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『殴り殴られ詩人酒場』ep.72「蟾蜍の鼓動」

俺は冬眠してしまったのだろうか……?
不自然なまでにしんはいとが凪いでいる。
足元の蟾蜍ひきがえる土気色つちけいろの内より血潮の色を滲ませている。
不意にれが脈打った気がした。

声を出そうにも肺が膨らまない。
否、肋の内ろくのうちを虚しい風が吹き抜けるのみである。
血球どもの走る音ばかりがザアザアと鼓膜を叩いている。
それも頭蓋を穿うがつが如く、不愉快な強さで。
気づけば俺は土に膝をついていた。
あの塊は極めて一定に拍を刻んでいる。
先ほどよりも鮮やかな紅を湛えて。

ザアザアはより一層激しさを増してきた。
血球の道は決壊寸前ではなかろうか。
俺は自らの頸に触れた。
肌感覚では今にも爆裂してしまいそうなほどに腫れ上がっている。
しかし、触れればただただ冷え切って落ち着き払った寂しい管に過ぎなかった。

「眠ってくれ……」
俺は土を掴む。
すっかり重くなったそれは、手のひらから指から爪の内まで泥濘ませていった。
やがて皮膚に染み渡り、俺ばかりが土の色に染まっていく。
「さあ……おやすみ。」
滑り落ちる掛け布団を幾度となく掛け直してやった。

それでも脈打つ塊はより赤々として、ねむりを拒み続けるのだった。

顔の前を魚が泳いだ。
銀色の魚の来た方を振り向くと、そこは見慣れた食堂だった。
法曹崩れの後ろ姿がある。
ただでさえ丸まった背を褞袍どてらの中綿が余分に丸く見せている。
猫背に拍車のかかったその男は、土間へと下げられていく皿どもに構うことなくゆったりと食事を楽しんでいるようだった。

「おや、文士殿……朝からどろんこ遊びかい?」
振り向いた奴の奴の唇からは鰯の尻尾がのぞいていた。

互いに振り向いた形のまま、どちらからともなく笑い始めた。
俺は泥まみれの手を恥じて、首を掻いた。

「ん? 朔ちゃん、終わったかい?」
法曹崩れの湯呑みに茶を注ぎながらイヨさんが首を伸ばしている。
「んだよ、イヨさん。朔坊さくぼうのどろんこはあんたの差し金かい?」
「嫌なこと言うね! で、終わったかい? 朔ちゃん。」
俺はまた足元に目をやった。
そこにはまだ蟾蜍がうずくまっている。
目を閉じて微動だにしないそれは安心しきったように剥き出されていた。
俺は転がったままになっていた、蓮の鉢を元あったようにして立ち上がる。

「埋めといた!」
もう一度振り返った俺を見たイヨさんは「やだね、朔ちゃん! あんたいくつだい? 三歳かい?」と捲し立てるとあっという間に俺の目の前にやってきた。
そして俺の顔を拭き上げてしまうと、腰の結びをほどき始める。

「何すんだ?」
あっけにとられているうちに、俺の肌は雨と人目にさらされ粟立っている。
かろうじて肌を隠している泥の着物を裡あわせた俺は身をかがめた。

法曹崩れは身体をすっかりこちらに向けて茶碗を片手に俺を見ている。
「あいにく鰯もたくあんも、味噌汁も全部食っちまった。いやあ、しかし、飯がすすむねェ……坊っちゃま。」
気味が悪かった。
肌の粟は神経質に細かさを増して立ち上がっている。
俺は男を睨みつけている。

「ほれ、朔ちゃん! いつまでぼさっとしてんだい? こっち。」
イヨさんは仏壇の方で空を手繰っている。
俺の身体はそこにつながっているかの如く寄せられていく。
俺が動くと奴の身体も動く。
気づけば言われるがまま、否、されるがままというべきだろうか。
俺はイヨさんの前に立った。

「脱ぎな。」
なんて乱暴なのだろう。
俺はむくれっつらでイヨさんと法曹崩れとの間で視線を走らせた。

なぜだ。
いやに空間が広く感ぜられる。
「なあ、イヨさん。朔坊は反抗期かね。」
その声が妙に大人びて聴こえる。
「そうかもしれないね、困ったもんだよ!」

これを脱いだら何か良くないこと──想像もつかないことが起こる気がした。
俺は布を握り込んだ。

「朔ちゃん! 脱ぎな!」
「いやだ……」
「どうすんだい、そんな泥まみれで!」
「いやだ……」
「脱ぎな!」
「いやだ!」

衣紋を引かれ、俺は前屈みに畳に伏した。
ぽとりぽとり……ぼとぼとぼとぼと──
鈍い音が井草を打った。

「おや?」
うずくまる俺の真横を酒の匂いが通り過ぎた。
俺はまだ、肌を露わにしたままぶるぶると慄えている。
「朔坊……? 今度は石集めですか?」
俺は首を振った。
目を閉じ、古畳に額を押し付けて。
「もしや坊っちゃま、これで鳩捕まえようとでも……?」
すると背に布が掛けられた。
柔らかで、わずかに人の匂いがする。
「ほれ、朔ちゃん。身体起こしな。」
俺はゆるゆると頭をもたげる。
あおぐろい小石が、部屋の隅で小山のようになっている。

「鳩……」
鳩のような色の着物だった。
「爺さんのお古で悪いけど……ないよりいいだろう?」
俺は大きく頷いた。
イヨさんの後ろ、彼はずっと変わらない笑顔でこちらを向いているのだった。

「鳩っつったら……朔坊、昨日鳩食ってたんだろ?」
「朔ちゃん? あんたそれ本当かい?」
「違ェよ! 鳩の形した焼菓子だ。先生んとこでな。」
「それも、十羽とか……もっとだっけか……?」
法曹崩れは意地悪く口の端をひくつかせている。
「だから、焼菓子だって!」
俺は頬を膨らまして唇を尖らして手をばたつかせている。
声だっておかしい。
やたらに空をつんざき、真っ直ぐに透き通っている。

「もういい……」
立ち上がる時の身体の均衡はいつも通りだ。
しかし、階段を昇る足はどこか期待と恐怖とで湧き立ち駆り立てられている。

襖の取手に手をかける。
ばんっと力任せに開け放つ。

いつもの自分の部屋だというのに、冒険気分で昂ってくる。
視界の端が煌めいた。
一瞬の記憶を辿り、小卓の上を眼が這った。
金の釦が鈍い光を吸い込んでは吐き出している。

──桜の金釦

しんが飛び跳ねている。
虚脱したはいが骨の檻の中、カラカラ揺れ始めた。

あの蟾蜍は、時化しけた水を泳ぎ去っていった。


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もし、この上原みたいに冬眠した蛙を見つけたら水をかけたりせず元あったようにしておきましょう。



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ノルウェイの森が刈られたり、焼き尽くされたりするエッセイです。


ゆきお様・解説
荒唐無稽な話を裏返せば真相が見えてくる!

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