【つの版】度量衡比較・貨幣183
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。奥羽・下野・常陸・房総と見てきましたから、次は相模です。

◆小田◆
◆原◆
相模略史
相模国はほぼ現在の神奈川県にあたり、北は武蔵、東南は海、西は伊豆・駿河・甲斐に接しています。源頼朝が鎌倉幕府を開くとその中心地となり、執権北条氏が代々相模守をつとめました。南北朝時代から室町時代には鎌倉に足利氏の分家が置かれて鎌倉公方となり、関東管領上杉氏に補佐されて東国を統治しましたが、享徳の乱で鎌倉公方が古河へ出奔し、相模は関東管領の分家・扇谷上杉氏の勢力圏となります。
扇谷上杉氏は重臣の大森氏頼を相模西部の小田原城に置き、伊豆・駿河方面を防がせました。この城は氏頼の父・頼春が築いたもので、足柄峠と箱根峠に睨みをきかせ、南は相模湾に面し、東は鎌倉に通じる交通の要衝です。しかし氏頼の子・藤頼の時に伊豆韮山の伊勢盛時(早雲庵宗瑞)に奪われ、盛時の子・氏綱が入城します。氏綱は三浦半島の新井城に遠征して三浦氏を滅ぼし、小田原城に拠点を移して相模を平定、北条氏を称しました。鎌倉幕府の執権北条氏と区別して、これを後北条氏と呼びます。
戦国大名の後北条氏は氏綱・氏康・氏政・氏直の四代続き、駿河の今川氏と同盟して武蔵・下総を制圧し、最盛期には上野・下野・上総・常陸・駿河の一部にまで版図を拡大しました。小田原は領国の首都として栄え、上杉氏や武田氏の攻撃を防ぐため、城下町全体が長大な土塁と空堀で囲まれた「総構え」となり、天下第一の巨城として難攻不落を誇りました。
本能寺の変後に旧武田領で勃発した領土争い(天正壬午の乱)の後、後北条氏は徳川家康と同盟します。しかし北関東の領有権を巡って真田氏らと争い豊臣秀吉の機嫌を損ね、天正18年(1590年)に大規模な攻撃を受けます。秀吉は家康ら全国の諸大名に参陣を命じ、遠征軍は総勢20万を超え、後北条氏の支城を次々と陥落させました。氏直らは小田原城に籠城しますが、3か月に及ぶ兵糧攻めによって疲弊し、降伏に追い込まれます。秀吉は氏直を助命して高野山に流し、前当主の氏政らを戦争責任者として切腹させ、後北条氏の領国に徳川家康を転封しました。氏直は翌年病没し、後北条氏の家督は叔父の氏規が継ぎ、河内国狭山に7000石を与えられて存続します。
小田原藩
秀吉は東国の抑えとして、家康に宿老・大久保忠世を小田原城主とするよう命じました。忠世は相模国足柄上郡・下郡(現神奈川県西部)4万5000石の領主となり、治水事業などに取り組みますが、文禄3年(1594年)に63歳で没しました。嫡男の忠隣は武蔵羽生2万石を領し、徳川秀忠の家老となっていましたが、父の遺領を相続して合計6万5000石を領しました。しかし慶長19年(1614年)に謀反の疑いにより突如改易され、近江に配流されます。小田原城は本丸を残して破却され、城と領地は幕府に没収されました。相模の他の部分もおおむね幕府領か旗本領となっています。
のち阿部正次が元和5年(1619年)に5万石で入りますが、4年後に武蔵国岩槻へ加増転封され、9年後の寛永9年(1632年)に稲葉正勝が8万5000石で入ります。彼は徳川家光の乳母・春日局の子で、家光の乳兄弟として寵愛を受けていましたが、入封翌年に領内を地震が襲い、寛永11年(1634年)に病没します。子の正則が跡を継ぎますが、幼少のため江戸にとどまり、春日局の兄の斎藤利宗、親族の堀田正盛らが後見人となりました。
正則は家光・家綱に仕えて幕閣として重用され、日光社参の供奉、江戸城や箱根関の警備、手伝普請など様々な軍役を負担して信頼を受け、明暦3年(1657年)には老中、寛文6年(1666年)には老中首座、延宝8年(1680年)には大政参与に任じられ、相次ぐ加増により石高は10万石を超えます。しかし領内には幕閣としての活動のため重税がかけられ、新田開発や治水事業も行われたものの地震や洪水などの天災も相次ぎ、財政は窮乏しました。
家綱没後の天和元年(1681年)末、正則は大政参与を退き、2年後に隠居して子の正往に家督を譲ります。しかし貞享元年(1684年)に親戚の稲葉正休が大老の堀田正俊を暗殺する事件が起き、これに連座してか翌年越後国高田に10万3000石で転封されました。のち正住は下総佐倉に転封されますが、以後小田原に戻ることはなく、半世紀続いた稲葉氏の支配は終焉します。
代わって小田原に封じられたのは、大久保忠隣の孫にあたる老中首座の大久保忠朝でした。彼は肥前唐津藩、ついで下総佐倉藩の藩主となり、堀田正俊暗殺事件では犯人の稲葉正休をその場で殺害しています。石高は相次ぐ加増により11万3000石にのぼり、元禄11年(1698年)に忠朝が隠居すると、長男の忠増が家督を相続しました。それから間もなく天災が藩を襲います。
天災連発
元禄16年(1703年)11月、房総半島南端沖の相模トラフを震源とする巨大地震(元禄地震)が発生し、小田原藩領の海岸には大津波が押し寄せます。4年後の宝永4年(1707年)10月には紀伊半島沖の南海トラフを震源として、元禄地震を超える規模の超巨大地震(宝永地震)が発生し、奥羽を除く日本全国に甚大な被害を及ぼします。同年11月にはこれに連動して富士山が大噴火を起こし、膨大な量の火山灰が関東平野に降り積もりました。
相次ぐ激甚災害に疲弊した小田原藩は自力での復興を諦め、領民の懇願もあり幕府に救援を要請します。幕府は小田原藩領11万石余のうち駿河国駿東郡御厨(現静岡県御殿場市など)、相模国足柄上郡・下郡、淘綾郡(現神奈川県平塚市など)、高座郡(現神奈川県中部)の5万6384石・197村を臨時の幕府直轄領とし、代わりに伊豆・美濃・播磨に領地を与えます。
富士山東麓から小田原に向けて流れる酒匂川は降り積もった火山灰により川底が上昇し、大雨のたびに泥流や土石流が流域を襲うようになりました。幕府は関東郡代の伊奈忠順を砂除川浚奉行に任命し、全国に石高100石につき金2両の臨時課税を行って48万両を集め、備前岡山藩など5つの大名に手伝普請を命じて復興を行わせます。また忠順は被災地の農民を改修工事のために雇って生活を安定させ、土壌改良にも取り組みますが、志半ばにして正徳2年(1712年)に病没しました。大久保忠増も翌年没し、小田原藩は長く貧窮にあえぐこととなります。
忠増の子・忠方、その子・忠興は財政難のため幕閣に入ることもできず、倹約や藩士の知行借上により財政を立て直そうとしますが、焼け石に水でした。噴火から35年後の延享4年(1747年)には足柄・御厨地域を返還されますが、酒匂川の洪水が相次ぎ、復興には至りませんでした。忠興の子・忠由は病弱で在任6年で死去し、明和6年(1769年)に子の忠顕が跡を継ぎます。
この頃には天災の被害もある程度は復興し、小田原の城下町は東海道一の宿場町として栄え、商品経済が発達しました。ところが天明2年(1782年)にまたも小田原を地震が襲い、翌年には上野と信濃の境の浅間山が大噴火を起こし火山灰が関東平野一帯に降り積もり、天明の大飢饉をもたらします。御厨では一揆が発生し、さらに幕府からは異国船に対する沿岸防衛を命じられ、藩の財政は破綻しました。疲れ果てた忠顕は寛政8年(1796年)に36歳で隠居し、長男の忠真に家督を譲ります。
忠真は寛政12年(1800年)に奏者番、文化元年(1804年)に寺社奉行、文化7年(1810年)に大坂城代、文化12年(1815年)に京都所司代と順調に出世し、文政元年(1818年)には忠増以来100年余ぶりに老中に就任します。松平定信の推挙もあったにせよ、幕府で出世するにはそれ相応の資金が必要ですから、小田原藩の財政はそれなりに立ち直っていたのでしょう。しかし財政難に変わりはなく、忠真は二宮尊徳に財政再建を任せました。
二宮尊徳
二宮尊徳は相模国足柄上郡栢山村(現小田原市栢山)の農民で、通称を金治郎といいます。父は利右衛門といい、叔父の銀右衛門の養子となり、田畑13石を受け継いで比較的裕福でしたが、寛政3年(1791年)に酒匂川の氾濫で田畑と家を押し流され、復興のため借金を背負い没落します。幼い金治郎は眼病を患った父に代わって堤防の工事に出、夜は草鞋を作り、朝は薪を伐採して一家の生活を助けました。
やがて父母が貧窮の中で没すると、金治郎は祖父の萬兵衛の家に身を寄せて働き、夜は読書して勉強に励みました。萬兵衛が「燈油の無駄遣い、無駄飯食らい」と罵ると、金治郎は堤防にアブラナを植えて菜種油を採取し、余った苗を用水路に植えて米1俵を得たといいます。やがて金治郎は他の親戚の家に寄宿して働き、文化3年(1806年)に20歳で生家に戻り、稼いだ米で田畑を買い戻し、家を修復して建て直しました。4年後には1町4反の田畑を小作に貸して収入を得る地主になり、母の実家や二宮総本家の復興にも資金援助を行い、人々の注目を集め始めます。
やがて金治郎は農地経営の傍ら、小田原城下に出て武家奉公人として働き始めます。勤め先は小田原藩の家老・服部十郎兵衛の家で、1200石取りの大身でしたが、財政難で1000両もの借金を抱え、奉公人への給与も支払えず困っていました。十郎兵衛は金治郎の評判を聞き、服部家の財政再建を依頼します。そこで金治郎は借金返済のため五年の計画を立て、家中に厳しい倹約令を敷き、債権者には返済計画の説明をして取り立てを待ってもらいます。そして文化11年(1814年)には見事1000両の借金を返済させ、余剰金300両を貯蓄することとなりました。喜んだ十郎兵衛は金治郎に300両を贈りますが、金治郎は受け取らず、かえって評判をあげます。
小田原藩主・大久保忠真は彼の功績を讃えて表彰し、藩政改革について建議を求めました。金治郎は「役人は大きな枡で量って徴収し、余分を横領していますから、まず年貢米を計量する枡を統一すべきです」と提言し、正確に量れる枡を発明します。また藩士のために低利の金融機関を設置するよう提言し、「五常講」という金融制度を整備しました。
五常とは儒教が説く五つの基本的な徳をいいます。余裕のある者が乏しい者を支援することは仁(思いやり)、約束を守って返済することは義(正しさ)、感謝して恩義に報いることを礼(うやうやしさ)、迅速な返済計画を立てることを智(賢さ)といい、これによって信(信用)が生じるのです。具体的には、貸出基金を300両として100両ずつを1組100人が運用し、全員が連名記帳して連帯保証人となります。基金から借り入れできるのは1人につき1両までで、利息はありませんが貸出期間は100日とします。もし返済が遅れれば組中の10名が連帯して弁済せねばならず、返済が完了するまで新たな貸付をすることができなくなり、連帯責任で迷惑がかかるゆえ、気軽に金銭を貸し借りできなくなるというわけです。いわゆる無尽・頼母子講です。
喜んだ藩主は、続いて大久保家の分家の旗本・宇津家の知行所である下野国芳賀郡桜町(現栃木県真岡市二宮町)の再興を金治郎に命じ、名主役柄5石2人扶持等を授けました。桜町は天明の飢饉により荒廃しており、村民や代官の妨害にも遭って再建は容易ではありませんでしたが、地道に開墾や堤防の改修を進め、真面目に働いた農民には褒美を与えて勤労意欲を引き出します。10年におよぶ難事業の末、桜町は見事に復興し、各地の旗本領や藩の財政再建を依頼されるようになります。
天保7年(1837年)には忠真に呼び戻されて小田原藩の財政改革を本格的に委ねられますが、翌年忠真が没したため重臣の反発で失脚し、天保13年(1842年)からは幕府に仕え、安政3年(1856年)に没するまで各地の財政再建を行うこととなります。彼の改革手法は「報徳仕法」と呼ばれ、門人たちは功績を語り継ぎ、明治時代には各地に彼を祀る神社を立てています。
◆二宮◆
◆尊徳◆
【続く】
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