も一人、また一人、黒衣どもは外套羽織って去っていく。
もうすっかり薄っぺらになった日めくりは、その度かさりかさりと音を立てた。
しばしの別れを惜しむかのように。
「朔ちゃん? 飯ん時くらいそれ、やめたらどうだい?」
「……」
俺は相変わらず「ことば」の尻を追いかけ回していた。
唇で銀の皮膚を手繰り寄せる。
すると、魚は身悶えの如く尾を振り乱す。
その度、帳面の上に焦げが積もった。
イヨさんの眼がこちらを捉えてはいないのをいいことに、俺は鰯を咥えたまま帳面の上の焦げを爪で弾いた。
──バンッ
「ほれ、捕えた!」
「んだよ! びっくりすんだろ!」
彼女は狼狽える俺を肘で小突いた。
その肘の先、卓に乗せられた手の甲は白い弧を描く。
「だって逃げちまったんだろ……?」
「は?」
「字。」
俺は恐る恐る、イヨさんの指をどかしてみた。
「やだね、朔ちゃん。そんなとこにいやしないよ。もっと奥だ。」
俺は無意識にその手に顔を近づけた。
僅かな隙間を覗き込む。
言いれぬ昂揚に背骨が毳立った。
──わっ!
「うお!」
俺は卓に膝を打った。
イヨさんは右手で腹を抱え、ゲラゲラ笑っている。
「大丈夫かい……? 朔ちゃん……!」
「ったく……」
俺は疼く膝と、ひぃひぃと喘ぐイヨさんの背を同時刻に撫でる。
「人の心配してる場合かい?」
震えるイヨさんの左の手掌には、確かに黒い点が捕らえられていた。
ため息混じりの笑いがその逃亡者を再び遁走らせたのだった。
「でもね、朔ちゃん。」
「ん?」
「いい加減にしないとあんたの箸、鉛筆にしちまうよ?」
呼吸が凪いできたイヨさんは厭みったらしく椀を混ぜた。
「にしたってそんなに書けるんだから当然、親父さんへの文は書けたんだろうね?」
イヨさんの口角は意地悪く、天井めがけて昇っていく。
俺の代わりに腹の虫がぐうと鳴く。
俺はだんまりを決め込んだ。
文の一枚も書けぬというのに、帳面への書きつけばかりが増えていく。
現実から目を逸らし、さらに俺は耳をおさえた。
「また外耳加答児かい?」
なんとかのひとつ覚えの如く彼女が発するその病名が、ひどく耳を痛めつけた。
「で、朔ちゃん。あんた昨日どこ行ってたんだい?」
「どこだっていいだろ!」
「なにむきになってんだい?」
俺は鉛筆の先端で帳面を叩いている。
黒鉛は光をなくし、丸くなっていた。
「大根も買わないでさ……」
「だから、それは本当にすまねェと思ってるよ。」
「で、どこ行ってたんだい? さては……これかい?」
イヨさんは小指を立てている。
「おあいにくさまだが、古本屋だ。」
「古本? ああ……あの昼間っから春画おっ広げてる親父の店かい?」
「んだよ……イヨさん。」
「朔ちゃん? あんた何、にやついてんだい?」
「いんや?」
俺はあぐらの膝で頬杖をつく。
仏壇と壁の隙間の綿埃に視線をやった。
その上の写真の男は相変わらず笑っている。
「やらしい子だね!」
「何すんだよ、痛ェな!」
ひっぱたかれた背は、寧ろ筋が伸びて心地いいくらいだった。
「あれは爺さんのだよ……」
彼女の艶っぽい動揺が俺の中の悪魔を甚く刺激する。
「ん? なんの話だい……?」
「……見たのかい?」
「さあ、どうだか。」
彼女の苛立ちが鰯の頭を砕く。
「好きなんだろ? 別に構いやしねェだろうよ。」
俺はまた帳面に文字を書き付け始めた。
イヨさんはふぅと焦げ臭い息を吐く。
陶器と木の触れる音が穏やかに漂っていた。
彼女の嚥み下す音と俺が帳面をめくる音が重なり合った時、再び空気が動き出した。
「その分じゃ、またけったいな本だね?」
「馬鹿言え! 大真面目な本さ。」
イヨさんは頬杖をついて、上眼にこちらを向いた。
「へえ……そんで? 大真面目な本買ってたら日が暮れちまったのかい?」
「あ……ああ。」
「大根のことなんて忘れちまったって?」
俺はああ、ああと意味のない声を出しながら耳を叩く。
「その分じゃ、親父さんへの文、まだなんだろ?」
図星だった。
痛いところを突かれた。
俺は思う。
あの語の示すところの痛点とは、耳なのだろうと。
俺はなんとなしに米を喰んだ。
イヨさんは鰯の小骨を皿の隅に追いやった。
「なら、おみおさんに書いてみたらどうだい?」
「おみおに?」
「ああ、そうだ。おみおさんに。」
「なんでまた……」
胸につかえた感があった。
俺は飯食って、泡食って、つかえを押し流さんと味噌汁をすすり上げた。
「なんでってそりゃあ……」
不意にイヨさんの指が肩を掴んだ。
「初恋の女……なんだろ?」
彼女の吐息が左の耳殻を撫でる。
俺は思わず味噌汁を吹いた。
「なんだい、汚いね!」
「ば……馬鹿言うんでないよ!」
「そうかい? 違うのかい?」
イヨさんは「おー、いやだ」と言いつつ手拭いで着物から卓まで拭っている。
俺は耳朶の赤らむのを感じ、耳を抑えた。
どうにも俺はまた、少年に戻ってしまったような心許なさで部屋の隅で膝を抱えていた。
鍋の中にはまだ、豆腐だけの味噌汁が残っている。
すっかり湯気を無くしてしまったけれど。
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下宿の面々、帰省し始めました。
それでも上原朔也は帰らない。
今日も鰯、食ってます。
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屑籠の中身は早めに処理しましょう。
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現代の大学生、貝原瑞樹は一歩お先に年始です。
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【屁ッセイ】
本屋さんで屁をこいてしまって反省した話。
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ゆきお様・解説
スランプを抜けたい私の味方になってくれる記事。
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