【つの版】度量衡比較・貨幣184
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。奥羽・下野・常陸・房総・相模と見てきましたから、次は武蔵です。

◆武◆
◆蔵◆
武蔵略史
武蔵国は現在の東京都、埼玉県、神奈川県川崎市・横浜市にまたがる国で、古くは東の无邪志(胸刺)と西の知々夫(秩父)の2人の国造がいました。无邪志国造の本拠地は埼玉県北部の行田市埼玉で、5世紀後半から7世紀にかけて埼玉古墳群が築かれています。奈良時代に両者の領国が統一されて武蔵国となり、国府(現府中市)が多摩川沿いに置かれますが、東山道から国府までが離れていたため支線(武蔵路)が設けられます。しかし結局海路での往来が盛んとなり、771年に東山道から東海道に移管されました。
この地には火山灰土が分厚く積もった「武蔵野台地」が広がり、水田稲作には向きませんが、古墳時代以来ウマが飼育され、畿内へ輸出されていました。地方豪族はこうした官営・私営の牧場を管理して武力と経済力を蓄え、平将門の女系子孫である秩父氏が武蔵に割拠しました。秩父氏からは畠山、小山田、浄法寺、稲毛、榛谷、葛貫、河越、高山、江戸、渋谷、高麗、白河、赤木、豊島、葛西など多くの分家が生じ、平安時代後期には桓武平氏以外の中小武士団も集まって「武蔵七党」と呼ばれる諸集団を形成します。
源頼朝が伊豆で挙兵すると、武蔵の武士団の多くは当初は平家方につきますが、頼朝が相模から安房に逃れて房総の武士団を指揮下におさめると、状況判断して頼朝に味方します。平家が倒れ鎌倉幕府が成立すると、武蔵の武士団は鎌倉殿の御家人として全国各地に派遣され、守護・地頭となって定着していきました。しかし畠山氏や比企氏など有力な御家人は粛清され、秩父氏の勢力も衰え、武蔵は執権北条氏の支配下に置かれていきます。
鎌倉幕府の滅亡後、足利氏は鎌倉公方を置いて東国を統治させ、関東管領上杉氏に輔佐させます。武蔵は事実上関東管領の守護領国となり、享徳の乱で鎌倉公方が古河へ移動すると、扇谷上杉氏が相模と武蔵に割拠して古河公方と戦うこととなります(武蔵守護代は大石氏)。しかし扇谷上杉氏も内紛で分裂・衰退し、伊豆から相模へ進出した後北条氏の侵略を受けます。
後北条氏が滅亡すると、関八州に移封された徳川家康は武蔵国江戸城を領国支配の拠点とし、以後江戸は天下の中心地となって発展していきます。武蔵国の大部分は幕府領、旗本領、諸藩の飛び地に分割され、家康が設置した武蔵の諸藩は多くが江戸前期に消えたものの、幕末まで存続した藩もいくつかあります。南から見ていきましょう。
六浦藩
武蔵国南端の久良岐郡、現在の神奈川県横浜市金沢区には六浦藩(武州金沢藩)が存在しました。六浦は鎌倉の東にある港町で、海を隔てて房総半島に通じ、鎌倉の外港の一つとして繁栄しました。南北朝時代から戦国時代にかけては徐々に衰微しますが、房総と武蔵・相模を繋ぐ港としての機能は重視され、江戸時代には幕府領・旗本領とされます。
元禄9年(1696年)、旗本の米倉昌尹は度重なる加増により武蔵・相模・上野に合計1万石を賜って譜代大名に昇格し、六浦の地も領しました。3年後に5000石を加増されて下野国皆川(現栃木県栃木市皆川)に転封され、皆川に陣屋を置きます(皆川藩)。昌尹の孫・昌照が没すると養嗣子の忠仰(柳沢吉保の子)が跡を継ぎ、享保7年(1722年)に六浦に陣屋を移して幕末まで存続しました。
岩槻藩
江戸の北方、埼玉郡岩槻城(現埼玉県さいたま市岩槻区太田)を居城としたのが岩槻藩です。この城は享徳の乱の時、関東管領から古河公方に寝返った国人領主の成田自耕斎が忍城とともに築城したと伝え、戦国時代には太田氏が入りますが、後北条氏の調略により奪われ、直轄の支城とされました。後北条氏滅亡後に関東に入った徳川家康は岩槻城を重視し、譜代の家臣・高力清長に2万石を与えて城主としました。
元和5年(1619年)、清長の孫の忠房が遠州浜松へ転封され、翌年老中・青山忠俊が4万5000石で入りますが3年後に上総大多喜へ減知転封され、阿部正次が5万5000石で入って阿部家が5代58年続きます。この間に加増や相続によって最大11万5000石の大藩となりますが、御家騒動もあり丹後宮津へ転封されました。その後も藩主家は次々と代わって定着せず石高も減らされ、宝暦6年(1756年)に将軍家重の側用人・大岡忠光が2万石で入ってからは幕末まで大岡家が8代110年余続きました。
岩槻藩は武蔵のほか上総、安房、上野などに飛び地を領し、各地に奉行を置いて管理させていました。安房国朝夷郡奉行の児玉南柯は天明年間に藩財政の再建を任せられて倹約令を敷きましたが、前任者の公金横領事件の責任を負わされて失脚、隠居しました。その後は儒学者として藩士の教育につとめ、彼が開いた私塾の遷喬館はのちに藩校とされています。
川越藩
江戸の北西、武蔵国入間郡(現埼玉県川越市)周辺を領有したのが川越藩です。居城の川越城(中世には河越城)は武蔵野台地の北東端に位置し、享徳の乱の時に江戸城ともども扇谷上杉氏の家宰たる太田道真・道灌父子によって築城されました。道灌は享徳の乱の収束に尽力しますが、功績を妬んだ主君に暗殺され、山内上杉氏や古河公方が両者の争いに介入して18年続く泥沼の内戦となりました(長享の乱)。
これにより衰退した上杉氏は後北条氏の侵攻を防ぎきれず、河越城を制圧されます。後北条氏は譜代の重臣・大道寺氏を城代として防衛させ、武蔵奪還を図る上杉氏は古河公方・武田氏・今川氏と大同盟を結んで反撃しますが撃退されました。後北条氏滅亡後、徳川家康は譜代の重臣・酒井重忠を河越城主として1万石を授け、重忠は慶長6年(1601年)に上野国厩橋(前橋)へ加増転封されるまでこの地を治めました。
川越城と領地は8年間幕府領となった後、慶長14年(1609年)に酒井重忠の弟・忠利が2万石で封じられます。彼は大坂の役で江戸城留守居役をつとめ、しばしば加増を受けて3万7000石に達し、家光の老中となって幕政を支えました。寛永4年(1627年)に忠利が没すると嫡男の忠勝が相続しましたが、彼はすでに下総・上総・武蔵深谷等に5万石を領する大名で、父の遺領を継いで川越城に移ったため8万石となります。5年後に2万石の加増を受けて10万石となり、寛永11年(1634年)には若狭国小浜へ転封されました。
その後は堀田正盛が3万5000石で入って3年間治めたのち、松平信綱が6万石で入り、3代55年続きました。信綱は老中首座として幕政を執りつつ川越城と城下町を拡張し、江戸と川越を結ぶ新河岸川と川越街道を改修、武蔵野台地に水を供給するため玉川上水や野火止用水を開削するなど、多くのインフラを整備しています。跡を継いだ子の輝綱は父の整備事業を引き継ぎますが、病弱のため幕政には関わらず、その子・信輝は元禄7年(1694年)に下総国古河に転封されました。
代わって柳沢吉保が10年間入り、相次ぐ加増により石高は11万2000石に達しました。彼は徳川綱吉の側用人として幕政を主宰しましたが、藩政においても手腕を発揮し、儒学者・荻生徂徠の建議を受けて武蔵野台地上に「三富新田」という畑作地を開拓させています。これは北宋の王安石の新田開発法を真似たもので、土地を短冊形に分割して均等に農家に分配し、180戸を住まわせました。また土壌改良のために雑木を植林し、その腐葉土を堆肥として農作物を増産させたといいます。
宝永元年(1704年)に吉保が甲府へ転封されると、正徳元年(1711年)に老中・秋元喬知が5万石(のち6万石)で入り、4代56年治めました。喬知は前任地の甲斐より職人を帯同し、柿の栽培や魚の養殖、養蚕などの殖産政策を行っています。4代目の涼朝は吉宗・家重・家治の3代に仕え老中となり、豪雨災害に対して領民救済政策を次々と実施し、明和3年(1766年)には平賀源内を招聘して奥秩父の中津川鉱山の開発を行わせています。しかし田沼意次と対立して失脚し、出羽山形藩へ転封され、源内は田沼意次をパトロンとすることとなります(結局鉱山開発はうまくいきませんでした)。
代わって川越藩主となったのは松平朝矩です。彼は家康の長男・結城秀康の末裔にあたり、11歳で播州姫路15万石を相続しますが、翌年上野国前橋15万石に転封され、18年間在任しました。しかし前橋藩は以前から利根川の氾濫に悩まされて財政が逼迫しており、前橋城も損害を受けて本丸を放棄していたため、朝矩は城の再建を諦め、幕府の許可を得て川越城に移りました。川越藩領6万石のうち城を含む3万石が朝矩の領地とされ、前橋城は破却されますが、前橋藩領は川越藩に編入されたのです。朝矩は移転の翌年に没し、以後は彼の子孫が6代100年にわたって川越と前橋を治めました。
武蔵・上野15万石を領し関東有数の大藩となった川越藩でしたが、財政は困窮していました。もともと結城松平家は高い家格と相次ぐ転封により多額の借財を抱えており、朝矩の孫にあたる斉典が家督を継いだ文化13年(1816年)には借金が23万6000両余に達し、その利息と返済のための借金が年間4万両に及ぶという状態でした。さらに文政3年(1820年)には相州警護役を命じられて負担がかさみ、斉典は幕府に国替えを繰り返し働きかけますが失敗しています。一方で藩校を開設して儒者を招聘し、財政再建に取り組むなど藩政改革を進めたため、名君として讃えられています。
忍藩
川越の北、武蔵国埼玉郡忍庄の忍城(現埼玉県行田市本丸)を居城としたのが忍藩です。古来この地を支配していた忍氏は扇谷上杉氏に仕えていましたが、室町時代後期に山内上杉氏の家臣・成田氏に攻め滅ぼされ、忍城が建設されました。低湿地の沼沢を濠とした天然の要害で、上杉謙信や石田三成の包囲にも耐えたことで知られています。
関東に入った家康は四男の松平忠吉を10万石で忍城主としますが、11歳の少年であるため家来の松平家忠を1万石で入れ、忠吉が成人するまで預からせることとします。家忠は城郭の普請や修理、治水など土木事業に長けた人物で、三成の水攻めで荒廃した城と城下町を修築し、検地を行っています。文禄元年(1592年)に家忠は下総国香取郡上代(千葉県旭市櫻井)に転封され、元服した忠吉が正式に城主となり、家老の小笠原吉次が政務を代行します。関ヶ原の戦いの後、忠吉は尾張・美濃52万石を授かって清洲に移り、忍城とその領地は以後しばらく幕府領となりました。
寛永10年(1633年)、老中・松平信綱が3万石で封じられ、33年ぶりに忍藩が復活します。彼は島原の乱の際に鎮圧軍の総大将として手柄を立て、寛永16年(1639年)に川越6万石に加増移封されます。代わって老中・阿部忠秋が5万石で入り、これより阿部家が9代184年続きました。
歴代藩主は老中や京都所司代、大坂城代などの要職を歴任し、相次ぐ加増により石高は10万石に達しましたが、そのため幕府での活動費用がかさんで財政は逼迫し、領民は重税を課されます。寛保2年(1742年)には利根川と荒川が決壊して領内を洪水が襲い、10万石のうち6万石が収穫不能になりました。藩は幕府から1万両を借りてしのぎますが、領民への負担は増える一方で、宝暦2年(1752年)、明和元年(1764年)には藩内で一揆が勃発します。さらに天明年間には浅間山の大噴火と天明の大飢饉が襲い、火山灰で川底が上昇した利根川水系が大洪水を起こすなど災害が頻発しました。
9代藩主・正権は、文化13年(1816年)に幕府より美濃・伊勢・尾張および東海道諸国の河川改修事業を命じられます。正権は幼少かつ病弱であったため、藩政は備後福山藩主の阿部正精が後見していましたが、彼は経費調達のため藩内に重税を課し、藩士や足軽までも貧窮に苦しみました。文政6年(1823年)、幕府は正権に陸奥白河藩への転封を命じ、代わって伊勢桑名藩より松平忠堯が転封されます(前白河藩主の松平定永は桑名藩へ転封)。以後は廃藩置県まで5代48年存続しますが、幕府より異国船警備を命じられてますます財政は悪化し、災害も重なって幕末には76万両もの負債があったといいます。
なお忍藩領内には江戸から武蔵・上野・信濃を経て京都に至る中山道が通り、熊谷宿は周辺村落の農産物の集積地としても繁栄しました。
岡部藩
忍城の北西、武蔵国榛沢郡岡部(現埼玉県深谷市岡部)には岡部藩が存在しました。藩祖の安部信勝はもと今川氏の家来で、のち徳川家康に仕えて功績をあげ、家康が関東に移ると武蔵国榛沢郡・下野国梁田郡などに5250石を賜りました。子の信盛は三河国・摂津国に1万4000石を授かって大名に列し、幕末まで13代存続しました。所領の大半が摂津にあったため、歴代藩主は大坂定番などをつとめています。
岡部藩領榛沢郡は、忍藩領と同じく利根川と荒川に挟まれた低地にあり、火山灰土の畑作地帯で、早くから米ではなく金銭で年貢を納める制度が確立していました。農民はネギや藍など商品作物を作り、養蚕を行ってカネを稼ぎ、半農半商の豪農が出現しました。明治時代の実業家・渋沢栄一はそうした豪農の出身です。また領内には中山道最大の宿場町である深谷宿があり、多くの商家や妓楼が軒を連ねて繁栄しました。
◆渋沢◆
◆栄一◆
【続く】
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