『殴り殴られ詩人酒場』ep.75「記憶の中の操人形」
「で、何が逃げるってんだい? 朔ちゃん。」
イヨさんは俺の腕を払い立ち上がると、物憂そうに着物の皺を叩いた。
どこからともなく飛び出してきたハクセキレイが鞠菊の鉢の前でつんのめった。
それから発条で弾かれたみたいになったのち、頓狂に彼女の草履の間を走り抜いていった。
「なんか言ったらどうだい?」
言えるもんなら言いたいさ──その叫びすらどうにもできない程に口腔内は「もじ」だらけであった。
「ことば」ではなく、「もじ」である。
それも、腹足を失くした海牛の如き「ゑ」だの、「う」とも「つ」ともつかぬもの。
その全てが詰め込み過ぎた御馳走……否、鬣犬に四方八方を塞がれながら喰らう、まだわずかに「生」の熱を残した肉、それを誰にも渡してやるものかと俺は頬を歪にして噛み砕いているのだった。
「ああ!」
俺は自分の髪をもみくちゃにした。
「ああ! 逃げた!」
掻きむしったのではない。
むしったのだ。
「やめないかい!」
「いいんだ……こんなぽっち……幸い髪は、豊かな方なもんで……」
「馬鹿言ってんじゃないよ!」
イヨさんは長箒の柄先で俺の胸を突く。
「あんたがよくても──」
陽射しに透けた栗色の毛が道を転げていく。
推進機があるくせに推進機しか使わないあの鳥を追っかけ回すのを俺はしばらく見つめていた。
俺の身は忙しなかった。
まるで操人形のようだった。
脳の指示とは無関係に身体が動きたがった。
そして脳はいつしか身体に従順になっていった。
身体の欲しがるままを再現するようになってしまった。
俺の身体を、俺自身ではどうにもできない日が増えていった。
「ちょっと出てくるよ。」
爪先はすでに街へ向いて浮かれている。
「どこ行くんだい、朔ちゃん。」
「んだよ、イヨさん。また妬いてんのかい?」
「冗談およしよ! で、どこ行くんだい?」
「なんだい? 素直でないねェ……」
途端に指先が鬱血し始めた。
腕はみしり、みしりと軋んでいる。
「掃除、洗濯、枯草の片付け……それから……」
栗色だった毛が暗褐色に変わり鞠菊の横に吹き溜まっている。
風が吹くたび申し訳なさそうに揺れていた。
「わかった、わかったから。やる、やってから行く。な? それでいいだろ?」
腕組みをしたイヨさんのしたり顔がどうにもむず痒かった。
それからもまた、モノが動くたびに心揺らされ、揺れのたびに気が触れて、それら全てを書きつけてもまだ足りなかった。
全て済んだ頃にはもう、陽も傾き始めていた。
俺はとち狂ったセキレイの如く駆け出した。
「朔ちゃん! 帰りに大根買ってきとくれ!」
「ん。」
返事は届かなければ意味がない。
わかってはいた。
だから手を挙げてはみたがそれを彼女が目視たか否か、俺にはわからないままだった。
すでに勤勉な点灯夫が走り始めていた。
俺も一緒になって走ったが、とてもではないが追いつかない。
早々に諦め、灯っていく燈を眺めていた。
昔馴染みの古本屋に辿り着いた時にはもうほとんど陽は沈んでいた。
「お、久しぶりでねェか。なあ、朔坊!」
「やめねェか、その呼び方……」
店の親父は煙管を咥えて鼻から煙を吹いている。
「変わりないかい?」
「この通りだよ。」
「ちっと髪、切ったほうがいいぜ? せっかくの……」
近づいてきた男は俺の前髪を軽く払った。
「男前がよく見えねェかんな!」
そう言うと、髪束を掻き分け地肌を撫で回した。
親父の指はひどく乾いている。
古の紙に全てを捧げてしまったかの如く。
俺はその懐かしさに、瞬間的に仄かな眠気を覚えた。
「ハハッ、しっかしおめェも変わんねェな。」
「あ? んだよ、ならさっき『変わりないかい?』なんてすましてたのはどこの親父だい?」
男の手招きにまんまと吸い寄せられた俺は奥の座敷で羊羹の栗をすっ飛ばしていた。
「……にしたって、いっぱしに口ごたえするようになって。」
「下手な泣き真似はよしてくれよ……」
「だってよォ、おめェ初めて会った時はおっかさんにおぶさってなんも言わねェでむくれてたんだぞ?」
「そりゃ赤ん坊は何も言わないだろうよ……」
「かと思ったらおめェ、今度は尊……いんや、父ちゃんな。おめェの。あれにおぶさってなんでもかんでも買ってもらって……」
親父の昔話は止まりそうもない。
俺はだんだんと眠くなってきた。
意識が遠のきつつ、視界の隅が温く潤み始めている。
「そう、そんで今みてェにあくびすんだよ。すぐ眠りゃいいのにちょっとむずかってな。尊の髪ん中に手ェ突っ込んで無茶苦茶に引っ掻き回してからこてんってな! こてんって。」
俺は自分の髪の中に手を突っ込んでみた。
「そうそう、ちょうど今のおめェみたいな頭してたよ。あいつも。」
「へえ……あの人もこんな頭で?」
「下手したらそんなもんじゃ済まねえな。何だって鳥が巣と間違って枝運んできたくれェ……」
「うわ! 汚ねえな!」
懐かしむか笑うかのどちらかにしろ。
俺は親父の首にひっかかっていた手拭いをぶんどって着物を拭いた。
親父は笑いを茶で飲み下すと、今度は紙巻に火をつけた。
「まあもう、十年も前のことだろう?」
俺は黒文字で空の皿の鳥をなぞった。
「そろそろ許してやったらどうだい?」
俺は答えを出せなかった。
小さな辞書を片手に親父に別れを告げた。
瓦斯灯の燈はまっすぐに燃えている。
八百屋はもういない。
俺は辞書の大根のページに指を挟んで帰路に着く。
あくびをしながら、自分の髪に手を突っ込んで。
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ゆきお様・解説
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