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【つの版】度量衡比較・貨幣187

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は越後の続きで、中越編です。

中部地方

◆長◆

◆岡◆


中越地方

 越後国は、畿内に近い順に上越・中越・下越と区分されます。このうち中越地方はおおよそ信濃川流域を指し(下流部は除く)、西は米山(柏崎市谷根)で上越と隔てられ、南は三国みくに山脈を挟んで信濃・上野と、東は越後山脈で陸奥の会津地方と接し、北は彌彦神社ないし寺泊を下越との境とします。すなわち越後国のうち頸城郡(上越)と蒲原郡および岩船郡(下越)を除いた領域で、刈羽郡(柏崎市)、古志郡・三島郡(長岡市など)、魚沼郡(魚沼地方)を含みます(南蒲原郡を含むことも)。縄文時代中期にはこの地域を中心として火焔型土器が流行しました。

 信濃川は信濃/長野県側では千曲ちくま川と呼ばれ、奥秩父の甲武信こぶしヶ岳を源流として佐久盆地・上田盆地を北流し、長野盆地(善光寺平)の川中島で松本盆地から流れて来た犀川と合流します。さらに北流して魚沼郡で越後に入り、上州境から北流してくる魚野川を合わせ、越後平野に出て蛇行しながら日本海に注ぐ、日本最長(367km)の大河です。古来信濃・上野と越後を繋ぐ交通の大動脈で、多数の支流を介して内陸部と海を結びつけてきました。物資や人員の輸送はもちろん、上杉謙信が信濃や関東に進出する際も、信濃川の水運とその沿岸の陸路は大いに活用されたのです。

 また柏崎や寺泊は古来海路で能登や敦賀、佐渡や出羽と繋がり、畿内と北陸・奥羽・蝦夷地を結ぶ重要な港でした。国府は上越の頸城郡に置かれましたが、中越は上越に勝るとも劣らぬ北陸の要として繁栄しました。幕末維新期には一時的に上越・中越を管轄する「柏崎県」が置かれています。

椎谷陣屋

 現柏崎市域の大部分は江戸時代には高田藩領に属し、寛保元年(1741年)には高田藩から陸奥白河藩に転封された久松松平家の飛び地となり、文政6年(1823年)に同家が桑名に戻ると桑名藩の飛び地となって幕末に及びました。しかし柏崎市(刈羽郡)のうち北部の椎谷しいやには椎谷陣屋が置かれ、堀氏が治める1万石の小藩・椎谷藩が存在しました。

 藩祖は上杉氏に代わって越後国主となった堀氏の一族で、堀秀治の家老をつとめた堀直政の子・直之です。慶長15年(1610年)堀氏が改易されると、直之は兄・直寄が藩主となった信州飯山に身を寄せ、徳川秀忠に召し出されて書院番(親衛隊)に任ぜられます。大坂の陣では兄に従って奮戦し手柄をたて、元和2年(1616年)に越後椎谷に5000石(のち新田を加増し5500石)で封じられました。寛永10年(1633年)には上総に4000石を賜って9500石となり、子の直景は家督相続前の知行地500石を足して1万石としますが、上総側に陣屋を置いて居所としています(苅谷藩八幡藩)。

 元禄11年(1698年)、直景の孫・直宥なおさだの時、各地に分散していた所領を越後に移され、椎谷藩が成立します。藩主は江戸に定府し、以後廃藩置県まで13代164年(直之の椎谷授封からは16代255年)存続します。8代藩主著朝あきともは病弱で分家の直基が政務を代行しますが、天明の大飢饉もあって財政が逼迫し、米価高騰に乗じ蔵米を競争入札にかけたため農民の反発と一揆を招きます。幕府の調査と裁定により、寛政4年(1792年)には著朝の隠居と養嗣子直起なおのりへの家督継承、半知替え(領地の半分を没収)などの処分が命じられました。

越後長岡

 越後国古志郡全域および三島郡北東部、蒲原郡西部を治めたのが長岡藩です(山城長岡藩と区別して越後長岡藩とも)。これは現在の長岡市と新潟市にあたり、柏崎市域(刈羽郡)と魚沼地方(魚沼郡)を除く中越地方の大部分を占め、部分的には下越をも含んでいます。

 前身となる蔵王堂藩は、南北朝時代に築かれた蔵王堂城(長岡市西蔵王)を居城とし、上杉氏が会津へ移封された後、堀秀治の弟親良が4万石をもって封じられました。彼はこのうち1万石を家老の近藤重勝に授けています。慶長7年(1602年)、親良は秀治らとの不仲により病気と称して隠居し、養嗣子の鶴千代に家督を譲って京都伏見へ赴きます。しかし鶴千代は4年後に9歳で夭折し、遺領は彼の後見人であった魚沼郡の坂戸藩主・堀直寄が相続します。翌慶長15年(1610年)に堀忠俊・直清が改易されると、直寄は信州飯山4万石に国替えされ、領地は松平忠輝の高田藩に併合されました。

 元和2年(1616年)に忠輝が改易されると、直寄は蔵王堂城主に任じられて旧領を回復し、3万石を加増されて8万石の大名となります。蔵王堂城は信濃川のほとりにあって洪水に弱いため、直寄は南の長岡に新たに城を築き、城下町を整備しました。また信濃川河口部の新潟津を外港として整備しますが、元和4年(1618年)下越の村上藩に10万石で加増転封されます。

 次いで長岡藩主となったのは、徳川家譜代の重臣・牧野忠成です。彼は父の康成から上州大胡藩2万石を相続していましたが、元和2年に上越の頸城郡長峰に5万石で転封され、その整備も進まぬうちに長岡へ6万2000石で転封となりました。忠成は幕閣としての仕事が忙しく、長岡に入ったのは寛永7年(1630年)になってからですが、弟の秀成と家臣らが藩領の整備を進めました。また忠成は加増により7万4000石となり、牧野家は養嗣子をとりつつも廃藩置県まで13代252年にわたってこの地を治めることとなります。

 当時の越後平野は信濃川が蛇行して氾濫を繰り返す低湿地であり(越後国府が上越にあったのもこのためです)、長岡藩は当初から治水と新田開発に力を注ぎました。寛永11年(1634年)、忠成は次男の康成(武成)に三島郡与板1万石を、四男の定成に蒲原郡三根山6000石を分知していますが、これらは新田開発分から分けられたもので、本藩の実高は18世紀には11万石を超えるほどになります。昭和初期に大河津分水路が作られ、戦後にコシヒカリが導入されるまで越後の米は品質が高くなかったようですが、生産された米や作物は寺泊や新潟津を介して各地へ運ばれ、長岡藩の財政を支えました。

明和騒動

 しかし、長岡藩の財政は当初から赤字でした。牧野家は譜代の重臣ゆえに幕府から軍役や助役を命じられることが多い上、多数の藩士を抱えており、相次ぐ洪水飢饉にも苦しめられます。治水や新田開発には多額の出費が必要で、米価も年々下落したため、新田開発による増収は年々目減りしていきます。享保13年(1728年)には火事により城が全焼し、城下町の大半も焼失してしまい、幕府から7000両を借金して再建費用にあてねばなりませんでした。藩は領内に重税や御用金を課し、藩士の俸禄を半減(半知借上)する羽目になり、城の再建には26年もかかる始末でした。

 長岡藩の重要な財源は信濃川水運の特権と、新潟町からの御用金でした。新潟町は藩の外港として様々な特権を認められ庇護下に置かれる傍ら、御用金を定期的に上納する義務(仲金制)を課せられていました。これは年間1万5000石に相当するほどありましたが、宝暦3年(1753年)に幕府の裁定で信濃川水運の特権を剥奪され、長岡藩はますます新潟町の御用金に依存するようになります。新潟は北前船の寄港地として繁栄していたものの、度重なる藩からの要求に耐えられなくなりました。

 明和5年(1768年)、新潟町民は涌井藤四郎を中心として御用金納付の延期を求めることとし、密かに署名を集めました。涌井は密告により投獄されますが、激怒した町民は早鐘を合図に一斉蜂起し、長岡藩の新潟町奉行所や密告者の家、米屋などを襲撃し「打ちこわし」を行います。奉行所はやむなく涌井を釈放して暴徒を説得させ、事態を鎮静化させますが、涌井はそのまま町民代表として自治を開始し、長岡藩による統治は機能しなくなります。藩は面目にかかわるため涌井らを呼び出して拘束し、2年後に処刑します。

 当時の藩主・牧野忠精は8歳の少年で、家老の山本老迂斎、儒臣の高野栄軒余慶父子らに輔佐されていました。彼らは名臣でしたが新潟の騒動を防ぐことはできず、忠精は彼らの薫陶を受けつつ藩政改革に乗り出します。まずは信濃川流域の諸藩と協議し、天明8年(1788年)に運送特権を取り戻しますが、天明・寛政年間にはたびたび飢饉や洪水に見舞われます。また松平定信と姻戚であったことから寛政の改革期には幕閣に取り立てられ、寺社奉行・大坂城代・京都所司代を経て享和元年(1801年)には老中となります。このため藩財政は出費がかさみ、幕府から2万両余を借金しています。こうした中でも忠精は藩校を設立し、排水工事を行って新田開発を進めるなど善政につとめ、天保2年(1831年)に72歳で没するまで65年間在任しました。

魚沼苧布

 中越地方の南部に存在した魚沼うおぬまは、古くは魚野うおの郡といい、現在の津南町・十日町市・小千谷おぢや市、湯沢町・南魚沼市・魚沼市、長岡市の一部を含みます。西部には信濃川、東部には魚野川(伊保野いおの川)が南北に貫流し、小千谷市で合流して越後平野へ流れ出ます。信濃川を介して信州や長岡、魚野川を介して上州、魚野川の支流・破間あぶるま川を介して会津と水路・陸路が繋がっており、川沿いには盆地が開け、縄文時代以前から人間が居住してきました。一方で河川の氾濫や豪雪に古くから悩まされてきた地域でもあります。

 平安時代には上田(殖田、於田)という荘園が置かれ、鎌倉時代には上州の新田氏の家来の里見氏などが拠点としました。南北朝時代からは上杉氏・長尾氏が統治し、上杉氏の会津移封後は堀氏の所領となり、以後は高田藩の領地となりますが、越後騒動で高田藩が一時取り潰しされると幕府領となります。また享保9年(1724年)から宝暦5年(1755年)までと、宝暦13年(1763年)から文久元年(1861年)までは会津藩の預かり地とされ、小千谷に陣屋が置かれました。そのため独立の藩ではありませんが、経済史的には重用なのでここで取り上げます。銀山については前回やりました。

 現代の魚沼地方はコシヒカリの産地として有名ですが、豪雪地帯であるため米の産地となったのは新しく、古くから米の代わりにを上納していました。これは苧麻ちょまカラムシ青苧あおそとも)という植物の繊維を織ったもので、奈良時代から「越後布」として都に献上され、上流階級の贈り物としてやり取りされる高級品でした。

 中世には藤原北家閑院流正親町三条家、その分家の三条西家が「青苧座」の本所(荘園領主)として青苧の取引を独占し、越後府中(上越市)から近江坂本を経て京都や大坂の天王寺などへ運ばれ、莫大な利益を得ています。長尾氏・上杉氏は戦国時代に越後府中の青苧座を支配下におさめ、その経済力を活用したうえ、朝廷や幕府と繋がりを持つこととなりました。上杉氏が会津を経て米沢に転封されると、青苧を会津や米沢に持ち込んで栽培技術を伝え、財政を支える一助としています。

 江戸時代、会津や米沢などで青苧の栽培と布の生産が盛んになると、越後産の苧麻布はかえって市場競争に負けるようになります。しかし寛文年間(1661-73年)に播州明石から来た堀将俊(明石次郎)が、絹織物であった明石ちぢみの技法を導入し「越後縮(小千谷縮)」を作り出します。これは撚りが強い横糸で織った布を湯もみして縮ませたもので、肌触りと風通しがよく、夏場に涼しく過ごせる高級織物として全国に普及しました。これにより越後は布の生産地としてのブランドを再び確立したのです。

 時代劇『水戸黄門』で水戸光圀が「越後の縮緬ちりめん問屋の隠居」と名乗っているのは、江戸時代には縮緬(縮)が一大産業として越後に根付いており、その問屋の隠居ならば大金持ちに違いないという肩書からです。

◆上◆

◆布◆

【続く】

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