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【つの版】度量衡比較・貨幣178

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。陸奥国に続いて出羽国の久保田藩、南出羽の庄内藩と見てきましたから、残る南出羽の諸藩について見てみましょう。

◆山◆

◆形◆


羽州街道

羽州街道

 出羽の沿岸部は海路と浜街道(北陸道/北国街道の延長)で繋がれていましたが、内陸部は羽州街道によって繋がれていました。これは奥州街道の陸奥国伊達郡桑折こおり宿から分岐し、奥羽山脈を小坂峠金山峠で抜けて出羽国上山かみのやまに入り、山形盆地・新庄盆地・横手盆地を北上して雄物川沿いに秋田へ向かい、大館を経て弘前へ向かう道です。置賜地方は板谷街道で福島と、会津街道で会津と繋がっていたため、羽州街道とは直接繋がっていません(庄内ともども最上川を介しての交通はありましたが)。

 新庄藩は、元和8年(1622年)に最上氏が改易された後、最上郡全域と村山郡の一部にあたる6万石を分けて立藩されました。藩主の戸沢氏は鎌倉時代以来出羽国北部の角館に割拠した名門で、のち家康により常陸国松岡へ転封されていました。当初は最上氏の家臣・鮭延氏が築いた真室城に入りましたが、狭隘な地の山城であるため領国経営には不向きで、沼田の地にあった小さな城を改築して新庄城とし遷りました。入部から80年間は平和と安定の時代が続き、領内は発展して人口は6万に達しましたが、その後は放漫経営と打ち続く飢饉で財政が破綻し、人口は4万5000人に減少します。

 山形藩は最上氏改易後に鳥居忠政が入って22万石(のち24万石)で立藩されましたが、寛永13年(1636年)に2代14年で断絶し、保科正之が20万石で入ります。彼が7年後に会津に転封されると、結城秀康の5男・松平直基が15万石で入りますが4年で姫路に転封され、次いで松平忠弘が20年間統治して宇都宮に転封となります。以後は譜代大名の実質的な左遷地となり、石高も10万石に格下げされ、18世紀中頃には6万石に減っています。このため歴代藩主は統制や改革を行う余裕がなく、自由に経済が発展しました。酒田からは最上川を介して近江や大坂の商人が入り、商品作物として紅花栽培を導入し、酒田港から積み出して富み栄えました。

 削られた石高ぶんの領地は幕府が没収しました。寛永13年(1636年)には尾花沢領2万石が幕府直轄領となり、鳥居氏の預地であった寒河江領1.9万石、谷地領1.5万石も収公されます。幕府は代官を派遣して領内の延沢銀山等を管理させ、万治元年(1658年)に尾花沢に代官陣屋を置きました。寛文11年(1671年)には東根が幕府直轄領とされます。酒田はこれらの幕府領で生産される蔵米などを大坂や江戸へ送るための港として栄えたのです。

 羽州街道の要衝である上山には、最上氏改易後に松平重忠が4万石で入り上山藩を立藩しました。彼が4年後に転封されると、会津藩主の弟の蒲生忠知が1年間、山形藩主の鳥居忠政が1年間治めた後、寛永5年(1628年)から元禄5年(1692年)まで2代64年に渡って土岐氏が治めます。のち金森頼旹が5年間入り、藤井松平家の信通が3万石で入って以後10代170年同家が統治します。しかし小藩で財政は常に厳しく飢饉や一揆が頻発し、天明6年(1786年)には豊後より大学者の三浦梅園を招聘して藩政改革を任せますが、彼は3年後に没し改革は頓挫しました。

置賜米沢

 出羽国南部の置賜おきたま郡は、古くは優𡺸雲うきたまと表記され、蝦夷の居住する領域でした。和銅5年(712年)に最上郡ともども陸奥国から出羽国の管轄に移され、12世紀頃には摂関家の荘園(成島・屋代・北条)が設置されます。奥州藤原氏が滅んだ後、大江広元が置賜郡の地頭に任命され、郡衙の置かれた長井郷(米沢付近)に代官が送り込まれました。このため置賜郡全体が「長井荘」とも呼ばれるようになり、広元の次男・時広の子孫が代々相続しました。長井氏は御家人中の名門として執権北条氏を支えましたが、幕府滅亡後は足利尊氏に仕えて所領を安堵されています。

 しかし南北朝時代後期の康暦2年(1380年)から陸奥国伊達郡を本拠とする伊達宗遠政宗父子の侵略を受け、至徳2年(1385年)に長井氏は滅ぼされます。伊達氏は以後200年あまりに渡って置賜郡/長井郡を領有し、室町幕府と接近して奥羽にまたがる領国を築き上げます。戦国時代には伊達晴宗が本拠地を伊達郡の桑折西山城から当地の米沢城に移し、彼の孫・政宗もここで誕生しました。ところが天正19年(1591年)、豊臣秀吉は伊達政宗に国替えを命じて置賜郡・伊達郡などを没収、仙台藩領となる地域へ移します。

 置賜郡は会津藩主・蒲生氏郷の領地となり、重臣の蒲生郷安が7万石の城主として入りますが、慶長2年(1597年)に氏郷の子・秀行が宇都宮へ転封されると、翌年越後の上杉景勝が会津に120万石で移されます。彼は上杉謙信(長尾景虎)の養子で、関東管領たる山内上杉家の家督を継ぎ、越後・佐渡・信濃4郡・出羽庄内3郡にまたがる91万石余の領国に君臨する大大名でしたが、これにより越後の大部分(東蒲原郡以外)と信濃領を失います。

 景勝は重臣の直江兼続を米沢城に入れ、伊達政宗・最上義光らを牽制させました。しかしまもなく秀吉が没し、その子・秀頼を輔佐する徳川家康が天下の実権を掌握、慶長5年(1600年)には不穏な動きを見せた景勝を討伐に向かいます(会津征伐)。これに乗じて畿内・西国では毛利輝元・石田三成らが挙兵し、家康は義光・政宗らに景勝討伐を任せて引き返しました(慶長出羽合戦)。両軍の戦いは膠着しますが、石田三成らが関ケ原で敗れたことで勝敗は決し、景勝は家康に謝罪して和睦しました。

 慶長6年(1601年)8月、家康は上杉家の存続を許しますが、会津など90万石を没収し、出羽国置賜郡18万石と陸奥国伊達郡および信夫郡の12万石、合計30万石に減封しました。120万石が4分の1に減少したのです。しかし景勝は越後以来上杉家に仕えてきた家臣団を極力解雇せず、家中の財政は逼迫しました。直江兼続は米沢城と城下町の拡張を行ったものの、町に収まりきらない下級武士(郷士)は近郊の原野に住まう羽目となります。景勝は大坂の陣では徳川方につき、元和8年の最上氏改易を見届けた翌年に没しました。

領地半減

 景勝の没後は嫡男の定勝、その子の綱勝が跡を継ぎ、質素倹約を旨として統治体制を確立します。しかし綱勝が寛文4年(1664年)に26歳で急死し、世継ぎもいなかったため御家断絶の危機となります。この時、綱勝の正室の父で会津藩主の保科正之が仲介し、綱勝の妹が吉良義央よしひさ(後に赤穂浪士に殺された彼です)との間に儲けていた三之助という幼児を末期養子(上杉綱憲)とすることで存続を許されます。ただし代償として信夫郡と伊達郡を没収され、領地は出羽国置賜郡15万石に半減されました。

 吉良氏は足利氏の分家にあたる名門武家で、足利氏の姻族であった上杉氏とは家格の上ではほぼ同格です。上杉氏も家臣だった長尾氏が家督を継いでいますし、母方からでも血を引いていればいいようです。

 さらに吉良家への財政援助や建設事業、幕府からの普請手伝い命令、洪水や飢饉も重なって、米沢藩はますます窮乏します。綱憲の子・吉憲の代には参勤交代の費用にも事欠き、藩士から銭を強制徴収して用立てる有り様で、藩士らは俸禄を半減(半知借り上げ)され、家財を売り内職を行って生活費を稼がねばなりませんでした。

 吉憲の嫡男・宗憲は22歳、次男・宗房は29歳と短命で、跡を継いだ四男の重定は政治に興味がなく、側近の清野秀佑に政治を委ねました。彼は宗憲の代から26年間藩政の実権を握りますが、宝暦3-4年(1753-54年)に幕府から寛永寺再建の普請手伝いを命じられ、翌年からは宝暦の飢饉が直撃します。これによる被害は3年間で25万石におよび、領民10万人のうち1万人が死ぬか逃散し、農民や郷士は徒党を組んで城下の豪商を襲撃する有り様でした。藩は豪商に米を出させて粥の炊き出しを行いますが、藩財政は極度に窮乏し、上杉家伝来の宝物を質に入れて金を融通してもらうまでになります。

 宝暦の飢饉の後に清野が辞職すると、小姓頭の利真としざねが政治を任されます。森は行財政改革を積極的に行い、財政顧問として商人を活用しますが、藩士や領民に重税を課して私腹を肥やし同族や自派の者を高位につけるなど専権を振るったため反発を買い、宝暦13年(1763年)に江戸家老の竹俣たけまた当綱まさつなによって暗殺されています。

 竹俣は米沢藩の上士で知行1000石を食みましたが、下級武士出身の森と対立して一時は知行のうち300石を削られました。そのため反森派の急先鋒となり、宝暦10年(1760年)には重定に幕府への藩領返上を進言しています。これは取り下げられたものの、宝暦11年(1761年)に江戸家老に昇進し、翌年知行300石を加増され1000石に復しています。そして宝暦13年、江戸から米沢に下って会談所に森を呼び出すと殺害し、その一派を粛清したのです。

 江戸家老の色部照長、奉行の芋川正令千坂高敦、平番総筆頭の莅戸のぞき善政よしまさらはこれを支持し、江戸藩邸にいた重定は事後報告を受けてやむなく承認、竹俣による藩政改革が開始されます。まず森が登用した中下級の武士や商人らは藩政から排除され、年功序列と古来のしきたりに基づく身分格式の立て直しが行われます。森が売却した京都藩邸も買い戻され、古くから米沢藩の融資先であった江戸の豪商・三谷三九郎との関係も修復されました。

上杉治憲

 明和4年(1767年)4月、48歳の上杉重定は、多病を理由に17歳の養嗣子治憲はるのりに家督を譲って隠居します。彼は重定の祖父・綱憲の娘である豊姫(瑞耀院)の孫にあたり、彼女が筑前国秋月藩主・黒田長貞に嫁いで産んだ娘の春姫を母とし、父は日向国高鍋藩主・秋月種美です。

 秋月氏は平安時代から筑前国秋月に割拠した武家で、戦国時代の種実の時に大友氏と島津氏の争いに乗じて勢力を広げ、筑前・豊前・筑後にまたがる36万石もの領土を獲得しました。しかし豊臣秀吉の九州征伐に逆らったため日向国串間3万石に減転封されます。筑前国を領した黒田家の福岡藩は秋月に支藩を立てましたが、秋月種美はその秋月藩主の娘を娶ったのです。

 彼は寛延4年(1751年)、種美の次男・松三郎として江戸藩邸で生まれ、母が早世したため祖母に引き取られ養育されます。そして祖母の推薦で宝暦10年(1760年)に重定の養嗣子となり、明和3年(1766年)に元服し勝興、将軍・家治の偏諱を授かり治憲と改名しました。重定にはこの頃に実子が生まれていますが幼少であったため、治憲は問題なく家督を継ぎます。

 治憲は竹俣当綱・莅戸善政に引き続き藩政改革を任せますが、芋川正令は改革方針を巡って竹俣らと対立し、明和5年(1768年)に隠居します。また彼の息子の延親は奉行の千坂高敦・色部照長、江戸家老の須田満主、侍頭の長尾景明・清野祐秀・平林正在ら6人と手を結んで改革に反対し、安永2年(1773年)に竹俣らの罷免を治憲に強訴しました(七家騒動)。治憲はこれを退けて改革反対派を粛清し、藩政改革を続行します。

 米沢藩の借財は20万両を超えていましたが、安永4年(1775年)に米沢藩の蔵元(御用商人)である三谷三九郎は債権のうち1万9000両を放棄し、1万1000両を年5分(1分は1両の1/4ゆえ1両1分)の低金利で借用することを了承します。これにより資金を確保した竹俣らは、財源回復と農村復興を目的として漆・桑(養蚕用)・楮(製紙用)各100万本を領内に植樹する計画を発表しました。また離散した農民の還住を推進し、新田・用水を開発し、森利真が設置した郡奉行を復活させて地方行政機構を再整備します。

 治憲は綱憲が設置した学問所を安永5年(1776年)に再興して藩校とし、儒学のみならず蘭学も積極的に導入して学問を盛んとしました。また質素倹約を率先して行い、着衣は全て木綿とし、食事は一汁一菜、酒も飲まない清貧ぶりで、生活費は従来の藩主の1/7に減らしていました。しかし隠居した重定は寛政10年(1798年)に没するまで引き続き華美な生活を好み、隠居料を趣味の能楽につぎこんで藩財政を悪化させたといいます。

弗為胡成

 竹俣当綱の改革は20年近く続きましたが、手法が強引であったことから反発も多く、反対派から彼が排除した森利真と同類であると批判が集まり、天明2年(1782年)に不行跡を咎められて失脚します。翌年には莅戸善政も辞職・隠居し、天明の大飢饉が襲来しました。米沢藩は飢饉に対し備蓄米を放出し、越後と酒田から1万1605俵の米を買い入れて領民を救い、麦作を奨励するなどしましたが、損害は11万石・4700人弱に達し、改革は頓挫します。

 天明5年(1785年)、34歳の治憲は家督を重定の実子治広に譲り隠居します。この時「国家は先祖から子孫へ伝えられるもので、私物ではない」「人民は国家に属するもので、私物ではない」「君主は国家人民のためにあるものであり、国家人民が君主のためにあるのではない」と申し渡し、家訓としました。また21歳の治広の後見人として引き続き政務を執り、自らの実子・顕孝を治広の養嗣子と定め、彼に有名な「為せば成る」の歌を伝えました。

 全文を「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」といい、武田信玄や平田篤胤も類似した歌を詠んでいます。原典はチャイナの古典『書経』太甲下篇にあり、殷の宰相・伊尹が主君の太甲に告げたとされる文の中に「はからずんばなんぞ獲ん、為さずんば胡ぞ成らん」と見えます。要は後継者を激励し、諦めずに藩政改革を続行する意志を家臣らに示したわけです。しかし顕孝は寛政6年(1794年)に疱瘡で病没し、治広の甥にあたる宮松(斉定)が後継者とされました。

 天明年間には志賀祐親が財政再建を主導しますが失敗したため、寛政3年(1791年)治憲は竹俣当綱を隠居のまま赦免し、莅戸善政を召し出して中老に任じ、再び藩政改革を命じます(寛三の改革)。莅戸は酒田の豪商・本間光丘に資金を借り、彼の助言を受けて財政再建を推進しました。丸山蔚明神保綱忠黒井忠寄らも登用されて協力しますが、神保綱忠は莅戸らと改革方針を巡って対立し、竹俣の復帰を進言するなどしています。

 享和2年(1802年)51歳の治憲は総髪となり、鷹山ようざんと号します。翌年莅戸善政が逝去すると子の政以が藩政改革を引き継ぎますが、神保綱忠・服部正相ら「転法派」は彼と対立し、文化4年(1807年)に鷹山の介入により綱忠らは退けられます。文化9年(1812年)に治広が隠居すると斉定が跡を継ぎ、文化13年(1816年)に政以が没すると大石綱豊が政務を引き継ぎ、支出削減と産業振興によって藩財政は着実に改善されていきました。

 寛政6-8年(1794-96年)には、黒井忠寄が普請奉行となって米沢北部の北条郷に農業用水路「黒井堰」を開きました。次いで西の飯豊山にトンネルを掘って用水路を通す「飯豊の穴堰」を計画しますが、寛政11年(1799年)の着工の同年に急死します。彼の計画は莅戸善政・政以、大石綱豊に引き継がれ、文政元年(1818年)に完成しました。この2つの用水路により、旱魃の多かった地域でも新田開発が可能になり、多くの収穫がもたらされました。

 文政5年(1822年)、上杉鷹山は72歳で世を去ります。その翌年に米沢藩の借財は完済され、天保の飢饉に際しても藩政改革が功を奏して餓死者を出しませんでした。東北の雄藩として復活した米沢藩は、以後幕末まで繁栄を保つこととなります。

◆鷹◆

◆山◆

【続く】

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