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【つの版】度量衡比較・貨幣179

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。前回は南出羽の諸藩と米沢藩について見ましたから、今回は南陸奥の諸藩について見てみましょう。

東北地方

◆相◆

◆馬◆


南陸三部

 現在の福島県は、古来の陸奥国の最南部にあたります。養老2年(718年)から数年間陸奥国から分割され、東部に石城いわき国、西部に石背いわしろ国が置かれます。石城国には菊多・石城・標葉・行方・宇太・亘理の6郡、石背国には会津・安積・石背・白河・信夫の5郡がありました。平安時代には信夫郡から伊達郡が分けられています。

 明治元年(1868年)には同様に磐城いわき国と岩代いわしろ国が置かれ(領域はやや異なる)、明治2年には岩代国に若松県と福島県が、明治4年(1871年)には磐城国に磐前いわさき県が置かれ、最終的に福島県に統合されています。このため歴史・地理的に福島県は東部の浜通り、中央の中通り、西部の会津の3つにわけられます。

浜通り

 阿武隈高地の東、太平洋沿岸は浜通りと呼ばれます。古代の石城国はこれに加え宮城県南部の亘理郡を、明治の磐城国はさらに伊具郡・刈田郡を含むものの、ほぼ同じ領域です。陸奥国は五畿七道のうち東山道に属しますが、この地域は東海に面することから「東海道」「海道」「浜街道」と呼ばれ、東海道の端の常陸国から陸路や海路で到達可能でした。福島県内では最も温暖で降雪量も少なく暮らしやすいものの、しばしば津波に襲われました。

 江戸時代には、南から泉藩(菊多郡2万石)、湯長谷藩(菊多・磐前郡1万石)、磐城平藩(菊多・磐前・磐城等7万石前後)、中村藩(標葉・宇多・行方郡6万石)が存在しました。中村藩を領した相馬氏は鎌倉時代以来この地を統治する名門で、江戸初期に同じ桓武平氏の土屋氏から養嗣子をとり、以後は譜代大名として扱われるようになりました。藩政改革においては特筆することもないため、ここでは軽く触れるにとどめます。

中通り

 中通りは福島県中部にあたり、西は奥羽山脈、東は阿武隈高地に挟まれ、大小の盆地を貫きながら阿武隈川が北流しています。このため阿武隈地方と呼ばれることもあり、川沿いには東山道奥州街道が通されました。ともに畿内・坂東と奥羽を結ぶ交通の大動脈で、南端には白河関が置かれて坂東と奥羽の境とされました。県庁所在地の福島市は中通りの北部にあります。

 阿武隈川は、古くは安福麻・遇隈・青熊・大熊などと表記し、下流部が阿武隈高地の突端により大きく屈曲する(隈)ことによる地名と思われます。内陸の白河から郡山盆地、福島盆地、宮城県側の角田盆地を経て阿武隈高地北端で西から来る白石川と合流し、東に折れて海に注ぎます。河口近くから平野を北上すれば仙台城や多賀城に達し、古来水運交通が盛んでした。

東山道

 なお東山道・奥州街道は角田盆地へ向かわず、福島盆地から北上して白石盆地に入り、白石川沿いに東へ向かい岩沼・名取・仙台・多賀城へ進んでおり、現代の国道4号線東北本線、東北新幹線もこれを踏襲しています。

 江戸時代には、南から棚倉藩(白河・菊多郡等5-6万石)、白河藩(白河郡等15万石)、守山藩(田村郡2万石、水戸藩の支藩)、三春藩(田村郡5万石)、二本松藩(安達郡10万石)、下手渡藩(伊達郡1万石、文化3年/1806年立藩)、福島藩(信夫・伊達郡3万石)が存在しました。藩政改革で重要なのは白河藩ぐらいですが、以前やったので飛ばします。

 信夫郡と伊達郡は鎌倉時代より伊達氏の領地でしたが、秀吉に没収されて会津藩領とされ、蒲生氏郷や上杉景勝の統治下に入ります。景勝が米沢に移された時も飛び地として残りますが、寛文4年(1664年)に相続問題により収公され、以後変遷を経て元禄15年(1702年)に板倉氏が入部、福島藩として幕末まで続きました。

会津

 会津あいづは福島県の面積の4割を占め、北東に会津盆地が広がり、東は奥羽山脈、南は下野山地、西は越後山脈、北は飯豊山地によって囲まれています。『古事記』によると崇神天皇の時、越国(北陸道)・東海・吉備(山陽道)・丹波(山陰道)へ将軍が派遣され、東海道から北上した建沼河別命と越国から阿賀野川を遡った大毘古命がこの地の(渡し場)で出ったことによる地名だといいます。

 阿賀野川は福島県と栃木県の境にある荒海山から流れ出る荒海川を源流とし、北流して会津盆地では阿賀川(大川)、西流して越後山脈を抜けた新潟県では阿賀野川と名を変え、新潟市で日本海に注ぐ大河です。会津盆地は奥羽山脈の分水嶺の西側にあり、この川によって古来日本海側と結ばれていました。弥生時代後期には出雲文化圏から到来した四隅突出型墳丘墓が築かれています。奈良時代に陸奥国に組み込まれて会津郡が置かれ、平安時代には耶麻郡・大沼郡・河沼郡が分置されて「会津四郡」と呼ばれました。

 平安時代後期には越後の豪族・桓武平氏のじょう氏が会津を掌握しますが、奥州藤原氏によって追い払われています。鎌倉時代に相模三浦氏の傍流・蘆名氏が所領を授かり、南北朝時代から会津に土着して東黒川館(黒川城)を本拠地とし、室町時代には会津守護を自称します。しかし戦国時代後期には内紛で衰退し、伊達政宗に征服されて滅びました。

会津若松

 豊臣秀吉は天正18年(1590年)の奥州仕置で会津を伊達政宗より没収し、織田信長に仕えた名将・蒲生氏郷を伊勢松坂より転封させます(42万石、のち加増され92万石)。氏郷は黒川を若松と改称して若松城と城下町を築きますが、在任5年で逝去しました。子の秀行は徳川家康の娘・振姫と婚姻しましたが、慶長3年(1598年)に下野国宇都宮へ減転封されます。

 続いて会津に入ったのは上杉景勝(越後東蒲原郡と佐渡、出羽庄内を加え120万石)でしたが、家康に逆らったため征伐を受けて出羽置賜郡と陸奥信夫郡・伊達郡に減転封され、蒲生秀行が60万石で会津に戻ります。しかし家中の内紛や地震で動揺し、秀行の子・忠郷は若死にし、後継ぎがなく断絶改易となります。続いて加藤嘉明が伊予松山から40万石で入りますが、次の明成の代に飢饉や悪政や内紛が重なり、所領を没収され改易となります。

 寛永20年(1643年)、将軍家光は異母弟・保科ほしな正之まさゆきを出羽山形藩20万石より加増転封させ、会津23万石に封じました。彼は信州高遠藩3万石の藩主・保科正光の養嗣子でしたが、家光の寵愛を受けて大身に引き上げられ、慶安4年(1651年)に家光が薨去した際は子の家綱の輔佐を頼まれています。これより正之は大政参与として幕閣に重きをなし、武断政治から文治政治への切り替えを行うとともに、会津藩政の基礎をも築きました。彼は身分秩序を保つため朱子学を藩学として奨励し、好学尚武の藩風を作り上げています。

 正之の後は四男の正経、六男の正容まさかたが跡を継ぎます。元禄9年(1696年)には松平姓と三葉葵の紋の永代使用を許され、名実ともに徳川家の御一門として遇されるようになりました。正容の治世は享保16年(1731年)まで半世紀に及びましたが、家格の上昇による出費もかさんで藩財政は元禄年間(1688-1704年)より悪化の一途をたどり、京都の豪商三井家から借財してしのぐようになります。そして領民には重税がのしかかりました。

 寛延2年(1749年)末、不作と重税を原因として会津藩で大規模な百姓一揆が勃発します。彼らは城下に乱入して打ちこわしを行い、年貢の減免を求めました。正容の子・容貞かたさだは首謀者を逮捕して処刑する代わりに本年分の年貢を半減すると宣言してこれを鎮めますが、心労が祟って翌年27歳の若さで没しました。

 跡を継いだ長男の亀之助(容頌かたのぶ)は7歳でしかなく、会津に入国したのは9年後、宝暦9年(1759年)のことでした。この間には宝暦の飢饉が襲来して大きな被害をもたらし、藩の借財は40万両に及び、毎年4万両以上の返済を迫られていました。容頌は家来の井深主水に財政再建を任せますが、大老・井伊直幸と官位昇進を争い出費がかさみ、明和4年(1767年)には井深自身が借金に追われて出奔する有り様でした。その後も会津藩の財政は好転せず、天明の大飢饉もあって借金は増えるばかりとなります。

田中玄宰

 天明元年(1781年)、容頌は34歳の田中玄宰はるなかを家老に任じ藩政改革を命じました。彼の先祖・正玄は保科正之に仕えて会津藩の大老に任じられ、江戸にとどまり大政参与として幕政を統轄する主君に代わり藩政を取り仕切った名臣です。しかし家臣らの激しい反発により改革は遅れ、天明7年(1787年)にようやく改革の大綱が発表されました。

 財政再建のために必要なのは、まず無駄な支出の切り詰めです。藩主含めて厳しい倹約令が敷かれ、華美な風俗は取り締まられ、参勤交代の費用も大幅に削減されました。次いで収入を増やすために荒廃した農村の復興に取り組み、農民に田地を割り当てる均田制を導入し、代官や奉行を直接農村に派遣して指導・監督に当たらせ、養蚕や商品作物(紅花・藍・綿・薬用人参など)の栽培、漆器・酒・蝋燭などの製造を奨励しました。また蝋や漆を専売化し、他国から酒造商人を招聘し、寛政5年(1793年)には江戸で会津の産品を販売する産物会所を創設して多くの利益を得ます。これらの改革により藩財政は持ち直し、寛政の改革を主導した松平定信からも称賛されました。

 寛政10年(1798年)に玄宰は藩校・日新館の創設を進言し、御用商人の須田新九郎の寄付により享和3年(1803年)に校舎が完成しました。これは会津若松城の西隣にあり、上級藩士の子弟に通学が義務付けられ、文武両道を修練し、医学や天文学なども学べるエリート教育の場でした。

 容頌は文化2年(1805年)に62歳で没します。彼には子がおらず、従弟の容詮を養嗣子としていましたが、彼も天明5年(1785年)に没していたため容詮の子・容住かたおきが跡を継ぎました。しかし彼も家督を継いで半年足らずで没してしまい、わずか3歳の容衆かたひろが跡を継ぎます。玄宰は容衆の夭折などで会津松平家が断絶することを危惧し、保険として水戸徳川家の傍流から養嗣子をとりましたが、果たしてそうなっています。

 文化4年(1807年)、幕府はロシア船の来航に備えて蝦夷地を幕領とし、奥羽諸藩に警備を命じました。文化5年(1808年)、61歳の玄宰は1600名の会津藩士を率いて自ら樺太警備に赴きますが、この地で死去しました。文字通りに身命を賭した玄宰の藩政改革により、会津藩は江戸幕府を最後まで支える北方の雄藩として存続することになります。

◆会◆

◆津◆

【続く】

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