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【つの版】日本刀備忘録56:奥羽北陸

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 戦国時代には日本全国で武器の需要が高まったため、各地の刀工集団は大忙しとなり、刀や槍が大量生産されて輸出されました。西国では備前、東国では美濃が刀剣生産の一大拠点でしたが、その他の地域でも多くの刀工が活動しました。東海道の次は奥羽・北陸の刀工集団を見ていきましょう。

◆火◆

◆車◆


陸奥:舞草鍛冶

東北地方

 平安時代の陸奥国では舞草もくさ鍛冶が活動していました。中心地は奥州安倍氏・奥州藤原氏が領有した奥六郡で、現・岩手県一関市の儛草まいくさ神社に工房が存在したことからそう呼ばれます。日本と蝦夷の接する最前線であったこの地域は、チャイナから伝来した直刀から日本独自の弯刀に変化する過程に影響を及ぼしたとも思われ、「日本刀発祥の地」とも称されます。

 清少納言の『枕草子』第18段に「たちは、たまつくり」という文章があります。これは「類聚段」という特定の物事を列挙する部分に一文だけあり、「渡」と「家」の間に挟まれています。この解釈には古来諸説あり、「太刀は玉造」として玉飾りの太刀のことだとも、玉造を地名として陸奥国玉造郡(現・宮城県大崎市)で作られた太刀のことだともいいます。玉造郡は一関や平泉の南で陸奥国府・多賀城の北にあり、辺境防衛のために刀剣の需要も供給もあったでしょうし、陸奥の太刀は『今昔物語集』にも名刀として登場しますが、清少納言がなぜ一文だけこう書いたかは謎に包まれています。

『平治物語』では、源頼朝が帯びた鬚切の太刀は「奥州の住人・文寿」の作とされ、奥州安倍氏を討伐した源義家以来河内源氏に伝わったといいます。また源義朝は舞草鍛冶を奥州から鎌倉近郊の沼浜に呼び寄せて作刀を行わせたといい、頼朝により奥州藤原氏が滅ぼされた時も鎌倉に刀工が連行されたと思われ、相州伝など各地の刀工集団には舞草鍛冶の技術が伝わりました。

 奥州に残った舞草鍛冶のうち、平泉や玉造(大崎市鳴子町鍛冶谷沢)では文寿の子とされる「宝寿」を代々の名乗りとする宝寿派が存続し、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活動しています。南北朝時代から室町時代初期に成立した『義経記』では、義経の家来である佐藤忠信が追い詰められて切腹する時に「さすが舞房の作った刀。腹を切るのに少しも物に障ることがない」と切れ味を褒めていますが、この舞房は舞草のことともいいます。

 また鎌倉時代後期に編纂された『銘尽』に奥州鍛冶の項があり、鬼丸・世安・森房・幅房・瓦安の名がある他、義経の太刀「薄緑」を鍛えたのは奥州の国宗と記されています。また同書の「神代より当代までの上手鍛冶」42名の中に奥州鍛冶・月山の名があります。永徳年間(1381-84年)編纂の『日本国中鍛冶銘文集』によると、奥州にはかつて森房・鬼王丸・諷誦・雄安という4人の刀工がいましたが、八幡殿(義家)が奥州征伐に下った時に雄安は安倍貞任につき、その子孫は藤原秀衡に仕えたが、その作は舞草の刀に似ていたといいます。舞草鍛冶は戦国時代にも奥羽各地の大名・国人衆の需要に応えていたようですが、詳細は不明です。

出羽:月山鍛冶

 出羽国の霊峰・月山を拠点とした刀工集団が月山鍛冶です。舞草鍛冶の鬼王丸(鬼神太夫)が移住して開いたとされ、陸奥の宝寿派と同じく地鉄に綾杉肌が見られます。庄内平野や山形盆地は日本海を通じて畿内と結ばれ、古来摂関家の荘園があったことから、月山鍛冶の刀は全国に広まり、鎌倉時代後期の『銘尽』にも「月山」の名があります。室町時代には相州伝との交流もあり、双方合作の太刀が伝わっています。

 月山は北西の鶴岡・庄内平野、北東の新庄盆地、東の山形盆地に囲まれ、古来修験道の霊地として栄えました。平安時代よりこの地の荘園領主であった摂関家の庇護を受け、寒河江の慈恩寺を本寺とし、鎌倉幕府の地頭の干渉にも僧侶らが訴訟を起こして抵抗しています。南北朝時代から室町時代には地頭が土着し国衆化した寒河江氏の庇護下に入ります。戦国時代には庄内地方の大宝寺氏、山形盆地の最上氏、置賜地方の伊達氏らが角逐し、最終的に最上氏が寒河江氏を滅ぼして慈恩寺を庇護下に置きました。最上義光は織田信長へ月山作の槍10本を贈り物としたといいます。

 奥羽や北陸からは交易品として蝦夷/アイヌに刀剣が輸出されており、蝦夷地で刀工となった者もいたようです。アイヌの交易圏は樺太を経て満洲へ通じていますから、刀剣がこのルートからも大陸方面へと輸出されていたことは推測できます。なおアイヌは刀剣(エムシ)を基本的に装飾や儀礼に用いましたが、小刀(マキリ)も生活用品として需要がありました。

越後:桃川派・山村派

中部地方

 越後国の北部、岩船郡上林村の桃川(現・新潟県村上市桃川)には桃川派と呼ばれる刀工集団がいました。開祖は俊吉といい、近江国の甘呂俊長(江州住高木貞宗の弟子)の門下で、桃川の南の平林城主・色部いろべ氏に招かれて移住したといいます。俊吉の子を長吉といい、同名の刀工らと区別して「桃川長吉」と呼ばれます。高木貞宗は相州正宗ないし貞宗の弟子とされ、鎌倉時代後期から南北朝時代に活動したと伝えますが、俊長の作風には大和伝の影響も見られ、相州伝の傍流ということになるでしょうか。また桃川派は近隣の月山鍛冶の影響も受けていたと考えられます。

 色部氏は越後北部の国衆の一人で、桃川氏はその家来でした。上杉景勝が出羽米沢に転封されると、色部氏らはこれに従って米沢に移っています。

 越後中部、刈羽郡小国おぐに村(現・新潟県長岡市小国町)には山村派という刀工集団が存在しました。初代の山村正信は小国の城主で、南北朝時代の貞治年間(1362-68年)に京都より来派の源五郎信国(初代信国の弟)を招き、自ら門人となって鍛刀を行ったと伝えます。正信の子の安信も刀工となり、応永年間(1394-1428年)に信国と銘を改め、永享年間(1429-41年)まで続きました。山城信国は応永の末まで続き、永享の末には豊前宇佐に渡り、江戸時代には筑前などへ広まっています(筑紫信国派)。

 小国は信濃川の支流・渋海川沿いに開けた細長い小盆地で、鎌倉時代に摂津源氏の頼連がこの地の地頭となって小国氏を名乗りました。南北朝時代には南朝に属し、信濃川河口部の万代島(現・新潟市中央区万代島)に蒲原津城を、寺泊の南の島崎(現・長岡市島崎)に島崎城を、弥彦神社の北(現・新潟市西蒲区)に天神山城を築いて北朝に抵抗しました。以後は天神山城の城主として続いたため、小国城は山村氏らが守っていたのでしょう。

越中:宇多派

 現在の富山県にあたる越中国では、鎌倉時代末期に五福(富山市)で佐伯則重が、南北朝時代に松倉郷(魚津市)で郷義弘が活動していました。同じ頃に越中国砺波郡吉岡庄(高岡市福岡町)に起こり、江戸時代まで続いたのが宇多派です。初代は国光(宇津古入道)といい、鎌倉時代後期の文保年間(1317-19年)に大和国宇陀郡から加賀を経て越中に移住したとされます。

 国光は大和伝のうち手掻派に属していたようですが、子の国房は二代則重に学び宇多物の祖となりました。初代国房の作には永徳(1381-84年)・康応(1389-90年)などの紀年銘があり、いずれも北朝の元号です。彼を代表格として、宇多派は国宗・国次・国長・国久・国弘・国清・国吉・友弘・友次・真国・友則・友久・平国などの刀工を輩出しました。鎌倉時代から南北朝時代までのものを「古宇多」と呼び、特に上質とされています。

 鎌倉時代の越中国は北条分家の名越氏が守護でしたが、南北朝時代には桃井直常が割拠し、室町時代には畠山氏が守護職を世襲します。しかし畠山氏は領国に下向せず、守護代の神保氏・椎名氏が実際の統治を行いました。畠山氏が応仁の乱で没落すると越中は戦乱の巷となり、戦国時代には神保氏が武田信玄や一向一揆、椎名氏が長尾氏・上杉氏の支援を受けて相争います。信玄が没すると上杉謙信が越中を制圧しますが、謙信没後に織田信長は柴田勝家らを派遣して北陸平定を行わせ、越中は佐々成政が制圧しました。成政が秀吉に敗れると、越中は前田利家の子・利長に授けられ、以後は幕末まで加賀・能登・越中は前田家(加賀藩)の統治下に置かれます。宇多派の刀工はこうした戦乱による武器の需要を満たし、繁栄したのです。

赤雲の太刀

 武田信玄と勝頼に仕えた譜代の重臣・小山田勝茂は「赤雲」と名付けられた太刀を所持していました。これは現存し、銘に「国光」とあることから、武田氏が介入した越中から宇多国光の刀が持ち込まれたものと思われます。また勝茂の祖父・孫三郎信有は越中守を称しており、勝茂の兄・弥三郎も信有の諱と越中守の称を継いでいます。織田信長の甲州征伐に際し、武田勢は調略を受けて総崩れとなり、勝茂も勝頼を見捨てて織田家に降りますが、織田信忠に不忠を責められ処刑されました。なお明智光秀や荒木又右衛門は宇多国宗の刀を所有していたといいます。

加賀:藤島派

 鎌倉時代から戦国時代にかけて、加賀国で栄えた刀工集団が藤島派です。初代の友重は越前国吉田郡藤島(現福井市藤島町、九頭竜川の南で永平寺の西)の出身で、京都の刀工・来国俊の弟子となりました。嘉暦年間(1326-29年)ないし正和年間(1312-17年)に加賀国石川郡泉村(現石川県金沢市泉、犀川の南)に移住し、建武4年(1337年)に49歳で没したといいます。

 子孫は代々泉村に居住して友重を名乗り、二代は貞和(1345-50年)から康安(1361-62年)頃、三代は藤原朝臣と称して応永(1394-1428年)頃、四代は文安(1444-49年)から康正(1455-57年)頃、五代は延徳(1489-92年)から永正(1504-21年)頃に活動しました。六代友重は作兵衛(あるいは次兵衛)と名乗り、寛永年間(1624-44年)に泉村から金沢へ移住しました。七代友重は三郎右衛門と称し、貞享年間(1684-88年)まで存命でしたが、以後は断絶したようです。ただ友重の傍流を名乗る刀工は各地に残存しました。友重の刀は古来業物とされ、武家に珍重されました。

火車切友重

 寛延2年(1749年)に刊行された怪談集『新著聞集』によると、むかし松平五左衛門なる武士が従弟の葬儀に参列した時、雷電が四方に閃き、黒雲が棺桶にかかり、その雲の中から熊の手のようなものがぬうっと突き出して、棺の蓋を開けようとしました。五左衛門がとっさにその手を刀で斬ったところ、手応えがして黒雲は消え、大量の血液と怪物の手が落ちていました。手には3本の鉤爪があり、銀の針のような毛が生えており、人々はこれを棺桶から死体をさらう妖怪「火車」のものだと言い合いました。以後この刀は「火車切」と呼ばれたといいます。大田南畝の『一話一言』にほぼ同じ記事があり、刀は「藤島友重」のものであったとしています。

 松平五左衛門とは、大給松平家の出身で徳川家康に仕えた武将・松平近正のことです。彼は松平親清の子で、幼少の宗家当主・家乗の家老として大給松平家の兵を率い、家康が関東に入ると上野国群馬郡に5500石を賜り宗家から独立しました。慶長5年(1600年)に家康が会津征伐に向かうと、松平家忠・鳥居元忠とともに伏見城留守居役となりますが、石田三成ら西軍に攻撃されて討ち死にしています。のち近正の孫娘が信州諏訪藩の家老・諏訪頼雄に嫁いだ時、火車切は火車の爪とともに引出物として譲られましたが、諏訪藩主に所望されて献上されたといいます。同じく「火車切」と呼ばれるものに上杉家に伝来する相州広光の刀がありますが、実際に火車を切った話が伝わっているのはこちらの方です。

加州清光

 藤島友重の弟子ないし子孫とされるのが清光で、代々加賀国に住んだことから加州清光と呼ばれます。初代は泉小次郎といい、友重と同じく石川郡泉村に住み「泉鍛冶」と呼ばれました。享保5年(1720年)に七代清光が記した由緒書によれば、初代清光は宝徳3年(1450年)に没したとされ、藤島友重の子である行光の子であったといいますから、二代か三代の友重の孫にあたるのでしょうか。二代清光は作助といい永正3年(1506年)に没したとされ、清光作の年紀銘は明応年間(1492-1501年)を最古とします。

 三代清光の七右衛門は天文・弘治年間(1532-58年)、四代清光の七右衛門は天正年間(1573-92年)の人で、天正14年(1586年)加賀石川郡松任城主の前田利長が越中射水郡守山城に移った時に従ったため「守山清光」と呼ばれます。慶長2年(1597年)利長が富山城に移ると清光も従い、利長のために長柄槍2本を打ちました。慶長14年(1609年)利長が高岡城に移ると清光も従い、大小腰物20振を打ったと伝えられます。五代清光の次郎九郎は、利長の子・利常に従って金沢に住み、掛物太刀や脇差を献じました。

 六代清光の長兵衛は金沢城下の鍛冶町に住みましたが、寛文8-9年(1668-69年)に発生した飢饉により生活が困窮し、寛文10年(1670年)に藩主が設置した窮民収容所「非人小屋」に延宝年間(1673-81年)から家族ともども住むようになりました。それで「非人清光」と呼ばれますが、非人身分に落ちたわけではなく、藩からもその作刀の腕を認められていました。とはいえ清光家の貧窮は続き、七代の長右衛門、八代の長兵衛も非人小屋で暮らしたといいます。清光は幕末まで12代続き、新選組隊士の沖田総司が所持した刀も何代目かの「加州清光」の作であったと伝えられます。

加州兼若

 加賀藩には諸国から刀工が集いましたが、慶長10年(1605年)頃に美濃から招かれたのが兼若です。本名を辻村甚六、のち四郎右衛門と称し、元和5年(1619年)には越中守を受領して藤原高平と称しました。兼若は志津三郎兼氏の末裔と称し、実際その作風は志津風です。加州兼若はその後も代々刀工として栄え、友重や清光のライバルとなりました。

越前:千代鶴派

 加賀の藤島派と同じく、来派の傍流にあたるのが越前の千代鶴派です。元祖の国安は藤島友重と同じく来国俊の門人で、戦乱を避けて京都から摂津国淡路庄中島に逃れ、延元2年(1337年)に二代国安が越前府中に入り工房を構えました。国安の子または弟子を守弘といい、南北朝時代から室町時代前期にかけて数代続いています。現存する作品は少なく、国安・守弘の作のみが伝わります。越前の戦国大名朝倉氏に仕えた真柄直隆・直澄兄弟、直隆の子の隆基はみな身長7尺(2m余)の巨漢で、千代鶴派の刀工らが鍛えた巨大な大太刀を振るって戦ったと伝えられます。

 室町時代の越前の刀工には、他に応永年間に大和国浅古(現奈良県桜井市浅古、鳥見山の南麓)から移住した浅古当麻信長がいます。当麻鍛冶は大和伝五派の一つで、大和国葛城郡当麻寺を拠点とし、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活動しましたが、南北朝の戦乱に巻き込まれて衰退し、越前へ逃れたものでしょう。藤島派にも信長がいますがこれとは別人のようです。

若狭:冬廣

 若狭国小浜には、寛正年間(1460-66年)に相模国から冬廣という刀工が移住しました。彼は相州伝の廣次の子といい、西国諸将の求めに応じて備前伝の作風も取り入れ、代々各地で作刀を行いました。戦国時代から江戸時代には、因幡・伯耆・出雲・備前・備中・備後・安芸・紀伊・讃岐など各地に冬廣家の刀工が移住しています。小浜では他に来派の宗長、宗次などが活動しました。

◆Thunder◆

◆struck◆

【続く】

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