金曜日のディミヌエンド
本屋で思いっきり屁をこいてしまった。
ここのところ、
立ち上がる時の原動力が屁、歩行の原動力も屁、娘への返事も屁、と言った具合に大概の行動を屁に終始している。
そんな中、ついにやってはいけないことをやらかしたのだった。
「いらっしゃいませ……」
深煎りのエスプレッソのような低音が心地よい。
入り口から向かって右手のレジでは、小さめの丸椅子に腰掛けたスキンヘッドの男性が赤ペンを片手に思い悩んでいる。
金曜夕方の平和な書店。
故障中の自動ドアは開け放たれ、歩いて三十秒ほど、目と鼻の先の焙煎所から豆の焦げる香りが流れ込む。
紙とインクの匂いと、珈琲の香りが交じり合う。
どこか気怠げな雰囲気が心地よい。
傾ききる直前の夕陽が柔らかく黄色い光を残している。
来年のカレンダーを吟味する上品なレディに、BL漫画コーナーで目を泳がせている女子高生、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を手にレジへ向かう口ピアスの男性。
クリスマス前とあってか、いつもより人が多い。
絵本コーナーで老夫婦が絵本を吟味している。
「はらぺこあおむしは、きっともう持っているわよね。」
「定番だからね。」
母親にキラッキラの魔法少女が表紙の本をねだる、茶色いランドセルを背負った小学校低学年くらいの女の子。
そのランドセルに尻を押され、ふらつく細身の女性の手には「教員採用試験」のテキスト。
『山と渓谷12月号』を我が物顔で開き、今にも鼻をほじらんとしているおじさんが書店員に厳かにお叱りを受けた瞬間のことだ。
ボンッ!!!!!
突然の爆発音に騒然とする店内。
BLコーナーの女子高生は色っぽい装丁の後ろに隠れ、少女はねだることをやめた。
私は金曜日の夕方、アンナ・カレーニナと共に死んだ。
──社会的に。
(完)
活字ブルジョワジーの皆様なら、この“爆発音”が何かお気付きだろう!
そうだ正解は、屁だ。
金曜日、私は馴染みの本屋で屁をこいてきた。
……屁をこきに行ったわけではなく、本を買いに行ったのだが意図せず屁が出てしまった。
屁はあくまでもついでだ。
ついでというより、事故である。
読書と私は長らく冷戦関係にある。
決して馴染みの、ではない。
敵地視察だ!
あくまでも敵地視察!
馴染んでなどいない!
なお、この本屋はとても狭い。
そもそもこの本屋が収まっている市が、ものすごく狭い。
どの程度狭いかと言えば、日本国内市区町村面積ランキングトップ四十圏内(全一七四一市区町村)にノミネートされる程である。
狭過ぎて警察署すら配置できない。
言わずもがな消防署もない。
市の面積の大半はおそらく歯科医院だ。
四十五件ある。
おそらく、この街はどこぞの暇人がマイクラと勘違いして自由気ままに歯医者ばかり創っちまったんだろうよ。
スープの冷めぬ距離ならぬ、コンポジットレジンが固まらぬ距離に歯科医院が乱立している。
二年前、これまた馴染みのファミリーマートがある日突然閉店した。
その約二週間後、ファミマ跡地に歯医者が爆誕。
この時、俺は確信した。
──絶対マイクラだろう、と。
おかげさまで靴下に穴が開くたび隣の市に行くか、車が「殺!」の勢いで行き交う、難易度がバグを起こしたインベーダーゲーム的な道を通るほかなくなりましたよ!
なんで靴下を買うために命を削らねばならぬのだ!
否、なぜお前はファミマを靴下屋さんとして利用しているのだ!
それはいいとして、
そんな狭小地区だからか本屋は、奥ゆかしく慎ましいサイズ感で佇んでいる。
高級イタリアンの最後に出てくる一口分にも満たないティラミスをイメージしていただければと思う。
ちなみに私は高級イタリアンの最後に出てくるティラミスというものを見たことがない。
私からすれば、そんなティラミスはタフィーの実(ex.『ナルニア国物語』)に等しい。
そんな高級イタリアンのデザート的書店はワンフロアの平屋。
そこに、小説、雑誌、参考書、児童書が詰め込まれている。
最近はそこにレトルトカレーまで仲間入りし、半ばおしくらまんじゅう状態で肩を寄せ合い、買われるのを今か今かと待っているのだ。
だからこそ、直線距離で最も離れた雑誌コーナーとBL漫画コーナーであっても互いの手にする書物の表紙がいかなるものか、マサイ族でなくとも認識することができる。
認識できないようであれば、ぜひ眼科の受診を強くお勧めする!
そんな絵本に出てくるような、ファンタジックな本屋を突如として恐怖のどん底に陥れてしまった。
スカした顔してオシャレ雑誌『Harper's BAZAAR』をレジに運んでいる最中、爆音で屁をぶちかました。
スカした顔してスカしっ屁ならよかったのだが、
さながらツングースカ大爆発を彷彿とさせる「ボンッ!」である。
【ツングースカ大爆発】
発生日時:1908年6月30日7時2分頃
場所:ロシア帝国領中央シベリア、エニセイ川支流のポドカメンナヤ・ツングースカ川上流(現・ロシア連邦クラスノヤルスク地方)ヴァナヴァラ北の上空
隕石(直径50〜60m)が大気中で爆発。
長らく原因不明とされてきたが2013年に隕石によるものと判明。
被害:
①爆心地から半径約30〜50kmの森林が炎上
②約2,150平方km(東京都とほぼ同じ面積)の範囲の樹木がなぎ倒される
③爆心地から1,000km離れた家の窓ガラスが割れる
〈原因解明までに浮上した仮説〉
◼️ガス噴出説
2008年7月、ボン大学の物理学者ヴォルフガング・クントは彗星や小惑星を原因としない新説として、地表の奥深くにたまったメタンを多く含むガス1,000万トンが地上に噴出したという説を発表。
我が屁により危うく書店のみならず、唯一の観光スポット・紅葉真っ只中の銀杏並木まで吹っ飛ばすところであった。
書店及び銀杏並木こそ無事だったが、
『成瀬は天下を取りにいく』のポップと例の老夫婦の“本屋に来た目的”の認知が吹っ飛んだ。
だが、俺は悪くない!
悪いのは青木昆陽だ。
【青木昆陽】
天下のサツマイモヲタク!
あだ名:甘藷先生(さつまいも先生)
生年月日:1698年6月19日
天に召された日:1769年11月9日
享年:72歳
死因:流行性感冒(ただの風邪)
肩書き:幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者
幕張(千葉)には昆陽神社が建てられ、「芋神さま」として祀られている。
奴がサツマイモとかいう美味い芋を日本に広めなければ今回の小規模ツンガースカ大爆発は回避できたはずだ。
あんなにも美味い芋をヒダル神に取り憑かれし我がみすみす見過ごすはずがなかろう!
この日も、その前の日も、さらにその前の日も一日に五本は食べたぞ。
食物繊維の過剰摂取もいいところである。
故に我が腸内は凶悪ガス製造工場と化していたのである。
兎にも角にも、それもこれも、全部悪いのは青木昆陽なのだ。
奴の書いた『蕃藷考』は焚書坑儒の如く焼き払っておくべきだったのだ!
あの本には、芋の育て方及びアレがいかに素晴らしいかが記されているからな。
どういうことかって、『蕃藷考』を焼き払って、奴が研究用に取り寄せた芋を生き埋めにするってことだ。
──百日後には美味しいサツマイモがどっさりできましたとさ。
おい!
結局しこたま芋を喰らう運命じゃねえか!
老いも若いも皆寄っといで!
美味いよ、美味いよォ!
じゃないんだよ!!
──爆発から数秒を経て、書店は毒ガスに包まれた。
それも青木昆陽のせいだ。
毒ガスに包まれたのだが、不幸中の幸い!
諸事情により出入り口のドア全開だったのだ。
(問1)ドアが全開だった“諸事情”とは何か。本文中から抜き出して答えよ。
“故障中の自動ドアは開け放たれ、歩いて三十秒ほど、目と鼻の先の焙煎所から豆の焦げる香りが流れ込む。”
(問2)問1の問題について、あなたの心境として正しくないものをひとつ選択せよ。
ア.うるさい
イ.すばらしい
ウ.くだらない
エ.くさい
オ.ださい
ところで、赤本は今も赤いのか?
我が受験生だった頃は赤かった。
ついでにあれを通学バッグにミッチミチに詰めて顔を真っ赤にして登校するわけわからんムーブメントがあったが、ワシは日本史の定期試験が真っ赤に染まっていてそれどころではなかった!
顔面は蒼白を通り越し、秋晴れの空よりも青かった!
それはさておき、この日は私が屁をこく前からすでに店の様子はおかしかった。
あやしがりて寄りて見なくてもわかる。
新鮮な酸素も、客も賊もバッチコーイ!と言わんばかりに自動ドアが丸開きなのだ。
今にも消え入りそうな紫色の水性インクのヒョロヒョロ文字で、
「本日自動ドア及びレジシステム故障中につき現金でのお支払いのみとなっております。」
と書かれた貼り紙がしてある。
文章の終盤に向かうほどに見事なディミヌエンド!
【ディミヌエンド】
「徐々に小さくなる」を意味する音楽用語。
デクレッシェンドとほぼ同意だが、厳密に言えばディミヌエンドのほうが「ギリギリまで小さく」「消え入るような」というニュアンスを持つ。
しかも、「故障」の「障」の字を五回も訂正した形跡がある。
四回目の訂正時に紫ペンが力尽きた痕跡があり、
「障」の成功形は力強い赤インクで書かれていたが相変わらずのヒョロ。
例えるなら、栄養状態が悪過ぎる土壌から飛び出してきたミミズが最後の力を振り絞りひとしきりビチビチ動き回った後力尽きる直前にヘナヘナと動いた時の軌跡。
この時、我が脳内では、力尽きたミミズの横で、杉下右京が人差し指を厳かに立てオーケストラを指揮するが如く滑らかに動きつつ歩き始めてしまった。
「おやおや、四度目の訂正でインクが切れてしまったようですねェ……それにしてもこの見事なディミヌエンド!お見事です!」
あああ……
余計なことが気になってしまうのが自分の悪い癖だとかなんとか言って「自戒の念!」のふりをしつつ実は何も反省していない人が貼り紙に旋律を感じてしまっている。
「いらっしゃいませ……」
エスプレッソボイスに舌鼓ならぬ耳鼓を打つ。
しかしこの書店、日頃入店時に書店員から声を掛けられることがほとんどない為、まずそこに焦る。
続きまして声のする方を向きましたところ、
スキンヘッドかつコワモテ、ベレー帽斜め被り、
格ゲーでいうところのトリッキーな動きで難攻不落気味のCPUキャラにありがちな風貌のスタイリッシュな男性が赤ペンで自分の頭をツンツクツンツクしており、盛大にビビり散らす。
S&K(社不&挙不)の私は結果的に、
「こここっこっこっこっこんち!」
とDJにスクラッチされたディスクのような音声を出すに至る。
そして、完全にロックオンされた。
視線が常に私のこめかみに突き刺さっているのがわかる。
私は本当は『BAILA』を買うつもりだったのだが、
手に取っていたのは『Harper's BAZAAR』。
で、それをレジに運んでいる最中に
「ボンッ!」
である。
恥ずかしさと申し訳なさで顔面から吹き出した炎が屁に引火して二次災害が起きかねない状況であった。
それでもスキンヘッドは冷静である。
シャカシャカとレジに置かれた謎の紙束の上で赤ペンを走らせている。
依然として『BAILA』だと信じてやまぬ『Harper's BAZAAR』をスキンヘッドに手渡した。
「大変申し訳ないのですが、本日現金のみの支払いですがよろしいでしょうか?」
「もっもちろんでございます!」
「八百円です。」
私は北里柴三郎を捜索する傍ら、謎の紙束に視線を落とす。
……ゲラだ。
細かいところまでは見ていないが、赤い丸や赤い文字がひしめいている。
これは……
もしやスキンヘッドの優しさなのか?
表面上はポーカーフェイスを貫いているが、
心の中ではゲラゲラ笑っておるぞ!
というアピールなのか?
どうなんだい、スキンヘッド!
「二百円のお返しです、ありがとうございました。」
いやいや、一体何がありがとうなんだ?
あわや店は吹っ飛び、美しい黄色の銀杏並木までもなぎ倒さんとしたこの私に一体何を感謝すると言うのだ!
解せぬ……
解せぬ……
私は店を後にした。
ふと、二百円を受け取ったことに後悔の念を覚える。
せめて、あの二百円を受け取らず失った社会的信用の買い戻しをすれば良かったと。
──もちろん、二百円で取り戻せるほど安いものではないと承知した上で。
アンナ・カレーニナと共に死んだ自身の社会的死亡届に目を通す。
死因:「ボンッ!」
社会的信用のディミヌエンドは、涙すら誘わない。
すっかり太陽は沈み、代わりに月が町の輪郭をぼやかしている。
風に揺れる秋明菊の足元が枯れ始め、秋の終わりを告げようという時分。
享保の世に恨み節を飛ばし、
あちらの芋を怒りの業火でほくほくに焼き上げた。
夜だというのに焙煎所併設のカフェでエスプレッソを愉しむ。
買ったばかりの『BAILA』を取り出……
違う!
これ、『Harper's BAZAAR』!
私という人間の人生のゲラは、赤文字と赤記号に溢れている。
いつ校了となるやも知れぬゲラにはまだ、無限大の可能性が詰まっているのだろう。
いつかこれが一冊の本となる時、私はもう……
やめよう、湿っぽいのは好きじゃないんだ。
シャレオツ雑誌に目を通す。
どうやらシャレオツの間では、
マトリックスのネオ的サングラスと、黒レースでできた、ゴシックな雰囲気のスイカ割り用目隠し布が流行っているようだ。
とてもではないが吾輩には真似できそうにない。
──ところで、“ぶちかましました”って語感がいいな。
“ぶちかました”→ぶちかましました
丁寧語にすると、「まし」がマシマシだ!
と、性懲りも無く芋を喰らいながらお送りしました。
でもこれ全部青木昆陽のせいだからな!
私は断じて悪くない。
憤怒憤怒!
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四十五件の中の一件は吾輩御用達の歯医者である。
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“本屋といえば”のわけわからない記事はこちら。
【参考資料】
◽︎YAMAHA
【楽譜の読み方#10】クレッシェンド、デクレッシェンド、ディミヌエンド
◽︎Harper's BAZAAR
◽︎慶應義塾大学
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