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【つの版】度量衡比較・貨幣185

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。奥羽・下野・常陸・房総・相模・武蔵と見てきましたから、次は上野です。

関東地方

◆群◆

◆馬◆


上野略史

 上野国は現在の群馬県にあたり、北西を山に囲まれ東南に開け、利根川の上流域を占めています。東は下野に接し、南は武蔵に面し、西は東山道を通って碓氷峠から信濃に抜け、北は三国峠を越えて越後に達します。すなわち信濃・越後と坂東を結ぶ要衝の地で、下野・武蔵ともども馬牧の地として栄えました。東南部の新田荘(現太田市)は鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の出身地で、下野南西部の足利荘とは渡良瀬川を挟んで隣接しています。

 新田義貞が足利尊氏と敵対して滅ぼされた後、尊氏は母方の従兄弟である上杉憲顕を関東執事(のち関東管領)に任じて鎌倉公方を輔佐させ、上野と伊豆の守護としました。以後上杉氏が関東管領職を世襲しますが、職務の都合上鎌倉に駐在しており、上野の統治は守護代の長尾氏に任せました。のち上杉氏は武蔵守護も兼任しますが、鎌倉公方との対立や内紛によって関東は荒廃し、戦国時代には後北条氏が伊豆から関東に進出します。

 上杉氏は抵抗しますが打ち破られて相模・武蔵・上野を失い、越後守護代の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れて関東奪還を図ります。のち上杉家の家督と関東管領職を相続した景虎は、兵を率いて関東へ侵攻し後北条氏を脅かしますが、信濃を巡って武田信玄とも争いになり、関東制圧は叶いませんでした。上杉・武田・後北条による争いの末、武田氏が信長に、後北条氏が秀吉に滅ぼされ、上野は関八州に転封された徳川家康の領地となります。

 家康は重臣の井伊直政に箕輪(のち高崎)12万石、榊原康政に館林10万石を与え、厩橋(前橋)には平岩親吉、白井には本田康重、宮崎(小幡)には奥平信昌、藤岡には依田康勝と封地を分与しました。上野北部の沼田は真田昌幸の領地とされますが、真田の本領たる信濃上田からは飛び地になるため子の信幸(信之)が派遣されています。他にも多くの藩が上野には設置されましたが、代表的な藩を南から見ていきましょう。

館林藩

 上野国南東端の邑楽おうら郡、現在の群馬県館林たてばやし市に存在したのが館林藩です。家康が関東移封後に榊原康政を館林城主とし、10万石を授けたのが始まりでした。康政は幼い頃から家康に仕えて功績を上げた名将で、実務能力を買われて関東総奉行に任じられ、多忙のため領国を離れることが多かったようです。慶長11年(1606年)に彼が没すると子の康勝が継ぎますが、大坂夏の陣が終結した慶長20年(1615年)5月に京都で病没し、兄忠政の子・忠次が10歳で家督と領地を相続しました。

 寛永20年(1643年)に忠次が陸奥白河14万石に加増転封されると、館林は幕府領となりますが、正保元年(1644年)に大給おぎゅう松平家が6万石で入部します。その後は親藩や譜代の大名家が短期間で入れ替わり、将軍即位前の徳川綱吉が25万石で入ったこともありますが、5-6万石前後で推移しました。水陸交通の要衝であり、徳川家にとって縁深い場所として重視はされたものの、同じ藩主家による長期の統治はなされませんでした。

前橋藩

 館林の北西、上野国群馬郡北部、現群馬県前橋市に置かれたのが前橋藩です。居城の前橋城はもとうまや橋城といい、15世紀末に群馬郡に割拠した「箕輪衆」の豪族・長野氏によって築城されたと推測されます。長野氏は関東管領の上杉氏や守護代の長尾氏に従っていましたが、16世紀半ばには離反して後北条氏に従い、ついで長尾景虎/上杉謙信に攻め滅ぼされました。厩橋城はその後も上杉氏と後北条氏・武田氏の間で争奪され、後北条氏滅亡後に徳川家康が接収しました。

 家康は重臣の平岩親吉に3万3000石を授けて厩橋城主とし、関ヶ原の戦いの後に親吉を甲府へ転封すると、同じく重臣の酒井重忠を封じました。重忠の子の忠世は父とは別に武蔵川越に5000石を賜り、徳川秀忠の家老として幕閣に重きをなし、慶長6年(1601年)には上野国那波郡(現前橋市・伊勢崎市など)に1万石を授かって大名に列しました。さらに加増を重ねて上野国内に4万7000石、近江に5000石を得、元和3年(1617年)に父の遺領を継ぐと合計8万5000石の大身となります。その後も加増を受けて12万2500石余の大名となり、子の忠行の代には上野国板鼻領3万石を合わせて15万石余に達しました。しかし忠世と忠行は同年に没し、忠行の子・忠清が継ぎます。

 幼少の忠清は遺領のうち10万石を相続し、3万石を幕府に返し、残る2万石余は弟の忠能に分与しました(那波藩/伊勢崎藩)。彼の時代から厩橋は前橋と改称されたようです。成長すると家光の子・家綱のもとで老中・大老をつとめ、権勢を振るいました。寛文2年(1662年)に忠能が信州小諸3万石に加増転封されると伊勢崎領2万石余は前橋藩に戻り、延宝8年(1680年)には上総久留里2万石を賜って15万石に戻りますが、同年家綱が薨じ綱吉が将軍になると失脚し、翌年に没しました。

 子の忠挙は伊勢崎2万石を弟の忠寛に分けるよう綱吉から命ぜられ、以後伊勢崎藩は廃藩置県まで酒井家のまま9代190年存続します。忠挙は綱吉政権では疎んじられ、利根川の相次ぐ氾濫により領内が荒廃し、城までも損壊するなど災難に見舞われます。子の忠相は家督を譲られますが早世し、孫の親愛も幼少病弱であったため、忠挙は後見人として晩年まで気苦労の多い日々を過ごしました。幸い吉宗政権では厚遇されたものの親愛には実子がなく、養子の親本、その弟の忠恭が跡を継ぎます。

 この頃、前橋藩は財政が極度に悪化していました。15万石を領する譜代の重臣として格式を維持せねばならないうえ、病弱で早世する藩主が続いて葬儀費用もかさみ、忠恭は大坂城代、ついで老中に任じられて幕閣での勤めにかかる出費も増大します。そもそも領内は火山灰土かつ利根川の氾濫が相次ぐ土地で豊かとはいえず、城そのものも利根川の急流を防御に利用していたため、年々削り取られて損壊していました。追い詰められた前橋藩では豊かな西国への国替えが計画され、寛延2年(1749年)正月にはついに播州姫路への転封が実現します。しかし国替えの費用に加え姫路藩領での台風被害も重なって、酒井家の財政はますます困窮することとなります。

 入れ替わりに前橋藩主となったのが、前姫路藩主の松平朝矩です。石高は同じく15万石でしたが、こちらも財政危機により前橋城の修築さえ困難で、前述のように武蔵川越城に移ったうえ前橋藩領は川越藩に編入されました。前橋城は破却され、以後幕末までこの状態が続いています。

高崎藩

 前橋の南西に置かれたのが高崎藩です。居城の高崎城は古くは和田城といい、鎌倉時代初期に和田義盛の子・義信が築城したとされます。烏川の東岸にあって中山道と三国街道の分岐点にあたり、信濃・越後と坂東との交通を掌握する要衝です。和田合戦の後もこの地の和田氏は城主として存続し、南北朝時代より関東管領の上杉氏に服属しますが、戦国時代には後北条氏や武田氏に従い、武田氏重臣跡部勝資の子・信業を婿養子に迎えました。後北条氏が滅ぶと、和田城は家康に接収されます。

 家康は重臣・井伊直政を上野国箕輪城(現高崎市箕輪町)の城主とし、家臣中では当時最大の12万石を授けます。箕輪城は戦国時代に豪族の長野氏が築いた山城で、武田氏・後北条氏が争奪した重要な防衛拠点ですが、直政は慶長2年(1597年)和田城への移転を家康に命じられ、翌年和田城を修築して「高崎城」と改名、城下町を築きました。領内には中山道沿いに宿場町も作られ、後世まで経済的に繁栄することとなります。

 関ヶ原の戦いの後、直政は功績により6万石を加増され、石田三成の所領であった近江国佐和山18万石に転封されました(彦根藩)。高崎藩領はしばらく代官が置かれ、慶長9年(1604年)に酒井忠次の子・家次が5万石で封じられます。元和2年(1616年)に家次が越後高田10万石へ転封されると、松平康長が1年間、松平信吉が2年間治めた後、元和5年(1619年)に安藤重信が5万6000石で入って3代76年続きました。また直政の子・直継は父の旧領のうち高崎の西の安中に封じられ、安中藩を立てています。

 元禄8年(1695年)、安藤重博が備中松山に加増転封されると、徳川綱吉の側用人である松平輝貞が高崎藩主となり、7万2000石まで加増されます。しかし宝永6年(1709年)に綱吉が薨去し家宣が将軍となると、輝貞は側用人を免職となり、越後村上に左遷転封されます。

 代わって家宣の側用人である間部詮房が5万石で高崎藩主となり、新井白石と協力して幕政を牛耳りました(正徳の治)。ところが正徳2年(1712年)に家宣が薨去し、子の家継も正徳6年(1716年)に幼少のまま薨じ、吉宗が紀州徳川家から迎えられて将軍となると、詮房・白石は失脚し、輝貞は高崎藩主の地位を回復します。輝貞は吉宗より老中格に任命され、養子の輝規が跡を継ぎ、以後廃藩置県まで9代126年(輝貞の左遷前・左遷時代を含めると10代186年)同家が藩主を相続しました。

 輝規の子・輝高は老中首座にまで登りましたが、天明元年(1781年)に上野国の特産品である絹への課税を発表したところ大規模な一揆が勃発し、高崎城を包囲される事態となります(絹一揆)。課税は急遽撤回され、落胆した輝高は同年に逝去しました。子の輝和が跡を継ぎますが、彼の代には浅間山が噴火して領内に火山灰が降り積もり、大飢饉や利根川水系の氾濫、それにともなう全国的な一揆・打ち毀しが勃発するなど多難でした。

 こうした中、輝和は郡奉行の大石久敬に命じて地方じかた(領地)の支配を行うにあたっての解説書『地方凡例録』を執筆させています。こうした書物を地方書といい、地方役人や村役人が職務の参考としたもので、公平かつ公正な民政・農政を行うために必要でした。

安中藩

 高崎の西、上野国碓氷郡安中あんなか(現群馬県安中市)に置かれたのが安中藩です。碓氷郡は信濃と上野の境の碓氷峠から東にあり、古代には東山道、近世には中山道の関所や宿場町が置かれた要衝です。安中は古くは野尻といい、室町時代頃に越後から安中氏が移住してきて改名されました。安中氏は関東管領の山内上杉氏に仕える国衆でしたが、後北条氏・武田氏・上杉謙信の間で争奪されて揺れ動き、後北条氏が滅ぶと没落します。

 家康は安中を含む碓氷郡を井伊直政に授けましたが、関ヶ原の戦いの後に直政が上野高崎から近江佐和山(のち彦根)へ転封されると、その旧領は家康の直轄領となり、代官が設置されます。しかし直政の没後に家督を継いだ直継は家臣団をまとめきれず、大坂の陣の後に彦根から安中3万石へ減転封され、彦根藩と家督は異母弟の直孝に譲らされます。直継は名を直勝と改めて安中へ移り、寛永9年(1632年)に隠居して子の直好に譲りました。

 直好は正保2年(1645年)に三河国西尾に加増転封され、水野元綱が2万石で入りますが、子の元知は寛文7年(1667年)に発狂して改易されます。その後は堀田正俊が14年間、板倉家が2代21年間、内藤家が3代47年治め、寛延2年(1749年)に板倉家が再び入って廃藩置県まで6代122年続きました。

沼田藩

 前橋の北、上野北部の利根郡沼田(現沼田市)を領したのが沼田藩です。安中が東山道/中山道上にあって上野と信濃の境を抑えるように、沼田は三国街道上にあって上野と越後の境を抑えています。また利根郡北端の大水上山は利根川の源流部で、三国街道はその支流の赤谷川沿いに北上し、三国峠で越後山脈を越えて越後へ出る難路です。

 沼田盆地では利根川に周辺の山々から河川が流れ込み、材木など物資の集積地として古くから栄えました。鎌倉時代には相模から大友氏、ついで三浦氏の傍流が入って沼田氏を称し、戦国時代末まで国衆として定着しました。居城の沼田城は上杉氏・後北条氏・武田氏の間で争奪され、最終的に武田氏の家臣で信濃国上田城主の真田昌幸が沼田氏を滅ぼして奪い取りました。

 まもなく武田氏が滅亡すると、沼田城は信長の家臣・滝川一益に接収されます。しかし直後に信長が本能寺の変で倒れ、昌幸は後北条氏に降って沼田城を取り戻します。後北条氏は徳川家康と旧武田領を巡って争いますが、昌幸は後北条氏から上杉景勝に乗り換え、沼田城を引き渡そうとしませんでした。豊臣秀吉の裁定により後北条氏に引き渡されることとなったものの、引き渡しを巡って争いが起き、秀吉による小田原征伐を招いています。

 戦後、秀吉は沼田領を真田家に安堵します。昌幸は子の信幸(のち信之)に沼田領2万7000石を任せますが、彼は家康の養女(本多忠勝の娘)を妻としており、関ヶ原の戦いに際しては父に背いて東軍につきました。戦後昌幸は紀州へ追放され、家康は信之に昌幸の上田領を含む9万5000石を授けました(信州上田藩)。信之は引き続き沼田城にとどまり、元和2年(1616年)に上田に移り、元和8年(1622年)に信州松代に転封されますが、沼田領3万石は飛び地として子の信吉、孫の熊之助、信吉の弟の信政が継ぎます。

 信政は明暦2年(1656年)に松代藩主となりますが2年後に没し、子の幸道を後継者としますが2歳の幼児であったため、信吉の子で熊之助の弟の信利が家督相続を主張しました。幕府や諸家を巻き込んだ騒動の末、松代藩と家督は遺言通り幸道が相続し、信利は沼田3万石をもって独立した藩主とされました。しかし信利は10万石の松代藩に対抗するため検地を行い、実高は14万4000石であると過大に報告したため(実際は6万石)、幕府からその石高に応じた役負担を課せられ、領民は重税と労役に苦しみました。

 沼田藩の領民はしばしば幕府に直訴を行い、幕府は調査の結果、天和元年(1681年)11月に信利を改易として山形藩に預け、城を破却して沼田領を幕府領としました。20年あまり後の元禄16年(1703年)、本多正永が2万石で入って沼田藩が復活し、3代27年続きました。ついで黒田直邦・直純が2代12年治め、寛保2年(1742年)に老中の土岐頼稔が3万5000石で入って以後は、土岐家が藩主として廃藩置県まで12代130年存続しました。

 なお群馬県吾妻郡の草津温泉は戦国時代から記録に現れ、土豪の湯本氏が湯治客から集めた銭を領主に上納したり、産出する硫黄を各地に贈ったりしています。上杉謙信や丹羽長秀、豊臣秀次や大谷吉継も草津で湯治した記録があり、徳川家康は江戸城まで草津の湯を運ばせて浴びたと伝えられます。江戸時代初期には沼田領でしたが、真田氏が改易されると幕府領となり、徳川吉宗も家康を真似て草津の湯を江戸城まで運ばせました。

◆草◆

◆津◆

 上野国には他に多胡郡の吉井藩(現高崎市吉井町)、甘楽郡の小幡藩(現甘楽町小幡)と七日市藩(現富岡市七日市)などがありますが、いずれも2万石以下の小藩です。次回からは関東を離れて、中部地方を越後・信濃・甲斐・伊豆・駿河…と見ていきましょう。

【続く】

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