【つの版】度量衡比較・貨幣177
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。前回は北出羽の久保田藩について見ましたから、今回は南出羽の諸藩について見てみましょう。
◆最◆
◆上◆
最上義光

出羽南部=現在の山形県は4つの地方に大別され、北西の庄内地方(庄内平野)に庄内藩(13.8万石)、北東の最上地方(新庄盆地)に新庄藩(6万石)、東部の村山地方(山形盆地)に山形藩(57万石→24万石→15万石→10万石→5万石と縮小)と上山藩(4万石→3万石)、南東の置賜地方(米沢盆地)に米沢藩(30万石→15万石)がありました。他にも支藩や小藩があり、幕府直轄領も多く存在しますが、これには歴史的な事情があります。
南北朝時代、足利将軍家は自らの分家である斯波氏の一族・大崎氏を奥州管領(奥州探題)に任じ、陸奥国府に派遣しました。その庶流は出羽国最上郡山形(太閤検地以前は山形盆地≒最上郡)に入って最上氏を称し、出羽按察使(羽州探題)の職を世襲します。戦国時代には奥州伊達郡から出羽置賜郡に進出してきた伊達氏と争い弱体化しますが、最上義光は最上郡の国人衆を平定して勢力を広げ、伊達政宗や上杉景勝とも領地を巡って争いました。しかし景勝には庄内地方を占領されています。
のち秀吉に服属して本領を安堵され、娘の駒姫を秀吉の甥・秀次の側室としますが、秀次が秀吉に処刑されると駒姫も処刑され、彼女の母も悲嘆のあまり亡くなります。義光は秀吉から距離を置いて家康に接近し、慶長5年(1600年)の会津征伐・出羽合戦では家康に味方し景勝と戦いました。これにより戦後は庄内を含む南出羽57万石の大大名とされ、山形城・酒田港・鶴ヶ岡城・最上川を整備し善政につとめました。景勝は越後・佐渡・会津・庄内等を失い、120万石の大大名から出羽米沢等30万石に減転封されます。
しかし嫡男の義康は義光と不和となり、何者かに暗殺されました。義光の没後は次男の家親が跡を継ぎますが急死し、その子・家信は幼少で家臣の支持を得られず、義光の4男・光茂が家臣団に擁立されようとします。事態を重く見た幕府は調停を図りますが、家臣団は家信を藩主とすることを拒んだため、元和8年(1622年)に最上家山形藩は改易となり、家信は義俊と改名して近江・三河等1万石に減転封されます。その子の義智は三河等の領地5000石を削られて大名から旗本に転落し、幕末まで存続しました。
最上家の旧領は四分割され、庄内地方には徳川家譜代の酒井氏が入部して鶴ヶ岡城を居城とし、庄内藩を開きました。最上郡には出羽仙北の角館から常陸松岡に転封されていた戸沢氏が入部して新庄藩を開き、山形城には徳川家譜代の鳥居氏が入って山形藩を開き、上山城には能見松平氏が入部して上山藩を開いたのです。このうち山形藩・上山藩は領主が頻繁に代わり石高も削られましたが、庄内藩と新庄藩は入部時のまま幕末まで存続しました。
南出羽の諸藩は最上川によって繋がれ、河口には庄内平野と酒田港が存在します。それゆえ庄内は最も富み栄え、江戸時代には酒田が北前船・西廻り航路の起点となり、日本有数の商都となっていくことになります。
鶴岡酒田
庄内平野は、山形県を貫く最上川の河口部に広がり、日本海に向かって開けています。そのため古くから河川で内陸部と、海路で津軽・北陸・畿内・西国とつながり、交通の要衝として栄えました。奈良時代には出羽柵/城輪柵や出羽郡が設置され、のち最上川以南が出羽郡と田川郡、以北が飽海郡と分割されました。ただ出羽郡は中世に田川郡に吸収され、消滅しています。
平安時代には飽海郡に遊佐荘、田川郡の赤川流域に大泉荘という皇室の荘園が形成され、奥州藤原氏の滅亡後は鎌倉幕府によって武藤氏が地頭として送り込まれます。武藤氏は大泉氏と名乗り、次いで荘園の拠点とした大宝寺城(後の鶴ヶ岡城)から大宝寺氏と称しました。のち執権北条氏や上杉氏が大泉荘の地頭職につくとその代官となり、室町幕府とも結びつきを強め、足利義政から出羽守の官位や偏諱を授けられてもいます。この大宝寺氏の勢力範囲を「荘(庄)の内」すなわち庄内と呼ぶようになりました。
大宝寺氏は戦国時代には越後上杉氏と結んで最上氏に対抗しますが、奥州仕置の翌年に一揆煽動の罪で改易され、庄内は上杉景勝の所領となります。出羽合戦後に上杉景勝が減転封されると上述のように最上氏の所領となりますが、最上氏が改易されると酒井氏が入部し、庄内藩が成立しました。酒井氏は西三河の酒井郷を本貫地とし、松平氏・徳川家に累代仕えた譜代の重臣ですから、鳥居氏・能見松平氏ともども忠誠心を見込まれ、久保田藩や仙台藩を牽制する奥羽の要として送り込まれたのです。実際幕府は最上義光が酒田に整備した亀ヶ崎城(東禅寺城)の存続を庄内藩に許しています。
庄内藩領は表高13万8000石とされますが、酒井氏が元和9年に検地を行ったところ5万3000石を上回る増高が見込まれ、のち表高も加増されて14万石と定められました。さらに新田開発で実高は30万石におよび、酒田港を通じて大坂・江戸へ廻米を行い、富み栄えました。
酒田港は最上川河口に位置します。平安時代には河口南側の袖の浦(現・酒田市宮野浦)が貿易港として栄えましたが、永正18年(1521年)には河口北側の砂浜(砂潟)が開拓されて酒田の町となり、奥州藤原氏の家臣団の末裔を称する「酒田三十六人衆」が共和政を敷いて統治しました。江戸時代に西廻り航路が開かれるとその起点となります。最上川で運ばれる米や各地の特産物が北前船に積み込まれ、日本海を南下して北陸・山陰を巡り、瀬戸内・大坂・伊勢・江戸までが航路で繋がれました。酒田は西の堺と並び称される経済の拠点となったのです。井原西鶴の『日本永代蔵』には、酒田の鐙屋惣左衛門という裕福な廻船問屋が紹介されています。
しかし享保7年(1722年)から米価が下落し、庄内藩は前々年に発生した飢饉の影響もあって財政が傾きます。郡代の北楯助次郎は藩の予算を3割減(のち半減)とするなどの大規模な藩政改革を行い、藩財政を立て直しますが、元文4年(1739年)に日光東照宮の普請手伝いを命じられ、再び財政が傾き出します。翌年には将軍吉宗の上洛随行により出費を強いられ、寛延2年(1749年)に藩主・忠寄が老中に抜擢されるとその活動費も必要となり、酒田大火や宝暦の飢饉も続いて藩財政は危機的な状態に陥りました。
忠寄の孫・忠徳の代には借金が20数万両に膨らみ、江戸から本国へ帰還する費用すら捻出しかねる有り様となります。そこで家老・水野重誠の進言により本間光丘が登用され、庄内藩の財政再建を委ねられます。彼はどのような人物だったのでしょうか。
本間光丘
本間氏はもと相模国の武家で、鎌倉時代に佐渡守護代となり、上杉景勝に討伐されるまで300年佐渡に割拠しました。その分家が酒田に土着して町人となり、元禄2年(1689年)に初代の原光が酒田の本町に新潟屋を開業、染物・金物・小間物など手広く商売を行います。その子・久四郎光本の三男を古作(通称は久作、のち宗久)といい、享保9年(1724年)に生まれて江戸で見聞を広め、酒田で米相場の投機を行い数万両の利益を得ました。
光丘は古作の兄・庄五郎光寿の次男として享保17年末(1733年)に生まれました。幼名を久治、のち友治郎・久四郎といい、寛延3年(1750年)に18歳で播州姫路の奈良屋権兵衛のもとへ手代奉公に出され、商売を学びます。宝暦4年(1754年)に父が没し、酒田に帰郷して家督を相続しました。
間もなく発生した宝暦の飢饉に際しては米100俵を施して窮民を救い、宝暦8年(1758年)には酒田の西浜に防砂林を植える事業に着手します。また江戸藩邸の財政にも関わり、宝暦12年(1762年)には酒田の町年寄(町役人筆頭)に任じられ、宝暦14年/明和元年(1764年)には金1000両を藩に献じて御小姓頭支配となり、利子を城や藩主の菩提寺の修繕費に充てることを許されます。翌明和2年(1765年)には藩主・忠寄から紋服と金500疋を賜り、御目見得を許されました。翌年に忠寄が没し、忠徳が13歳で跡を継ぎます。
明和4年(1767年)、35歳の光丘は士分を授かって御小姓格となり、翌年には酒田・鶴岡両城普請掛を命じられ、貯籾(備荒貯蓄米)2万4000俵を献じ、500石30人扶持を給せられます。安永4年(1775年)、44歳で御家中勝手向取計に任じられ、本格的に藩財政の立て直しを任されると、光丘は借金の返済計画を立案・実行し、藩士や農民の借金を肩代わりして本間家の低利融資に借り換えさせます。また定期収入の見積もりを立て、江戸藩邸の支出を抑えるなど無駄な出費を省き、飢饉に備えて領内に計画的に備蓄米を貯えさせました。これにより藩財政は6年で持ち直し余剰金が出るまでになり、天明の大飢饉に際しても餓死者を出しませんでした。
この頃、古作改め本間宗久は江戸で酒田の米を売って大儲けし、諸大名にも金貸しを行うまでになり、光丘とも和解して新潟屋を繁盛させています。さらに新潟屋は得た利益で土地を購入して資産を増やし、三井家・住友家に劣らぬ大富豪となりました。光丘が先代から引き継いだ財産は現金1000両と田地350俵でしたが、彼一代で現金13万両、田地は1万6000俵に増え、さらに貸金5万4781両、銀5万貫に及んでいます。そのため当時は「酒田照る照る堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る」と唄われ、大名よりも裕福だとして「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」との唄が流行しました。
寛政6年(1794年)には米沢藩の中老・莅戸善政が酒田に光丘を尋ね、藩政改革のための資金を借入しました。大名家中への融資は「大名貸し」といって踏み倒されるリスクが高いものでしたが、光丘は融資の前に綿密な返済プランを立て、財政再建の助言(コンサルティング)を行っていたため、米沢藩の財政は立て直され、融資も返済されたといいます。こうした藩政改革のコンサルティングを行って成功した豪商には、他に山片蟠桃、草間直方、石田敬起らがいます。
寛政改革
天明8年(1788年)、庄内藩は駿河国の富士川・大井川・安倍川の改修工事を幕府から命じられますが、光丘は大坂の豪商から資金を借り入れて事を弁じました。また寛政4年(1792年)に北方の警備を命じられると、光丘は大砲10門を献上して海防にあてました。しかしこれにより寛政年間には再び藩財政が悪化し始め、10万両の借金を背負いこむことになります。
寛政の改革を主導する松平定信は「光丘が低金利融資で農民を借金漬けにし、土地を集積し私利を貪っている」と叱責し、水野重誠も失脚させます。定信の改革の主眼は、借金漬けで土地を失った農民を農地に返すことでしたから当然です。そこで庄内藩は竹内八郎右衛門を中心として改革を行い、貸付の返済を免除(徳政令)し、没落した農民に手当米と公有地を与えて農地に復帰させます。また豪農には備蓄米の提出を義務付け、飢饉時に農民を救う元手としました。これにより農村は再生し、税収も安定して藩財政は持ち直ることになります。享和元年(1800年)6月、これを見届けた本間光丘は70歳で生涯を終えました。
文化2年(1805年)に庄内藩主・酒井忠徳は隠居し、子の忠器が16歳で跡を継ぎます。文化6年(1809年)に竹内八郎右衛門が失脚すると、忠器は光丘の長男・光道を登用して財政を任せました。光道は文化元年(1804年)の酒田大火や震災に対して私財を投じて領民を助け、文化5年(1808年)には本間船を建造して蝦夷地との交易を行うなど活躍しており、文政8年(1825年)に隠居するまで庄内藩の財政を支えています。
◆酒◆
◆田◆
【続く】
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