【つの版】度量衡比較・貨幣188
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は越後の続きで、下越編です。

◆三◆
◆条◆
下越地方

越後国は、畿内に近い順に上越・中越・下越と区分されます。このうち下越地方は越後北端にあたり、蒲原郡・沼垂郡・岩船郡に相当します(南蒲原郡は中越とも)。北は鼠ヶ関を挟んで出羽国庄内地方に接し、東は越後山脈によって出羽国置賜地方・陸奥国会津地方と隔てられ、南は彌彦神社を中越との境とし、西は日本海に面しています。中越からは信濃川、会津からは阿賀野川が流れ来て新潟で海に注ぎ、置賜からは荒川が流れ来ています。
阿賀野川は上流部で荒海川、会津で大川・阿賀川、越後で阿賀野川と呼ばれ、古代より会津と越後を繋ぐ大河です。古墳時代には日本海側における倭国・越国の北限であり、大化3年(647年)には河口部左岸(新潟県東区)に渟足柵が置かれました。
翌年には荒川の北に磐舟柵(村上市岩船)が、10年後にはさらに北に都岐沙羅柵(所在地不明)が設置され、越国の最北端とされます。越後国ははじめ岩船・渟足の2郡でしたが、大宝2年(702年)に越中国から頸城・古志・魚沼・蒲原の4郡を割譲され、和銅元年(708年)に出羽柵・出羽郡(庄内地方)が設置されて北に伸びます。和銅5年(712年)に出羽郡は出羽国として越後国から分割され、越後の領域がおおよそ定まりました。
平安時代、桓武平氏・平維茂は藤原道長の支援を受けて越後国に勢力を広げ、鎮守府将軍・出羽守となって蝦夷との交易を行い、道長に砂金や馬などの莫大な富をもたらしました。また沼垂郡(のち南の蒲原郡に吸収)に奥山荘という荘園を開拓して摂関家の所領としており(現胎内市)、子孫は奥山氏を名乗りました。維茂の三男・繁茂は秋田城介を称し、その子孫は城氏と名乗って越後北部に勢力を広げ、陸奥の安倍氏や出羽の清原氏、奥州藤原氏と会津を巡って争いました。しかし木曽義仲に敗れて没落し、鎌倉時代に一時復活したものの、佐々木盛綱らに討伐されて滅亡しています。
鎌倉幕府は和田義盛の弟・義茂を奥山荘の地頭とし、彼やその他の御家人の子孫が各地に分立して国人集団「阿賀北衆(揚北衆)」を形成しました。南北朝時代に上杉氏が関東管領・越後守護に、長尾氏が越後守護代に任じられますが、阿賀北衆はその支配にしばしば従いませんでした。上杉謙信の頃になってようやく家臣団に組み込まれ、上杉氏が会津・米沢に転封されると多くがこれに従っています。
地理的・歴史的に下越(北越)は奥羽との繋がりが強く、阿賀川以北(阿賀北地域)の北越方言は新潟・中越の越後方言ではなく東北方言に含まれます。東蒲原郡の阿賀町は江戸時代には会津藩領であり、町域の大部分は明治19年(1886年)まで福島県に属していたため会津方言が通じるといいます。
三条城主

中越と下越の中間、南蒲原郡の三条から見ていきましょう。南北朝時代の越後守護代・長尾景恒の子らのうち、長景は魚沼郡上田荘に拠って上田長尾家の祖となり、景晴は蔵王堂城を築いて刈羽郡・古志郡を治め古志長尾家の祖となりましたが、高景は蒲原郡南部の三条城に拠って守護代を継ぎ、三条長尾家の祖となります。のち関東管領上杉氏の分家を越後守護として招き入れて越後府中(上越市国府)に居らせ、自らも上越に移ったため、三条城には被官の山吉氏が入って蒲原郡司を代行しました。
三条城は南東から五十嵐川が信濃川に合流するあたりに築かれ、河川交通の要衝を抑えています。山吉氏はここを拠点として蒲原郡・岩船郡に支配を及ぼし、信濃川の水運と河口部の港(新潟津・蒲原津)の権益を巡って阿賀北衆と争いました。天正5年(1577年)頃に山吉氏は新潟津近くの木場城へ転封され、神余親綱が城主となりますが、謙信没後の乱で上杉景勝に背き、天正8年(1580年)に討ち取られます。続いて甘粕景持が三条城主となりますが、慶長3年(1598年)上杉氏の会津転封に従い開城します。
代わって越後国主となった堀秀治は、家老の堀直政を三条城の城主として5万石を授け、直政の子・直清が城代となりました。慶長5年(1600年)、上杉景勝が煽動した一揆が越後を揺るがすと、直政・直清はこれを鎮圧する功績を挙げます。秀治が慶長11年(1606年)、直政が慶長13年(1608年)に没すると、直清は弟の直寄と対立し、慶長15年(1610年)に改易されます。
堀家に代わって越後国主とされたのは松平忠輝で、松平重勝が御附家老として三条城に入り2万石を授かりますが、元和2年(1616年)に忠輝も改易され、重勝は連座せず下総関宿に加増転封となります。続いて市橋長勝が5万石で三条城主となりますが4年後に没し、稲垣重綱が2万3000石で入りますが3年後に大坂定番に任じられ、職務のために大坂近辺に転封となります。越後の所領は幕府領となり、出雲崎代官の管轄とされ、三条城は破却されました。慶安2年(1649年)より村上藩の飛び地となり、幕末に及んでいます。
新発田藩

阿賀野川以北(阿賀北地域)のうち、現在の新発田市周辺は新発田藩領に属します。中世には城氏を平定した鎌倉幕府の武将・佐々木盛綱の末裔と称した新発田氏が割拠し、西は新潟湊、南は三条島(三条市)に及ぶ領域を支配し、阿賀北衆の中では特に有力な国人でした。新発田氏は上杉謙信に仕えて各地を転戦し大いに手柄を立てましたが、天正9年(1581年)に新発田重家が恩賞不足として反乱を起こし独立を回復します。会津の蘆名氏や米沢の伊達氏もこれを支援しますが、景勝は秀吉と結んで対抗し、天正15年(1587年)に攻め滅ぼします。
上杉氏が会津に転封されると、新発田城には溝口秀勝が6万石で入りました。彼は尾張の武家の出身で、幼少より丹羽長秀に仕え、はじめ定勝と名乗りました。天正9年(1581年)信長の直臣となり若狭国高浜に5000石を授かりますが、翌年本能寺の変で信長が死ぬと、長秀ともども秀吉に従います。秀吉は柴田勝家を滅ぼした後、丹羽長秀を越前北ノ庄に封じ、定勝をその与力(加勢)として加賀大聖寺城に封じ4万4000石を授けました。
長秀没後に子の長重が若狭に転封されると、秀吉は堀秀政を越前北ノ庄に封じ、定勝は秀政の与力となります。また秀吉から豊臣の姓と偏諱を授かって秀勝と改名し、秀政の子・秀治が越後に転封されると引き続き与力として新発田に封じられたのです。会津征伐と関ヶ原の戦いでは、秀勝は堀家ともども家康に味方して所領を安堵され、慶長15年(1610年)に没しました。溝口家は江戸時代を通じて改易されることもなく、12代にわたり存続します。
新発田藩の領域は阿賀野川の右岸、現在の新発田市のみならず新潟市東部や阿賀野市に加え、三条市の北の加茂市などにも及びましたが、大半を占める越後平野は蒲などの草が生い茂る低湿地で、農耕に適さない地域でした。そこで新発田藩は長岡藩ともども代々干拓や治水を行い、新田開発を進めました。秀勝の次男・善勝は阿賀野川沿いの沢海(新潟市江南区沢海)に1万2000石を授かり、秀勝の孫・宣直は3人の弟に6000石・5000石・4500石をそれぞれ分与していますが、これにより表高は5万石に減ったものの新田開発分で実高はそれ以上になり、領内は繁栄しました。元禄時代には下屋敷に京都風の庭園「清水園」が造られています。
しかし18世紀には相次ぐ洪水に悩まされた上、蒲原郡内の幕府領を預けられ、江戸城の堀浚いなど幕府からの役目も降りかかり、財政は悪化していきます。治水にかかる費用もかさみ、豊作になれば米価が下落し財政難となります。そこで財政改革を行ったのが、8代藩主直養です。
宝暦11年(1761年)に家督を継いだ彼は、徹底した倹約で出費を抑え、領内に御用金を課し、検地を行って収入を増やします。一方で農村保護のため備蓄米の倉庫を立てて飢饉に備え、税制改革も行って不満を抑え、領内や家中に様々な法令を発布して積極的な政治改革を行います。また学問を奨励して藩校を設置し、百姓や町人にも教育の機会を与え、四書五経などを印刷して庶民に配布し、医学館・施薬方を設立して医学教育や庶民への医療を行わせるなど福祉政策にも気を配りました。これにより直養は新発田藩中興の祖と呼ばれ、その治世は「安永の治」と称えられることになります。
直養は甥の直信を養嗣子としていましたが、直信は天明6年(1786年)に31歳で没し、その子・直侯が数え9歳で跡を継ぎ、直養は隠居して後見人となりました。ところが直養の父・直温の正室である清涼院(留姫)は旧臣を退け、実家から付き従ってきた相葉七右衛門を重職に任ずるなど専横を行おうとします。寛政の改革の主導者の一人であった松平信明は清涼院の実家・大河内松平家の出身であるため、これを仲裁し七右衛門を罷免させますが、代わりに新発田藩の所領のうち2万石を陸奥の同高の所領と交換します。同じ石高とはいえ陸奥の所領は生産性が低く、懲罰が目的でした。これにより新発田藩の財政は再び悪化し、幕末まで影響を引きずることになります。また信明は新発田藩主の後見人となり、老中首座として辣腕を振るいました。
村上藩
越後国北端の岩船郡(現村上市など)を領したのが村上藩です。平安時代には小泉荘という荘園があり、のち新しい領域が付け加わったのでそちらは加納と呼ばれ、もとの荘園は「本庄」と呼ばれるようになります。鎌倉時代には秩父氏が地頭とされ、本庄氏を名乗りました。本庄氏は阿賀北衆のうちでも有力で、戦国時代には本庄城を築いて北越に割拠し、本庄繁長は上杉謙信・景勝に仕えて活躍しますが、会津転封に従ってこの地を去ります。
代わって本庄城に9万石で入ったのは村上頼勝です。北信濃の戦国大名・村上義清の子ないし外孫ともいいますが、出自は定かでありません。溝口秀勝と同じく丹羽長秀に仕え、加賀国能美郡小松に6万6000石を賜って長秀の与力となり、長秀の子・長重が若狭に転封されると、代わって越前国主となった堀秀政の与力とされました。のち秀政の子・秀治が越後国主となったため、溝口秀勝ともども与力として加増転封されたのです。頼勝は本庄城を近世風に改築して「村上城」と改め、以後この城を居城とする領主家は村上藩と呼ばれることになります。
頼勝は関ヶ原の合戦後も家康に所領を安堵され、慶長9年(1604年)に没しました。養嗣子の忠勝が跡を継ぎ、堀家改易後は松平忠輝の与力となりますが、忠輝改易後の元和4年(1618年)に「家中の争いが多い」として改易されます。忠勝は捨扶持300石を賜ったのみで丹波国篠山に流され、元和9年(1623年)25歳で没しました。これは彼が忠輝の与力であったことに加え、豊臣系の外様大名で立場が弱く、領内に金山を持つことなどが理由と推測されますが、村上氏については史料が乏しいため詳しいことはわかりません。
代わって村上藩主となったのは、堀秀治の家老・直政の子の直寄です。越後入国時に魚沼郡坂戸城2万石を授かり、蔵王堂藩のうち3万石を加えて5万石となり、堀家改易後に信濃国飯山4万石へ、さらに越後国長岡8万石と転封を重ねてきた彼ですが、村上に10万石で移されてからは寛永13年(1636年)に還暦で隠居するまで20年近く在任しました。しかし嫡男の直次は家督を譲られた2年後に25歳で病没し、直次の子・直定が4歳で跡を継ぎますが7歳で病没し、村上藩主堀家は無嗣断絶となりました。
直寄の次男・直時は蒲原郡安田城(現阿賀野市安田)の城番をつとめ、寛永16年(1639年)に父が没すると遺産として3万石を分与され、村上本藩は新田分を含めて10万石のままとされます。直定が没すると家臣に村上藩の跡継ぎとして擁立されますが幕府に認められず、翌年に没します。子の直吉はその翌年に阿賀野川の南の村松(現五泉市村松)に転封され、以後明治まで堀家村松藩として存続しました。石高は同じく3万石ですが、所領の大半が山間地のため新田開発もできず、財政は常に逼迫していました。
正保元年(1644年)に本多忠勝の孫・忠義が遠江掛川7万石から加増されて村上に10万石で入りますが、5年後に陸奥白河12万石へ移封されます。続いて結城秀康の孫・松平直矩が播州姫路から15万石で入り、18年後に姫路へ戻されるまで領しました。入れ替わりで姫路より榊原政倫が15万石で入り、養嗣子の政邦が継いで、宝永元年(1704年)に姫路に戻されるまで2代37年続きました。入れ替わりで本多忠義の兄の子孫の忠孝が15万石で入りますが5年後に12歳で没し、無嗣断絶となるところを分家から忠良が入って家督を相続します。ただし15万石のうち10万石を削られて5万石の小藩に転落し、多くの家臣が養いきれずに解雇されています。
翌年本多忠良は三河刈谷に転封され、上州高崎より松平輝貞が7万2000石で入ります。彼は徳川綱吉の側用人として出世した人物でしたが、将軍が家宣に代替わりすると失脚し、村上に左遷されたのです。しかし家宣とその子家継が相次いで没し、徳川吉宗が将軍となると復権し、享保2年(1717年)高崎に戻されます。家宣・家継のもと権勢を振るい、高崎藩主となっていた間部詮房は入れ替わりで村上に左遷され、享保5年(1720年)に没します。
詮房の弟・詮言が継ぎますが間もなく越前鯖江に国替えされ、内藤弌信が5万石で入ります。内藤氏は戦国時代より三河松平家に仕えた譜代の重臣で、江戸幕府成立後は数家に分かれ、陸奥磐城平・棚倉、信州高遠・岩村田などに藩を授かっていました。弌信の祖父・信広は一時上野・安房・上総等に1万5000石を賜りましたが、罪を被って7000石を削られ、子の信光は5000石の旗本として幕府に仕えました。
弌信は陸奥棚倉藩主内藤家の養子となり5万石を相続しますが、宝永2年(1705年)駿河田中藩5万石に転封され、7年後に大坂城代となり、63歳にして村上藩主となりました。これより内藤家は村上藩主として9代150年存続します。6代目の信敦は松平定信の娘を娶り、寺社奉行・若年寄・京都所司代などの要職を歴任、7代目の信親は幕末には老中にまで昇っています。
寒冷な北辺にあり米の生産にも事欠く村上藩にあって、重要な産物の一つが鮭でした。縄文時代以来、河川を遡上する鮭は貴重な食糧であり、干物や塩物に加工すれば各地へ輸出して相応の収入が見込めましたが、内藤家が入部した頃には乱獲により資源が枯渇していました。
そこで村上藩の下級武士である青砥武平治は、鮭が生まれた川に帰って産卵する習性を利用し、宝暦13年(1763年)に「種川の制」を編み出します。これは領内を流れる三面川を三つに分流させ、うち一つを「種川」として蔦や柴で柵を作って遡上を妨害し、ここに入った鮭に産卵させて自然孵化させるという仕組みです。果たして種川で孵化した鮭は翌年も同じ場所で産卵するようになり、漁獲高は次第に増え始めます。種川の設備も拡大され、当初は200-300両ほどだった漁獲高は1000両にも及ぶほどに回復しました。
3両2人扶持の小身であった武平治は、この功績により明和3年(1766年)には70石取の中級武士に昇格し、天明8年(1788年)76歳で没しています。種川の制は武平治没後も続けられ、文化3年(1806年)には出羽庄内藩が導入し、明治時代には石狩川などでも行われました。鮭を捕獲して人工的に受精・孵化させる増殖法が普及したのは明治時代以後のことです。
◆鮭◆
◆鮭◆
【続く】
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