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【つの版】度量衡比較・貨幣186

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。奥羽・関東と見てきましたから、次は越後です。

中部地方

◆新◆

◆潟◆


越後略史

 越後国は現在の新潟県(佐渡は除く)に相当し、北陸道の最北端にあって北は出羽、東は陸奥、南は上野と信濃、西は越中に接する大国です。古代には敦賀から弥彦山までを「こしの国」と総称しましたが、7世紀末には畿内に近い順に越前(高志道前)・越中(高志道中)・越後(高志道後)に三分割されます(のち越前から能登・加賀が分立)。

 8世紀には越中から親不知以東の四郡(頸城くびき・魚沼・古志・蒲原かんばら)が越後に分割され、越後北端の出羽郡が分けられて出羽国となり、越後の領域がおおよそ定まります。越後自体も広大なため、畿内に近い方(南西側)から上越・中越・下越と区分され、国府は上越地方=頸城郡に置かれました(現上越市国府)。

 平安時代後期には常陸平氏の傍流である越後平氏が勢力を広げ、下越の阿賀野川流域の城氏は出羽の清原氏と婚姻し、会津の支配権を巡って奥州藤原氏と争いました。平清盛ら平家政権からは同族のよしみで支援されますが、源平合戦で木曽義仲に敗れて没落します。のち梶原景時を後ろ盾として鎌倉幕府の御家人となりますが、景時が粛清されると反乱を起こし、佐々木盛綱に鎮圧されて歴史から姿を消しました。執権北条氏は同族の名越氏らを越後守護や越後国司に任じて抑えさせています。

 鎌倉幕府と北条氏が滅ぶと、足利尊氏は母方の従兄弟である上杉憲顕を関東執事(関東管領)に任じて東国を統治させ、越後守護職も授けました。ただ憲顕は尊氏の子を鎌倉殿(鎌倉公方)として輔佐する役目があるため、重臣の長尾氏を越後守護代に任じて治めさせました。長尾氏は相模の坂東平氏の一派で鎌倉時代に没落していましたが、これにより勢力を盛り返し、上杉氏を支える関東・越後の名族として東国に重きをなすに至りました。

 長尾氏のうち本家は上杉氏家宰として上野守護代を兼ね、傍流の景恒の子孫が越後守護代を世襲します。これも景恒の子らの代に上田・三条・古志の各長尾家に分裂し、三条長尾家が守護代職を世襲して越後府中(上越市)に居住しました。長尾景虎はこの三条長尾家の出身です。また室町時代後期には越後守護の上杉家(関東管領上杉氏の分家)と長尾氏が対立するようになり、16世紀半ばに越後守護家は断絶します。

 長尾家の家督を相続した景虎は、室町幕府より越後守護代行として国主の地位を認められます。まもなく関東管領上杉氏が後北条氏に追われて越後へ逃げ込むと、景虎はこれを支持して後北条氏・武田氏と対立し、上野や信濃を巡って激しい戦いを繰り広げます。また上洛して幕府や朝廷より支持を取り付け、上杉家の家督と関東管領の地位を正式に継承し、名を上杉政虎(のち輝虎、出家して不識庵謙信)と改めます。後北条氏と武田氏は駿河の今川氏と結んで対抗しますが、今川義元が桶狭間で織田信長に討ち取られて勢力を失い、好機とみた上杉勢は関東への侵攻を繰り返します。

 上杉家の領土は出羽庄内、北関東・北信濃、越中にまで拡大しましたが、この間に織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、ついで義昭を追放して畿内を制圧、事実上の天下人となりました。謙信は信長を倒すべく上洛を目指しますが病没し、甥の景勝が跡を継ぎますが反乱が相次ぎ、信長は越中へ柴田勝家らを派遣して上杉家を攻めさせます。景勝は宿敵の武田氏・後北条氏と結んで対抗したものの、武田氏は信長にたちまち滅ぼされてしまいました。

 幸い直後の本能寺の変で信長は倒れ、景勝は明智光秀を討って織田家中で勢力を伸ばした羽柴秀吉とよしみを通じます。これが功を奏して景勝は謙信以来の旧領をおおむね確保し、越中や北関東は失ったものの越後・佐渡の2国、信濃の川中島4郡、出羽庄内3郡を合わせた91万石余を安堵されました。また佐渡から産出する大量の金銀は秀吉政権の財政を支え、全大名の運上金のうち6割近くを景勝が賄ったとすらいいます。景勝は徳川家康、毛利輝元らと並ぶ秀吉政権の大老となり、従三位・中納言に任ぜられました。

 ところが慶長3年(1598年)正月、秀吉は景勝に会津等120万石への転封を命じます。30万石の加増とはいえ父祖伝来の越後は東蒲原郡以外を失い、佐渡と出羽庄内は保ったものの北信濃も失い、関東の徳川家康、出羽の最上義光や陸奥の伊達政宗らを牽制・監視する役目を背負わされたのです。代わって越後には堀秀治とその一族らが入りました。同年8月秀吉が薨去し、家康が秀頼の後見人となりますが、景勝は家康と対立して2年後に征伐を受け、上杉家は残されたものの出羽米沢等30万石に減転封されます。

堀家騒動

 上杉景勝に代わって越後国主となった堀秀治は、信長・秀吉に仕えて越前北ノ庄18万石を授かった名将・堀秀政の息子です。秀政は小田原攻めの際に陣中で病没しましたが、秀治は父の領国と家督を継承し、24歳の時に越後へ加増転封されました。秀政の従兄弟で家老の堀直政がこれを輔佐し、長尾氏および上杉氏の居城であった春日山城(上越市春日山町)に秀治を、中越の蔵王堂城(長岡市西蔵王)に秀治の弟・親良を配し、三条城(三条市)に直政(城代は嫡男の直清)、坂戸城(南魚沼市)に直政の次男・直寄を封じ、下越の新発田城(新発田市)に溝口秀勝、本庄城(村上市)に村上義明が入って堀家の与力(寄騎)となりました。石高は合計45万石ですが、秀治の領国は30万石で、実際に裁量が及ぶのは上越地方の10万石程度でした。

 慶長5年(1600年)、徳川家康は諸大名に会津討伐を命じて畿内から関東へ向かいますが、西国では石田三成・毛利輝元らが大坂城の豊臣秀頼を奉じて反家康の兵を挙げ、諸大名は動揺しました。堀秀治らは直政らと相談して家康に味方したものの、景勝の家臣・直江兼続は越後に残る親上杉氏派の在地勢力を煽動して反乱を起こさせます(上杉遺民一揆)。長年越後を治めた上杉氏を慕う者はなお多く、また秀治らは検地を行って重税を課したため、在地勢力から嫌われていました。秀治らはこの反乱の鎮圧に手を焼き、越後から会津への出兵は不可能となりましたが、景勝らも出羽で最上義光・伊達政宗らに阻まれ、越後への出兵は叶いませんでした。

 戦後、秀治は家康から領国を安堵されますが、慶長11年(1606年)31歳で急死し、嫡男の忠俊が10歳で跡を継ぎます。家老の直政は引き続き政治の実権を握り、翌年春日山城から海沿いの福島城に移りますが、慶長13年(1608年)末に62歳で没します。直政の子の直次(直清)と直寄は幼少の忠俊の執政の座を巡って対立し、慶長15年(1610年)には両者が駿府に呼び出され、家康・秀忠らの前で論戦を行わされるに至ります。最終的に忠俊は「大国を治める器ではない」として改易され、直清ともども所領を没収されて陸奥磐城平と出羽山形に配流されます。直寄も1万石を削られて信濃飯山4万石に減転封され、越後から堀一族は排除されました。

松平忠輝

 代わって越後に封じられたのは、家康の6男で18歳の松平忠輝です。母の身分が低いため庶子とされましたが、伊達政宗の娘・五郎八姫と政略結婚しており、慶長8年(1603年)より信濃国川中島4郡14万石を領していました。堀忠俊の領していた30万石を足して45万石、与力の村上家・溝口家を加えれば60-70万石の大大名です。家康は松平重勝を附家老に指名して輔佐させ、彼を三条城主として2万石を与えました。

 忠輝は堀氏が築いた福島城に入りますが、海が近すぎることもあって南に移り、高田城を造営しました。これは上越平野を流れる河川を堀とした平城で、西の加賀前田家を牽制するために忠輝の義父・伊達政宗ら13家の諸大名が幕府の命令により築城しました(天下普請)。しかし慶長20年(1615年)大坂夏の陣において軍法違反などの不始末があり、翌元和元年(1616年)に家康が薨去すると、兄の秀忠から改易を命じられます。これは慶長8年から忠輝の附家老であった大久保長安に絡んでのことともいいます。なおこれ以後は高田城が領主の居城となったため、近世の上越地方(高田平野など)を治めた領主家を「高田藩」と呼称します。

松平光長

 忠輝改易後、高田には上州高崎から酒井家次が10万石で入りますが2年後に没し、子の忠勝も相続の翌年に信州松代(川中島)へ国替えされ、入れ替わりに松代藩主であった松平忠昌が25万石で入ります。彼は越前北ノ庄藩主結城秀康の次男で、兄の忠直は慶長12年(1607年)より父の領国と家督を継いでいましたが、元和9年(1623年)に忠直が不行跡のため改易され、忠昌が越前に戻って跡を継ぐこととなりました。

 幕府は越前松平家との協議の末、忠直の嫡男で8歳の仙千代を高田藩主とし、26万石を与えることとします。彼の母・勝姫は徳川秀忠の娘で、時の将軍家光は仙千代を元服させ、偏諱を授けて光長と名乗らせました。これより光長は57年にわたって在任し、従三位・越後守に任じられ、越後・信濃の旗頭として諸大名を与力とすることとなりましたが、実際の政務は家老たちにゆだねられました。筆頭家老の小栗重勝・正重父子は高田城代、次席家老の荻田長繁・勝定父子(もと上杉景勝の家臣)は糸魚川城代をつとめ、各々が1万7000石と1万5000石の領地を預かって藩政をつかさどります。

越後騒動

 光長入国から40余年後の寛文5年(1666年)2月、越後高田を震源とする強い地震が発生します。前日より積もった雪の重みもあって高田城本丸をはじめ多数の家屋が倒壊し1500名が死に、家中では男女あわせて120名が死亡、家老の小栗正重と荻田勝定も圧死する惨事となりました。

 小栗正重の跡を継いで筆頭家老となった正矩は、幕府から5万両を借り受けて城下町の復興と区画整理にあてます。また藩士の禄を旧来の地方じかた知行(所領と百姓を授けて統治させる)から蔵米知行(所領の代わりに米を給与として与える)に切り替えて藩の直轄領を増やし、領内を流れる関川を浚渫して河口部の直江津港(今町湊)を整備し、江戸の豪商・川村瑞賢を招いて西廻航路・北前船の寄港地としました。さらに用水路を開削して新田開発を行い、商品作物として煙草の栽培を奨励し、魚沼の上田銀山を開くなどして財政改善につとめ、高田藩を大いに潤しました。正矩は光長の異母妹を妻として並ぶものなき権勢を持ちましたが、蔵米制への移行は多くの藩士にとって減収となったため、恨みと妬みを買うことになります。

 延宝2年(1674年)、光長の嫡男・綱賢が跡継ぎを持たぬまま42歳で逝去します。光長には他に男子がおらず、重臣たちとの協議の末、御連枝(分家傍流)のうち松平忠直の孫にあたる15歳の永見万徳丸が選ばれます。万徳丸は将軍家綱から偏諱を賜って元服し、綱国と名乗りました。

 これに対し、次席家老の荻田本繁(勝定の子)らは「小栗は自分の子・大六を跡継ぎにしようと企てている」と吹聴し、小栗の隠居を要求しました。俸禄を減らされた藩士らや、後継ぎ候補だった永見長良(綱国の叔父)もこれに同調して大規模な署名運動を行い、光長はやむなく小栗正矩に隠居を命じます。正矩は子の大六に家督を譲りますが、荻田らはネガティブ・キャンペーンをやめず小栗の屋敷に押し寄せて改革中止を訴え、光長は幕府大老の酒井忠清に裁定を願い出る羽目になります。調査の結果、荻田・長良ら「お為派」と称する反小栗派に非があるとされ、流言飛語で人心を惑わしたとして大名家へのお預けとする処分が下されました。

 ところが延宝8年(1680年)に将軍家綱が薨去して綱吉が将軍になると、酒井忠清は失脚し、越後騒動の再調査が行われます。綱吉は小栗正矩・大六父子に切腹を命じ、その一派を遠島などの厳しい処分にする一方、荻田・長良らも八丈島へ配流され、藩主・光長までもが官位剥奪のうえ改易とされてしまいます(のち養子が美作津山藩主に)。関係各位にも厳しい処分が下され、綱吉は強い権威と権力を天下に示すこととなりました。

 上田銀山は近隣の会津藩領で発見された銀山とともに幕府直轄領となり、川村瑞賢が山支配を行いました。豪雪地帯ゆえ入山は旧暦4月から10月までの半年間に限られましたが、最盛期には2万5000人が暮らす鉱山町として栄え、年間1000貫余(4000kg)もの銀が産出されたといいます。その後も中断を挟みつつ幕末まで存続し、鉛の採掘も行われました。

転封懲罰

 旧高田藩領は幕府の直轄領とされ、検地が行われたのち、近隣の諸大名が1年交代で城番をつとめるよう命じられます。しかし責任ある統治は行われず領内は荒廃し、貞享2年(1685年)末に前小田原藩主の稲葉正往が10万3000石で入って高田藩を再興しました。前年に親戚の稲葉正休が大老の堀田正俊を暗殺した事件に連座しての懲罰処分ともされますが、正往は荒廃した高田の城下町を区画整理して再建し、新田開発も行っています。15年の後、正往は老中として幕政に復帰し、下総佐倉藩に転封されました。

 代わって高田藩主となったのは、やはり綱吉の不興を買った佐倉藩主戸田忠真です。石高は6万7000石に減らされたため財政は厳しく、藩政は消極的なものとなりました。宝永6年(1709年)に綱吉が薨去し、権勢を振るっていた柳沢吉保も失脚すると、忠真は許されて下野宇都宮藩に転封されます。

 代わって高田に移されたのは、伊勢桑名藩主の松平定重(久松松平家)です。彼は53年の長きにわたり桑名藩を治めましたが、藩財政が極度に悪化しており、財政改革を野村増右衛門という男に任せました。彼の改革により藩財政は好転しますが、藩士の給与を半減したり領内に重税を課したりしたため恨みを買い、家老らが署名を集め定重に訴状を提出します(野村騒動)。定重は増右衛門とその一族郎党を処刑しますが、幕府からやり過ぎと咎められて越後高田藩へ転封されたのです。石高は11万3000石と桑名藩と同じとはいえ、温暖な伊勢から寒冷な越後への国替えは実質懲罰に等しく、落胆した定重はまもなく息子の定逵さだみちに跡目を譲って隠居しました。

 定逵の子・定輝の時、享保7年(1722年)には高田藩領に隣接する越後頸城郡の幕府領で百姓一揆が勃発します(頸城騒動)。これは同年に幕府が発布した質流地禁止令を受け、貧困農民たちが豪農や豪商から負債返納の代わりに奪われた質流れ地を取り戻すために実力行使を行ったものです。

 騒動が高田藩領に波及することを恐れた定輝は、藩領内に逃げ込んだ百姓を捕縛させました。また幕府は当該幕府領を高田藩ほか周辺大名の預け地として鎮圧を命じ、定輝は藩兵を動員して暴徒を捕縛し、厳罰に処します。騒動が収まった享保10年(1725年)に定輝は早世し、跡を継いだ叔父の定儀も2年後に没したため養嗣子・定賢が相続しますが、彼は寛保元年(1741年)に陸奥白河へ転封され、30年続いた久松松平家の統治は終焉しました。

 続いて高田に移されたのは、播州姫路藩主の榊原政岑まさみねです。彼は譜代の名門・榊原宗家の当主であり(旗本からの養嗣子ですが)、15万石の大藩の大名でしたが、将軍吉宗が発布した倹約令に逆らい、吉原遊郭で派手な遊興に耽りました。寛保元年には花魁の高尾太夫を2500両で身請けしたうえ、祝宴として吉原を3000両で借り切って豪遊し、湯水のようにカネをばらまきながら国元へ連れ帰る有様でした。激怒した吉宗は政岑に隠居を命じ、家督を嫡男の政純に継がせて越後高田へ転封し、政岑も高田で蟄居させたのです。高尾太夫もこれに同行し、後に「越後高尾」と呼ばれました。

 石高は15万石と姫路時代と同じでしたが、うち8万4000石は陸奥国の飛び地で(代わりに姫路に移った白河藩主から相続)、雪深い越後への転封はやはり懲罰でした。高田藩領であった刈羽郡柏崎等も久松松平家に飛び地領として持っていかれてしまいます。政岑は幼い政純の後見人として倹約と財政再建に着手しますが2年後に病没し、政純も10歳で病没したため、榊原家は政純の異母弟の富次郎を政純と同一人物ということにして跡を継がせます。幸いに富次郎は長生きし、寛政元年(1789年)に隠居するまで半世紀あまり在任し、隠居後は右京太夫政永と名乗って18年間の老後を送りました。

 富次郎の孫にあたる政令まさのりは文化7年(1810年)に35歳で家督を相続し、疲弊した藩財政の立て直しを行います。幸運にも陸奥国の飛び地のうち5万石は藩領に隣接する幕府領と交換することとなり、高田藩領は事実上拡大して財政に余裕が生まれました。政令はこれを活用して藩政改革に着手し、藩士の邸宅の庭に果樹を植えさせるなど殖産興業を推進し、領内の赤倉山の温泉を掘削して温泉奉行を設置し、湯銭を上納させました。榊原家による高田統治は廃藩置県まで6代140年続き、高田藩領はようやく安定した藩主家による比較的穏当な支配を受けることとなったのです。

◆上◆

◆越◆

 越後一国を覆うほどであった高田藩は、相次ぐ改易によって縮小され、最終的には上越地方を治める程度になりました。越後には他にも複数の藩が設置されていましたから、次回はそれらを見ていきましょう。

【続く】

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