『殴り殴られ詩人酒場』ep.74「文士、蘇生」
炎の揺らぎが闇を黙らせている。
崩れた影はうずくまり、弧をゆるやかに波打たせた。
ふたつの呼吸が違い違いに織り合いながら、白み始めた空を疎ましげに見上げる。
ひとつの影がもうひとつの影に凭れかかれば、また名残を惜しむかの如く重なり合う。
甲高い声が夜の帳を切り裂いた。
切り裂かれた帳の先では、灯のない電燈暈が揺れている。
頭の下では枕ならざるものが我に帰ることを諦め、じっとしていた。
夢と現とが折り重なり、一枚布と化している。
俺はそれを胸にかけ、天井の木目を見つめていた。
気づけなかっただけで、俺は眠っていたのだろう。
そうだ、きっと眠っていた。
つまり俺は今しがた、瞼を擡げたところだ。
目を覚ました俺はしばし茫然としていた。
どちらかと言えば、わざと頭の中をぼやかしている。
ぼやけた輪郭ならば溶け合えると信じていたからだ。
断片的になっていく、あの影がひと繋がりになると信じていたからだ。
しかし、無情にも全てははっきりと輪郭を持ち始める。
俺は焦心っていた。
故に猛然と筆を走らせた。
観たものの終わりの方から先に、紙切れの中へ並べていった。
瞳を開けて見る夢は砂のように、はたまた乾いた雪のようにさらさらと指の腹を逃れ逃れていくものだから。
かろうじて追いついた。
喘ぎ喘ぎ、薄い酸素で笑っている。
万年筆を置いた俺は白い窓に目をやった。
空には穴が空いていた。
仄暗い紫色した穴がぼんやりと。
その穴からは、はらりひらりとちぎれた何かが噴き出している。
その下を、薄紅の着物の女が赤ん坊をおぶさり寒げに歩いている。
その背で仰け反り子は大口をあけていた。
「雪……?」
藍を剥がした空の下、赤ん坊の泣き声に染まったあの影の結末はもう見えない。
俺は卓上洋燈の火を吹き消した。
妙にすっきりとした心持ちだった。
故に恐ろしかったのだ。
はっきりとした脳で視る、ぼんやりとした輪郭が。
「見てはいけないよ。」
そう言われていたあの抽斗の取っ手に手をかけるあの瞬間に似た昂りが脈を打って喉元まで駆けてくる。
気づけば部屋の襖をすっ飛ばしていた。
転げ落ちるように階段を降る。
目線の高さはいつもの通りだ。
にも関わらず、目に映る色はどこまでも鮮やかであった。
水風船の割れる間際の肌の色──その全てを言葉にできたあの日のように。
偽りなく白は白、混じり気なく黒は黒であった。
「あ!」
振り向くと、褞袍でごろごろになった法曹崩れが虚ろな目をして立っていた。
眼鏡の後ろの薄ぼんやりの瞳孔がはっきりとしていくのを俺はこの目で確かに視た。
「ぶ……文士殿?」
俺が右手に動けば奴は己の左手に、奴が右手に動けば俺は己の左手に──気づけば俺は奴の肩を引っ掴み奥へ奥へと押し込んでいた。
「おい! 危ねえ! やめねェか!」
──うるさい、黙れ!
舌の付け根まで出かかっている本心を必死に飲み込んだ。
俺は彼を軋む床に転がして、先刻閉めたばかりの襖を滑らせた。
部屋の空気は狼狽えているようだった。
「なあ、誰かいんのかい?」
千両の実がぼとぼとと五、六、原稿の隅に転がった。
「……文士殿? 久米だよ、久米がいるよ……」
開け放った襖の向こうから力のない声がした。
「あ? おめェでないよ。」
「そうかい……?」
俺は畳にうずくまり、帳面に文字を書きつけていく。
真冬に見る夏の夢。
蒼く透く壜の中の煌めく炭酸水。
舌で退ける、ビー玉の冷たさ。
鉛筆を畳に放った瞬間の、吐き出す息はまるでラムネのようだった。
その頃にはもう、小卓の上の原稿のインクはさらさらに乾き切っていた。
「なあ……文士殿……?」
「ん?」
襖の外を見遣ると法曹崩れが壁に凭れ、身を捩っていた。
褞袍の裾を掴んで今にも泣き出しそうである。
「俺……そろそろ……厠に……」
「あ……」
またあの水風船が膨れ出した。
奴と俺とは押し合いへし合い我先にと階段を転げ降った。
事なきを得た俺たちは各々に持ち場についた。
奴はやたらにすました顔で味噌汁をすすっている。俺は飯を茶碗に盛りながら、頬のうちで言葉を転がしていた。
「朔ちゃん、何ぶつぶつ言ってんだい?」
雪は堆く、山のようになっている。
「朔ちゃん!」
背に痛みが走った。
それでも俺は何も言えなかった。
ただ、何か暗記の科目の試験を控えた学生のふりをして文字の塊を譫言の如く浮かべ続けた。
「変な子だね……」
イヨさんにも妙な病が移ってしまって、土間にはブツクサが茂り始めていた。
イヨさんはブツクサを蹴散らしながら言う。
「朔ちゃん、悪いけど玄関なんとかしといてくれるかい?」
俺はブツクサにつまずきつつ頷いた。
玄関先の鞠菊は苦く香りたっている。
俺は青い空に首を傾げる。
「なあイヨさん? 今日、雪……」
「何言ってんだい? この通りだよ!」
右に傾げていた首は、まっすぐを通り越し左へ崩れていった。
俺はとにかく忙しかった。
箒を一振りするごとに帳面を開き、通りを人が歩くたび鉛筆を滑らせ、瞬きのたびにブツクサを芽吹かせねばならなかったのだ。
「朔ちゃん! あんた、またそんなとこ座って……!」
「しっ!」
俺はイヨさんの腕を掴んだ。
「逃げちまうだろ……?」
「はあ?」
俺は訝しむイヨさんを捕まえたままにして腿の上に帳面を広げた。
降り注ぐ陽の下で、黙るしかなくなった二つの影は全く違うものを見つめているのだった。
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【創作大賞2026】
オールカテゴリ部門エントリー中。
再び書けるようになった上原。
しかし……?
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調子に乗るな。
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【エッセイ】
エッセイというより悲鳴です。
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恋愛も生活も全ては地続きだ。
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ゆきお様・解説
朔也の復活劇。
今日は比喩が多い故、こちらの解説はありがたい。
もはや、辞書です。
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