二日の朝に──『水辺のつつじ』ep.51
「瑞樹ー? 瑞樹ー!」
約四センチメートル厚の金属板越しに聴き覚えのある声がする。
──玄関ドアが無遠慮に、はたまたご近所に無配慮に叩かれたのは、まだ鳥も寝ぼけているような時間のことだった。
僕はびしょびしょの髪のまま、扉を開けた。
木島君は「よう!」と左手を挙げると、右手にぶら下げたエコバックを僕に押し付けた。
「え、何? もしかして俺が来るってわかってた?」
彼は「お邪魔します」でも「あけましておめでとう」でもなく、さも当然といった風に玄関に身体を捩じ込むと手慣れた手つきで鍵をしめ、ご丁寧にU字ロックまでかけてしまった。
その抜かりなさに僕は呆気にとられていた。
水槽の金魚の如く、口をぱくぱくさせている僕に木島君はなおも言葉を撒き散らす。
「瑞樹、お前もしかして超能力者?」
赤いベタ塗りの花模様が印象的なエコバッグの口からは大根の頭がのぞいている。
極めて、重たい。
「ほら、あんまりにもドア開くの早かったからさ。」
「ああ……」
やっと出た声はもはや声というより音だった。
「もうワンストローク考えてたの、無駄になっただろ?」
木島君はいかに手を使わずに靴を脱ぐかに躍起になっている。
「おい! 貝原! いるのはわかってるんだ! 開けなさい!」
突然の爆音に僕は咄嗟に唇の前に指を立てた。
唐突にエコバッグの重みを一手に担うことになった左腕が悲鳴を上げる。
とうの木島君は「悪ィ、悪ィ」と頭の後ろを掻きつつ、編み上げブーツから足を引き抜いた。
「うわっ! なんだよこれ!」
「ああ……ごめん……」
「魔除けか?」
木島君は、玄関先のど真ん中に鎮座する白菜を避け、室内へ足を踏み入れた。
腰につけた銀色の鎖がじゃらりと硬質の音を立てる。
白菜は依然として、元の位置で番をしているのだった。
木島君は、玄関と主たる生活空間とをつなぐなけなしの通路を忍者の如く進んでいく。
僕は途中、台所にエコバッグを置き彼の後ろについていった。
すると彼は突然振り向いて、「もしかして、取り込み中だった?」と雑踏でも聴こえるほどの、囁きと定義されるか否か極めて際どい声量で訊ねた。
「え?」
僕は何のことかわからなかった。
木島君は進行方向に向き直ると一度咳払いをした。
「目のやり場に困るから、早く服着てくんねえかな?」
来るとわかっていたら、シャワーなんか浴びなかった──それもなんだかおかしいなと僕は二、三秒考える。
そうか、前の日のうちに風呂は済ませておいたのに。
いや、それもおかしい……
そう思いつつ僕は手近にあったスウェットを着ると、首にかけたタオルで髪をこすった。
もうほとんど、乾いてしまっている。
自然乾燥特有の、襟足の癖が気にかかる。
僕は悪あがき同然でドライヤーの風を浴びていた。
「瑞樹ー? 餅ある?」
「あ。」
電源を落としたドライヤーは、ぱち……ぱちと音を立てている。
「さすが、瑞樹!」
木島君は一回手を叩くと、花模様のエコバッグからパック切り餅を取り出し、いたずらっぽく笑った。
「あれ、瑞樹? トースターは?」
「ないよ。」
「は?」
「持ってない。」
彼は大根をおろす手を止め、眼球の裏側まで乾きそうなほど瞼を持ち上げている。
「俺としたことが……!」
木島君は額に手首を当て天を……低過ぎる天井を仰いだ。
「おろし金、大根、つぶあん、餅! ここまで完璧だったのに!」
「ああ……お前がトースターを持っていないことにすら気づけなかったとは……」
「トースター、持ってくるか……」
大き過ぎる独語で満たされた二人きりの空間に僕はかろうじて言葉を捩じ込んだ。
──餅ふたつ。水、五十ミリリットル。六百ワットで一分半。ラップなし。
「呪文?」
「調理法。」
そこからは早かった。
僕たちはひたすらに餅を水に投じては二.四五ギガヘルツを浴びせ続けた。
交代制で大根をまるまる一本すりおろす。
割れないどんぶりにつぶあんもひねり出して、テーブルに並べた。
食器で木目が見えなくなったのは初めてかもしれない。
──いただきます。
「トースターなくて正解だったかもな。」
「そうだね。」
木島君も僕も、延々伸び続ける餅に手を焼きながら笑い合った。
噛み切る隙もなく、若干の生命の危機を感じながらスリルごと正月を味わう。
「やっぱ正月ったらこれだろ!」
木島君は危なげなく餅を平らげていく。
「餅を食わずして何が正月だって言うんだよ……お前、昨日とか何食っ……」
僕は咄嗟に木島君の背中を叩いた。
「おい! 違うから!」
詰まらせたのは言葉だったらしい。
彼は咽せ込みながら言葉を振り絞る。
「瑞樹……お前、この花……」
「ああ、水仙?」
「どうしてそんなものが……?」
「もらったから。」
「もらった? 誰に?」
「あのほら、自販機わかる? そこの斜向かいの家の人。」
「ほおーん……」
「なに?」
「まさか、とは思うけど。カレー作りすぎちゃう人妻とか、部屋ひとつ隔てたところに雨の日に鍵と傘忘れて閉め出されてる熟女とか住んでないだろうな?」
「なにそれ。」
「それから、上の階に義実家から届きすぎたりんごにほとほと困り果てている幼妻とか……」
「あ!」
「え?」
「みかん、食べる?」
「みかん?」
「そうそう。もらったんだよ、結構たくさん。」
僕はシンクの下からみかんを出してきて彼に五個渡した。
「げ。なんちゅうとこにしまってんだよ……カビ生えるぞ?」
「え……」
慌てて残りのみかんを全て冷蔵庫に移動させた。
「で? これは……」
木島君は二個目のみかんを剥いている。
すると途端にはっとした顔をして「俺としたことが!」と叫んだ。
みかんを放り投げ、ゴミ箱をのぞき、掛け布団をひっくり返した。
「瑞樹! お前……」
「なに?」
僕は掛け布団を伸ばし、ゴミ箱を元に戻した。
「俺は悲しいぞ! お前が……そんな奴だったなんて……」
「え……話が全然見えないんだけど……」
「だってあれだろ? そのみかん持ってきた幼妻と……」
「え?」
「え?」
「これ、バイト先の店長にもらったんだよ。あの人、実家愛媛だから。」
「女か?」
「ううん、パチスロ命の二十七歳、男性。」
「うわ……夢が壊れるな……」
木島君の悲しみのベクトルが三百六十度のやや手前まで回転したところで、テーブルの上はすっかり片付いた。
「ああ……一生分の餅食った気がする。」
「致死量、かな……」
膨れた腹をさすった。
僕たちの血管内では過剰な糖が暴動を起こしている。
そこからは昼寝をしたり、本を読んだり、テレビを観たりとさながら幼児の平行遊びのようなことをして過ごしていた。
ベッドを取られた僕は、その下の床で本を読んでいた。
寝返りを打った木島君の腕が首に当たった。
「あ、ごめん。」
どうやら起きたらしい彼に僕は訊ねた。
「木島君さ、こんなとこにいていいの?」
「え? 何? 何だよ、その目は……」
「え?」
「違う、め!」
「ああ……」
「あと、近い。」
僕は立ち上がってコップに水道水を貯めた。
僕が水を飲み始めたところで木島君は言った。
「チナツ、実家帰っててさ。」
「ああ、あの綺麗な子……」
「あ?」
「黒い……」
「それはリサ!」
「え?」
「あ……なんだよ! その『うわあ……二股かけてる、最低』みたいなツラは!」
「わかってるよ。彼女がチナツさんで……」
「犬がリサ!」
僕たちは餅ぶりに大笑いしている。
「瑞樹も置いてけぼりだろ?」
「ああ、まあ……」
「だからって人妻のカレー食ったり、びしょ濡れの熟女連れ込んだり……」
「してないよ。」
「え?」
「してない。」
笑い合ううちにいつの間にか電気のスイッチを入れていた。
「なあ瑞樹。」
「ん?」
「夕飯は? どうする?」
「え?」
到底、一生分の餅に悶えていた人間の発言とは思えない。
とはいえ僕も致死量の餅を解毒したのか少しお腹が空いていた。
「冷凍した米ならあるよ。」
「お、マジ?」
「あとカレーが……」
「人妻のか?」
「違うよ、ご奉仕品コーナーの……」
「ご奉仕品……?」
「あ、いやだった? 安いからつい……」
「いや? ごめん、そうじゃねえから。」
なんなのか、よくわからなかったけれど、僕たちは人妻の、ではないカレーを並んで食べた。
その傍らには、身体へのわずかな思いやりを添えて。
わずかに小さくなった白菜は、今も玄関先に鎮座して寝ずの番に当たるのだった。
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【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
一月二日、木島君が遊びにきた。
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一月一日は、彼女と電話した。
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大晦日は辛いよ。
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ゆきお様・解説
もはや解説ではない、解決だ!
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ポテトチップスよりも
お・ぬ・し