「人にされて、嬉しいことをしなさい」って、怖いな
子どもの頃、「人にされて、嬉しかったことをしなさい」とか、「人にされて、嫌なことは自分も誰かにしない」って教わりませんでしたか。
どうしても子どもって、そう言い聞かせないと、自分事として相手の痛みを捉えてくれないんだと思います。
そうやって言い聞かせることによって、共感する力が育っていくような気もしますし。
でもこれが大人になるまでずっと残っていると、すごく怖いことが起きます。
「私がされて嬉しかったから、これを相手にしたら喜んでくれるはずだ」
とか
「私がされて嫌じゃなかったから、相手も嫌じゃないだろう……」
とか。
自分の「感じ方」が全てだと思ってしまうんですよね。
本当は、「やってみたら相手が微妙な反応をした」「想定と違った」という経験で上書きされるはずなのに、周りも同じような価値観だったり、いつも自分が「強い側」で相手が我慢してしまうと、それが「常識」に固定されていくんです。
ほら……なんか、外国の風習を、私たちが「え、なにそれ」「ありえない」と思うのだって、私たちが育ってきた価値観の外にあるからですよね。
例えば、メキシコの「メガボンバー」というお祭りを知っているでしょうか。
参加者が爆薬を仕込んだハンマーを地面や鉄床に叩きつけて、次々に爆発させていくというお祭りで、毎回負傷者が出るそうなんです。それでも毎年、数万人が詰めかけるとか。

これ、400年以上前からある歴史のあるお祭りらしいです。
「えー、なにそれ」と思われましたか?
でも、日本だって「だんじり祭り」はかなり危険です。毎年のように死者が出ますが、未だにやめようとはなっていません。燃やした薪の上を通る「火渡り祭り」だってありますよね。
これらには、もはやそんなに、驚かないじゃないですか。
こんな風に、私たちが思う「当たり前」は強固に、私たちの中に根を張るものなんですね。
でもそういう「当たり前」が人によって違うんだということは、気を付けていても忘れてしまいます。
そうすると、「このぐらい言っても、私は傷つかないから、相手も大丈夫だろう」とか「これは誰でも喜んでくれるはずだ」と思って、押し付けてしまうことがあるんですよね……。
「こんなことで傷つくなんて、あなた、おかしいんじゃないの?」とか言っちゃったりして。
一方私は、むしろ人が喜ぶようなことを喜ばず、人が嫌でないことも嫌だと思う変わった子どもでした。
だからそんな私が「私が嬉しいから、相手も嬉しいはずだ」で行動すると、たいてい失敗してしまいます。
そんなわけで、「自分が嬉しいことを」ではなく「人が嬉しいことをせよ」というのが習い性になりました。
日常の中で、何か「してもらった」ことで相手が嬉しそうな様子なら、その人にも、他の人にもしてみたり。そうするとたいていうまく行くんです。
それでも、自分にとってさほど嫌でないこと、比較的簡単に乗り越えてきたことを、他の人が辛い、苦しいと訴えているのを聞くと、
「そんなの大したことない」
「私はもっと辛い出来事にも耐えたんだ」
なんて、反射的に思っちゃうときがあります。
もちろん、口には出しませんし、本当はそんなふうに思ってしまう自分に、少しガッカリします。
私の母も、私を自然分娩で産みましたが、帝王切開で子どもを産んだ生んだ妹(つまり私の叔母)に、批判的な言葉をかけているのを聞きました。
でも帝王切開にするかどうかを厳密に選べるわけでもありませんし、実際には自然分娩にはない苦しみがたくさんあるじゃないですか。
合併症もあれば、その後の妊娠に際しても、子宮破裂のリスクを抱えることになります。
それぞれに事情も、考え方も、感じ方も違うのに、自分ができることは他人にもできる、と思ってしまうのは、怖いです。
でも本当は、他人の身に起きたことを、自分のことに置き換えて考えられるのは、素晴らしいことじゃないですか。
悪いことではない。
それなのに、「そんなの私だったら大したことないわ」なんて、時に人を傷つけてしまうのは、悲しいですね。
多分、これを読んでいる方も、同じように傷つけたり、傷つけられたりしたご経験があると思うんです。
子どもの頃に「自分がされて嫌なことや嬉しいことは……」と学んだあと、どこかの段階で、「とはいえ、他人を自分と同じだと思うな」と教えてくれればいいのに、それは教えてくれないですし、なかなか、難しいんですよね。
難しいけれど、手探りでも、努力し続けたいな、そしてそういうふうに考えられる人が増えればいいな、と私は願っています。
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