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『殴り殴られ詩人酒場』ep.73「緑の檻」

気づけば俺は、インク壺に万年筆を突き立てていた。
屑籠は腹を空かせ、あんぐりと口を開けたまま天を仰ぐ。
ザリ、ザリと紙を掻く音は次第にその速度を増してゆき文字の方が乗り遅れ、振り落とされていくようであった。
俺はその振り落とされた文字をも掬い上げ、緑色をした格子の檻へと幽閉とじこめてやった。

壺にもたれかかる桜の紋章が俺の鼓動に合わせて震えている。

久方ぶりの感覚に、ひどく昂揚していた。
呼吸いき瞬目まじろぐ間も惜しい。
浅い喘ぎは意識を遠ざけた。
眼球は紅玻璃の水に沈む。

文字同士の戯れに嫉妬した。
脳を灼くしとねの暴動を素描デッサンしていく。
緩急なき目眩めくるめく光景のうちに俺は自らの身を投じたのだった。

「朔ちゃん? ちょっといいかい?」
と言い切る頃にはもうイヨさんは畳に腰を下ろしている。
俺は枕代わりに折り曲げていた座布団を彼女に向けて滑らせた。
相変わらず畳はけば立っている。
「おや、随分と書いてるみたいじゃないか。」
「ああ……」
あくびと相槌が同刻にまろび出た。
毳を指の腹で撫で潰しつつ、もう一度あくびをする。
ことん、と柔らかな音がした。
薄らまなこで音の方を見遣ると小瓶に挿さった千両の実が揺れている。

──昨夜のこと、お忘れではないでせうね……

──薄紅のを奏づをんなの灰がかる瞳が……

俺は這いつくばって、イヨさんの手から原稿を引っ剥がして抽斗ひきだしに突っ込んだ。

「なんだい、朔ちゃん。あんたこんな艶っぽいもん……」
「書けるさ。何、いつもお池の底の泥の話ばっか書いてるんでねェよ?」
「なんだい、そのお池の泥ってのは。」
彼女が揶揄からかいの色を見せないことに俺は却ってたじろいでいた。
同時にどこか、莫迦にして諦めさせてくれという願いさえ喉元につかえている。
このまま眠ってしまおうか、などと考えているうちにねむりの靄はすっかり晴れてしまった。
窓の外、月は雲にぼかされている。

それでも俺は身を起こさずにいた。
「朔ちゃん、今年はどうすんだい?」
「今年?」
壁掛の暦を見る。
あれももう間も無くお役御免だとため息をついた。
うちだよ、顔見せたらどうだい?」
「今更かい?」
「だって、親御さんは学校行ってるもんだと思ってんだろう?」
「耳が痛ェや。」

俺はイヨさんの膝前に並んだ握り飯に手を伸ばした。
その手は呆気なく討ち落とされる。
「また外耳加答児カタルかい?」
「イヨさん……それ、俺でねェな。」
イヨさんの瞳が中空を泳いだ隙に握り飯をひとつ掻っ攫った。
彼女が「あ」と言うか言わないかのうちに、俺はもうそれにかじりついていた。
冷飯が下の上でするするとほどける。
「梅だね。」
「朔ちゃん。あんたね……」
「はい。」
俺はおずおずと身体を起こし、残りの米を飲み込んだ。

「まあ、せめてふみくらい出したらどうだい?」
イヨさんはもう一つの皿からぼろ雑巾みたいなやつを一箸持ち上げて唇で挟むと訝しげな顔をして言った。
「寝惚けてんな……」
「え?」
「白菜だよ。」
彼女はどう足掻いてもぼろ雑巾……否、ぼろきれにしか見えないそれを俺の眼前で揺らす。
恐る恐る摘んで食ってみた。
「どうだい?」
「……うん?」
これを寝惚けている、というのか。
俺の舌の方がよっぽど寝惚けているのではないか?
漬かりが浅いのか、塩味えんみのほとんど感ぜられない、酸っぱい雑──白菜だった。

「まあ、よくわかんねェけど。文くらいなら出してやっても……」

最後に生家の敷居を跨いだのはもう六年も前のことだった。
それも女中のおみお、、、の背に隠れて。
結局何をしに行ったのかも、ことの顛末も今となっては覚えてはいないのだ。
ただ父親の体温となにかこう、冷たいものに触れたような覚えはあるがそれきりだ。
どうにも俺にとって上原の家というものは何かといって金平糖ばかりを送りつけてくる印象が強い。

十二で家を出されて以来、あの家からは金と金平糖、そしてはじめのうちはまとまって書物の類が箱に詰められ届いたものだった。
父親の字も久しく見てはいない。

記憶の中に現れるものは砂糖の塊で、やたらと甘々しいというのにどうして俺の奥歯のあたりは苦虫でも潰れたみたいになっているのだろうか。

「まあ、なんだっていいけど。書いておやりよ。」
イヨさんはそう言い残して出て行った。

取り残された俺をねむりの布が包み込む。

──俺は夜のとばりの外にいる。
否、俺が「夜」、そのものかもしれない。
帳の内には行燈の火が燃えている。
人影が重なり合って崩れていった。
それでも火は燃え続ける。
俺はそれを包んでいる。

きっと寒い晩のこと。
月のない、寂しい冬の晩のこと。


【創作大賞2026】
オールカテゴリ部門エントリー中。
さあ、夢の中へ。



上原朔也、今回も飯沼太一に飲まれるのか?


大学生・貝原瑞樹は大晦日、闖入者に気づいてしまう。


【エッセイ】
ちょうど一年前の今日投稿した記事。
ラブラドール・レトリバーに関する思い出話です。
なお、本日で連続420投稿目だったようです。
三日坊主も百四十人目に突入ですね(?)
おめでとうございます。


ゆきお様・解説
鬼気迫る解説にぞっとせよ!

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