【つの版】度量衡比較・貨幣174
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
ここまで江戸時代中期・後期の幕府の財政と江戸の庶民の懐具合について見てきましたが、この時代には各地の藩(大名の領地)でも様々な藩政改革が行われ、成功したり失敗したりしています。全てを列挙するのは難しいので、有名な例をかいつまんで見ていきましょう。
◆伊達◆
◆政宗◆
三百諸藩
もともと「藩」とは、土地の周囲にめぐらせ外敵の侵入を防ぐ「垣根」のことで、藩屏・藩籬とも呼ばれます。田に種を撒く(釆)ことを番(播)といい、草木が生い茂ることを蕃(繁)といい、濠(氵)に沿って張り巡らされた生け垣を藩というのです。詩経・左伝・漢書などに用例があり、王室・天子を護衛するため周囲に諸侯を封建することを「藩屏とする」と称し、その諸侯の領地を「藩国」と呼びました。唐代に地方に割拠した節度使を藩鎮といい、明清代に地方に割拠した皇族・功臣の領地もしばしば藩と呼ばれました(三藩など)。
日本史においては「江戸時代に1万石以上の領地を保有する大名が支配した領域とその支配機構」を「藩」と呼称します。これは儒者がチャイナの制度になぞらえて用いた雅称であって、明治時代以後に公称・歴史用語となりますが、江戸時代の大名は「名字+官途名」で呼ばれ、領地は「領分」、家来や支配機構は「家中」と呼ばれました。彼らは領地を徳川将軍家によって授けられて臣従・服属しているとされ、領内では一定の独立した自治権を持ち、独自の家臣団と領民を従え、小さな国家として機能しました。
同様の存在は神聖ローマ帝国を構成する領邦(テリトリウム)など世界各地に見られますが、江戸時代の諸藩は宗主たる徳川将軍への従属度が比較的高く、江戸城下に藩邸、大坂に蔵屋敷を構え、政治的にも経済的にも全国各地と繋がっていました。また家格によって序列がつけられ、中小の藩は幕府の意向次第で取り潰されたり転封されたりしますし、所領が各地に分散している藩も多くあります。大藩は分家をしばしば支藩として分立させ、本藩に従属させました。
藩主が所領において拠点とする場所には城や陣屋が置かれ、その周囲に城下町が形成されて武家や商人・職人が集住し、政治・経済的中心地として機能しました。令制国が60余国なのに対し、藩は300弱も存在したといいます(文久2年/1862年元旦時点で292)。明治時代の廃藩置県で整理統合され、都道府県や市町村に再編された後も、こうした藩の枠組みは有形無形に残され、現代にまで続いています。
買米仕法
蝦夷地の松前藩はさておき、広大な陸奥国(奥州)には19の藩が存在しました。最大は表高62万石余の仙台藩で、その領国は現在の宮城県全域と岩手県南部に相当します。次いで会津藩(23万石、福島県西部)、盛岡藩(10万石、岩手県中北部と青森県東部)、白河藩(10万石、福島県南部)、二本松藩(10万石、福島県中部)、棚倉藩(5万石、福島県南部)、弘前藩(4.6万石、青森県西部)等と続きます。
仙台藩は鎌倉時代初期から続く名門武家・伊達氏の領国です。伊達氏の本貫地は陸奥国伊達郡にあり、300年に渡り同郡の梁川城(現・福島県伊達市梁川町)に本拠を置きました。天文元年(1532年)に陸奥守護の伊達稙宗が同郡の桑折西山城に移り、天文17年(1548年)に稙宗の子・晴宗が出羽国置賜郡(山形県南部)の米沢城に移り、子の輝宗、孫の政宗に至ります。
伊達政宗は周辺勢力を屈服させて会津等を支配下に収めますが、豊臣秀吉により減転封されて伊達郡や置賜郡を失い、葛西・大崎両氏の旧領に移ることとなります。当初は大崎氏の居城であった岩手山城を居城とし、関ヶ原の合戦ののち宮城郡に仙台城を築いて移ったため、歴史上は以後の伊達氏/家の領国と支配組織を「仙台藩」と呼称します。
伊達家は表高62万石余(陸奥60万石+近江1万石+常陸1万石)を保ち、実質上の国持大名として外様ながら破格の待遇を受けました。政宗の子忠宗は徳川将軍家から正室を迎え、松平姓を賜って「松平陸奥守」と称しました。また領内の検地や新田開発を盛んに行い、余剰米を買い上げて大消費地である江戸へ海路で送る買米制を整備しています。
奥州の備蓄米(蔵米)を江戸へ送ることは政宗の時代から臨時で行われましたが、忠宗はこれを恒常的な制度(仕法)としました。まず元金を春に農民に無利子で貸付けて耕作させ、収穫期には米の勝手な売買を禁止し、元金に相応する米を独占的に買い上げます。これを領内各地の蔵に納めたのち川船で北上川河口の石巻港に集め、藩の御用船に積み、陸沿いに南下して江戸へ送ったのです。仙台藩は北上川が潤す広大な仙台平野と北上盆地を持ち、大規模な新田開発を行うにはうってつけでした。北の盛岡藩(南部家)等も歩調を合わせて新田開発を行い、買米制を導入しました。

これにより江戸へ送られる奥州の米は年間15万石余に及び、江戸の米の1/3から2/3を占めたといい、莫大な利益を仙台藩にもたらしました。この頃の米1石は金半両≒銀32匁≒銭2貫文≒20万円に相当しますから、15万石なら金7.5万両≒300億円にもなります。忠宗はこのあがりを活用して城や寺社の改築・新築を盛んに行い、仙台に東照宮を勧請しています。同時代の欧州でポーランドがオランダなどへ穀物を輸出していたのとよく似ていますね。
しかし忠宗の子・綱宗は叔父の宗勝(支藩の一関藩主)と対立し隠居させられ、子の綱村は宗勝の専横や家臣の対立をおさめようと性急な改革を進めます。彼は祖父にならって各地の寺社を造営したため財政が逼迫し、これを解決するため天和3年(1683年)に藩札の発行を開始しますが、信用性がないため物価高騰を招きます。買米のための元金も蔵元(御用商人)からの借金で賄われる始末となり、蔵元は借金のカタに買米に関する権利を買い取り、自ら買米を行い私腹を肥やしました。
元禄16年(1703年)に綱村は隠居に追い込まれ、傍系(忠宗の8男宗房の子)にあたる吉村が家督を相続します。吉村は領内に出回っていた藩札を急ぎ回収させますが、藩の負債は雪だるま式に膨らんで12.3万両にも達しており、さらに幕府から日光東照宮の普請を命じられて7万両余もの借財を背負っていました。そこで享保10年(1725年)には領内の総検地を行い年貢増徴をもくろみますが、家臣団の反発で頓挫します。
吉村は役職のリストラを行いつつ、享保12年(1727年)には幕府の許可を得て寛永通宝を領内で鋳造し、通貨発行益によって利潤を得ました。また享保14年(1729年)から家臣・町人・百姓・支藩や盛岡藩より資金を徴収して10万両の元金を準備し、元禄年間より滞っていた買米を再開します。享保17年(1732年)には西国で享保の大飢饉が発生しますが、折よく奥州は豊作だったため大量の米を江戸に送って高値で売り捌き、50万両を超える収益を得ました。藩財政は一気に好転し、米ばかりに頼らぬよう絹織物や馬の生産、鉱山開発など殖産興業も進められ、吉村は仙台藩の中興の英主として名を残すことになります。この頃の仙台藩の実高は100万石を超え、直属家臣は1万人、陪臣を合わせて3万余の士卒を擁しました。
仙台通宝
ところが吉村が没して3年後、宝暦5年(1755年)から翌年にかけて寒冷な気候が続き、奥羽から北関東におよぶ大飢饉が発生します(宝暦の飢饉)。仙台藩は買米で利益をあげていたため領内の備蓄米に乏しく、飢饉で米価が高騰すると利益を確保せんと領内の米をかき集めて輸出したので(飢餓輸出)、この飢饉で2万を超える餓死者を出し、再び財政が悪化しました。損失は54万石に相当し、餓死や逃散で農民人口も減り、買米の元金は江戸・大坂・京都の豪商から借金するしかなくなります。
明和5年(1768年)からは財政補填のため、幕府の許可を得て石巻の銭座で鉄一文銭の大量鋳造を開始しますが、江戸・常陸・京都などでも大量鋳造が行われたため銭相場が下落し、御定相場が1両=4000文(銅銭)のところ安永7年(1778年)頃には6000文になりました。さらに天明の大飢饉で仙台藩は再び飢餓輸出を行って大打撃を受け、買米元金の前払いすらできなくなり、毎年蔵元に現金を調達させて米を買い取ることになります。そこで仙台藩は領内の豪農や商人に多額の献金を行わせ、引き換えに武士の身分を授けて知行や扶持を給しました(売官)。彼らは新しい発想を家中にもたらしたものの、旧来の武家からは成り上がり者として蔑視されました。
大飢饉のさなかの天明4年(1784年)、仙台藩は幕府の許可を得て領内通貨「仙台通宝」を発行します。これは逼迫した藩財政を救うべく5年間の期限つきで鋳造された鉄銭で「仙臺通寶」の銘があり、寛永通宝や四文銭とは異なり、角を丸めた四角形に四角形の孔がある独特の形状をしていました。また通常の鉄銭よりも質が悪く、100文を支払いに使う間に数文分が砕けてしまい、持ち歩くだけで財布に角で穴が空くという代物でした。
発行当初は金1両につき10貫800文(通常の鉄銭の55%)の相場と定められましたが、鋳造量が30.8万貫文にも及んだうえ通用範囲は仙台藩領内に限られたことから半値の1両≒21貫文(通常の鉄銭の1/3)にまで下落し、天明7年(1787年)7月に5年の期限を待たずに発行停止となりました。そこでこれを安く買い集めて通常の鉄銭の銭差しに混ぜ、不正に利益を得ようとする者が現れ、仙台藩領を超えて江戸にまで流入しました。盛岡藩に至っては仙台通宝を偽造して流通させていたといい、遠く広島からも出土例があります。
また寛政5年(1793年)には弁天札という米札を発行し、「江戸で米を売却してから幕府が発行する通貨と引き換える」と称してこれと引き換えに米を上納させようとしますが、領民たちはこれを信用せず、普及しませんでした。寛政11年(1799年)に大坂の升屋が仙台藩の蔵元となり、信用性のある為替手形を発行して元金とすることで解決しました。
この財政再建を行ったのは升屋の番頭で小右衛門といい、学者としての名を山片蟠桃といいます。彼は米俵から品質調査のために抜き取っていた「差し米」を再利用して資金源とし、仙台の米を大坂に輸送して米相場で投機を行い、巨額の利益をあげました。彼は朱子学と天文学を学び、独特の唯物論思想を持っており、「大名が分不相応の贅沢をするからよくない」「米価を高く定めるべし」と著書に記しています。
米価の下落により買米の利益は年々減少していきますが、奥羽諸藩は財政の根幹をなす買米をやめることはできず、幕末まで継続しました。このため農村は恒常的に貧しく、飢饉や一揆が頻発したといいます。
◆宮◆
◆城◆
【続く】
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