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『殴り殴られ詩人酒場』ep.76「屑籠の餌」

父上、お父様……おっとお……
いや、親父……

譫言うわごとのように、その「ことば」を唱えていた。
たった一粒の金平糖を舌の上で転がすように。
呼べば呼ぶほどその輪郭は歪み、崩れてゆく。
ばらばらと散ったことば、、、もじ、、となり、やがて熱のうちに溶け消える。
一粒、また一粒……
色違いのおんなじ味に、俺はまんまと騙された。

窓の外、町はとうに寝静まっている。
星すらも眠りこけていた。

しかし、階下したにはまだ人の気配があった。
「なあ、文士殿。おめェも降りてこいよ!」
聴き知った声が俺をいざなった。
俺はそれを聴かないふりをした。
ついさっき、ほんの二、三分程前のことだ。
建て付けの悪い襖から電燈ランプの光が漏れ入ってくる。
俺は敷布に膝をつき、頭から蒲団をかぶりその道筋を睨みつけていた。

日付の境を越えるのに、唯のひとり俺だけがその線に狼狽え、つまずき、取り残される。
そんな心持ちだった。
それはひどく惨めで情けない、しかし単純明快で潔い苛立ちだった。

俺は襖めがけて枕をぶん投げた。
余分に心は曇っていく。
どこから生まれたのかもわからない、行き先さえもわからない、得体の知れないあれやこれが身体中を巡っている。
時に冷たく、時に熱く。
ことば、、、になる前の育ち切らない痛みとして、この身体のどこぞにあるやもしれぬ心とやらを撫でていった。

ようやく万年床を抜け出して、卓上電燈ランプに火をけた。
まっさらな便箋に、千両の枝影が揺れる。

影よりも濃く、インクのしみが拡がった。
枝影全てを蔽うほど、黝々くろぐろと。
万年筆は残酷な刃物の如く、薄紙の上に突き立っている。
左の指で俺は頭を掻きむしる。
俺が見据えているのはただのひとりだ。
名も知っている。
顔も知っている。
だのに、呼びかける術だけが存在しないのだ。

俺は小卓に額を打ちつけた。
千両の赤い実が五、六散らばった。
皆まとめて口に放り込む。

本棚から辞書を一冊取り出した。
「父」の項をく。
其れがいかなるものなのか、極めて無感情に素描デッサンされている。
それは、俺の知る「父」の形はしていなかった。

また一冊、別の辞書を取り出した。
同じく「父」の項をく。
それは紙という檻の中、正座させられた男の姿である。
我が父とは似ても似つかぬ姿であった。

本の中に我が父はおらぬのだ。
文字の父、それは幻影にすぎぬのだ。

それでも俺はやめなかった。
否、やめられなかった。
文字を追えば追うほどに、その文字を言葉として頭に叩きつけるたびに、俺の記憶の中の父親の姿は砂の如く吹き攫われていくというのに。
むしろどこかでそれを望むかのように、俺は「父」をむさぼった。

ならば、生きる「父」を捕らえればよかろう。
物語の中に、その姿を探す。
或る小説家の「父」を眺めた。
「父」として生きる男を訪ねた。
しかし、俺の父親はどこにもいなかった。

気づけば本棚は空になっていた。

──まあもう、十年も前のことだろう?

──そろそろ許してやったらどうだい?

無とかした棚の前、夕刻の親父、、の声を思い出す。

十年も前、俺は許せていないのか?
あの日、父は確かにいた。
確か、葡萄茶えびちゃの着物を纏っておられた。
俺は激しく畳をった。
まだ高い声で喚いていた。
真っ白な足袋の遠ざかるのもはっきりと覚えている。
だというのにまるでそれは偽物の記憶だとでも言いたげに、匂いも温度も無ければ表情かおもないのだ。

「父」を剥き出した本どもはぽっかりと口を開け、無様に畳に転げている。
皆各々に仰向いたり、うつ伏したり、それでも皆、「父」を晒して息絶えている。

胸元がずんと重い。
感情性の重みであろう。
否、俺は重みに手を当てる。

極めて小さな長方形。
先刻さっき、古本屋で買ってきた袖珍の国語辞典。
そうだ。
昔、俺が使っていたのと同じ型の辞書だ。
十年よりももっと前、もっともっと俺が俺になる前に買ってもらったものだろう。
十年前にはもう俺は俺だった。
肌身離さず持っていた。
なのにあの日、手を離したばっかりに。

ページを繰っていく。
一枚ずつ、懐かしむように。

俺はまた「父」の前で立ち止まる。

──ことば知らぬははじと知れ
上はらさくや

確かに、俺の字だ。
拙いが、俺の字だ。

──言葉知らぬは恥と知れ

「……うるさい。うるさい! うるさい! うるさい!」
俺の血は宙へと昇る。
血管を熱した烙印に巻き付けでもしたかの如く蒸気となって消え去った。
熱さの後の哀しいまでの涼やかさの中、俺はようやく、最初の一行を書きつけた。

──上原尊うえはらたける殿……

俺は口の中の赤い実をその上に吐き出した。
くしゃくしゃに丸めて、腹っぺらしの屑籠にくれてやった。
奴は恍惚と喰らっている。
俺は着物の袖で唇を拭った。

毒でもあおったが如く俺はぱったり意識を失った。
そのまま目醒めなくとも構わない、それは後付けで考えたことだ。

なのに呑気なものだ。
俺は鍋をかき回している。
「豆腐しかねェや……」
角のとれた豆腐ばかりがぐるりぐるり渦の中を泳ぐ。
「あんたがヘマしたんだろう、朔ちゃん?」
その単純明快なひとことに、俺の耳はひどく疼いた。

外耳加答児カタルにでも、なっちまったかな。


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なんかの歌みたいな章タイトルになっていることに今気づいた。


現代の貝原瑞樹は木島和馬と餅食ってる。


ゆきお様・解説
バシッと解決、解説!
「何言ってんの、これ」をしっかり解決してくださっています。

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