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【つの版】日本刀備忘録57:畿内山陰

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 戦国時代には日本全国で武器の需要が高まったため、各地の刀工集団は大忙しとなり、刀や槍が大量生産されて輸出されました。西国では備前、東国では美濃が刀剣生産の一大拠点でしたが、その他の地域でも多くの刀工が活動しました。東海・奥羽・北陸と見てきましたから、次は畿内・西国です。

近畿地方

◆黒◆

◆田◆


畿内

山城:平安城派

 山城には鎌倉時代に粟田口派・来派、南北朝時代に信国派・長谷部派が栄えましたが、戦乱により地方へ流出してしまい、戦国時代まで存続したのは平安城派(後三条派)です。祖とされる猪熊入道光長は大和尻懸派の一派と伝え、鎌倉時代末期の元亨・正中年間(1321-26年)に京都猪熊通で活動しました。それから150年ほどを経た文明年間(1469-87年)には、三条吉則が活動しています。「京都三条住」「平安城住」などの銘があるほか、和泉や越前など各地に移住しての作刀もあり、越前朝倉氏に仕えたようです。

 後三条/平安城派にはほかに長吉の名跡もあり、四代は吉則と同じく文明年間に活動し、吉則の子が五代長吉を継ぎました。文亀・永正年間(1501-21年)にはこの平安城長吉が伊勢・三河・相模と移動して各地の刀工と交流しており、技術を互いに伝えています。伊勢桑名で活動した千子村正はこの時長吉に師事したともされます。平安城派には、ほかに国長・友長・吉長・長光・則光といった刀工がいました。

大和:末手掻派、保昌派、金房派など

 平安時代、藤原氏の氏寺として栄えた興福寺は、大和一国の荘園をほぼ独占して事実上の国主となり、朝廷をも脅かすほどの権威と権力を持っていました。近隣の東大寺もこれに負けじと勢力を強め、中世には各寺院の周囲に門前町を擁して繁栄しました。荘園の防衛や利権の確保・拡大のため、各地の寺院は武力を持ち、多数の武具を必要としていました。大和伝の刀工たちはこれを満たすために大いに活動したのです。パトロンは裕福な寺院ですから生活も保障され、全国の関係荘園にも派遣されて技術を広めました。

 大和伝五派のうち最古の千手院派は、東大寺の子院である千手院の付近(若草山の麓)で活動したことからその名があります。開祖は行信で、堀川天皇の御代(1086-1107年)に千手院に承仕法師(僧形の雑用係)として仕えたのが始まりといい、鎌倉時代・南北朝時代にかけて栄えました。

 鎌倉時代の文永12年(1275年)から、東大寺裏手の尻懸しっかけでお抱え鍛冶として活動したのが尻懸派です。開祖は則弘といい、長男の太郎左衛門則長が跡を継いで数代続きました。

 弘安年間(1278-88年)、奈良盆地南部の高市たけち郡に興ったのが保昌ほうしょうです。開祖は保昌五郎国光ですが現存する作刀はほとんどなく、実質的な祖は国光の子・貞宗とされます。どの寺院に従っていたかは定かでありませんが、南北朝時代を経て室町時代まで存続しました。

 鎌倉時代の正応元年(1288年)から南北朝時代にかけて、葛城地方の当麻寺で栄えたのが当麻派です。当麻寺は興福寺と関係が深く、奈良盆地南西部にあって河内との交通を抑え、南北朝の戦いでは前線基地となりました。開祖の国行は山城伝の来派の出自で、兵衛尉という武官職名を持ちます。

 同じく正応頃、東大寺境内西方の輾磑てんがい門の門前に興ったのが輾磑派すなわち手掻てがいです。開祖は包永かねながといい、一門はみな名前に「包」の字を冠しています。南北朝時代を経て室町時代の寛正年間(1460-66年)まで栄えました。後期の手掻派の作品を「末手掻」と呼びます。こう見ていくと大和五派のうち四派は東大寺で、興福寺は当麻派だけですね。応永年間(1394-1428年)の成立とみられる『庭訓往来』にも奈良の名産品として刀があげられています。

 その後も大和伝の刀工は活動していたようですが、戦国時代に入ると興福寺の西の金房かなぼう辻の子守(現奈良市本子守町)に金房派が出現します。銘が残るものでは永正14年(1517年)の正重が最古で、天文年間(1532-55年)を質の最盛期とします。刀のみならず槍でも優れ、宝蔵院流槍術の開祖・胤栄は金房政次に依頼して十文字槍を3本作らせたといい、本田忠勝の槍「蜻蛉切」を鍛えた三河文殊正真は大和金房派の正真と同一人物との説もあります。また名槍「日本号」も金房派の作品と推測されます。

 日本号は穂の長さ2尺6寸余、茎長2尺6分余、全長1丈(3m)余あり、穂の中心の樋には倶利伽羅竜王の浮彫があります。もとは皇室の御物で、正三位の位階を賜ったといい、正親町天皇(在位1557-86年)から足利義昭に下賜されました。のち織田信長、豊臣秀吉の手に渡り、秀吉から福島正則に授けられます。ある時、伏見城にいた正則のもとへ黒田長政の家来の母里太兵衛が使者として派遣されましたが、正則は彼が酒豪であると聞き、強いて大杯に酒を注いで勧めました。太兵衛は任務中ゆえと固辞しますが、正則は「飲み干せたなら好きな褒美をとらす。飲めぬというなら豪傑ではない」と絡みます。やむなく太兵衛は大杯の酒を飲み干し、褒美として日本号を所望しました。正則は惜しみながらもこれを与え、これより日本号は母里家に明治時代まで代々伝わり、現在は福岡市博物館に所蔵されています。

 永禄10年(1567年)に行われた松永久秀と三好三人衆らの戦いで東大寺は大仏殿ごと灰燼に帰し、興福寺が生き残って勝者となります。しかし江戸時代には奈良の作刀技術は衰退し、肥前で大量生産されたなまくら刀を奈良に輸入して外装のみを施すようになったため、「奈良物」といえばなまくら刀の代名詞となってしまいました。なお紀伊や四国(南海道)の刀工は、地理的に大和伝の影響を受けているようです。

和泉:加賀四郎

 室町時代、泉州堺で活動したのが加賀四郎資正とその一門です。もとは加賀の藤島派の鍛冶で、応永年間か文明年間(1469-87年)に堺に移住したとされ、永正年間(1504-21年)まで数代続きました。

 堺は和泉・河内・摂津の三国の境(堺)にあり、中世に海外との貿易港として発展しました。日明貿易では日本刀が輸出されましたから、加賀四郎らの刀もいくらか輸出されたことでしょう。

山陰道

但馬:法城寺派

 京都の北西、山陰道の但馬国(現兵庫県北部)には、法城寺派という刀工集団が存在しました。開祖は国光といい、相州の貞宗(正宗の弟子)の門下であったとされ、南北朝時代の貞治(1362-68年)の紀年銘があり、薙刀の名人として知られます。現在の兵庫県豊岡市出石町鍛冶屋清水に法城寺があり、国光はその南の朝来市和田山町岡田に本拠地を置いたとされます。ともに山の麓の内陸部で近くに川が流れ、産鉄・製鉄には向いています。但馬は室町時代には山名氏の本拠地でしたから、刀剣の需要は充分にあったでしょう。戦国時代を経て江戸時代に入ると、法城寺派の正弘(滝川三郎太夫)は江戸に移り、幕府の御用鍛冶となって繁栄しました。

中国地方

因幡:景長

 鳥取県東部の因幡国では、鎌倉時代後期から戦国時代にかけて景長という刀工が代々名跡を受け継いで活動しました。初代景長は山城伝の粟田口派に属し、粟田口吉正の弟子で藤左衛門と名乗りましたが、嘉元年間(1303-06年)に因幡に移住して因幡小鍛冶と名乗ったといいます。現存する歴代景長の作風は実際に肌目が粟田口風ですが、帽子は来派、沸は肥後延寿派、刀姿は応永備前の盛光や康光に似ているとされます。

伯耆:広賀派

 鳥取県西部の伯耆国では、室町時代後期から戦国時代にかけて広賀ひろよしの刀工集団が活動しました。初代は相州出身で、長禄年間(1457-60年)に伯耆倉吉に移住して守護大名の山名氏に仕えましたが、応仁の乱の後に山名氏は内紛を起こして衰退します。

 大永4年(1524年)、出雲の大名尼子経久が山名氏の内紛に乗じて伯耆を制圧した際、岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)の城主・小鴨左衛門尉元清は因幡へ逃走しました。この時、元清の家臣であった見田兵衛は倉吉に逃れて広賀の門人となり、さらに相州に旅して綱広より技術を学び、天文年間(1532-55年)に五郎左衛門尉と名乗って作刀を開始しました。もとの広賀の家系を道祖尾さいのお家、五郎左衛門尉に始まるほうを見田家といいます。両家はともに繁栄し、江戸時代前期まで存続しました。

出雲:道永派

 島根県東部の出雲国は、天叢雲剣の発祥地として名高く、斐伊川の砂鉄を利用した製鉄が盛んで、『延喜式』では毎年横刀たち10振を朝廷に貢納することが定められるなど、古来刀工が活動していました。しかし伯耆や備前ほどに高名の刀工は現れず、南北朝時代には備前から吉井鍛冶という刀工集団が出雲に移住して活動し始めます。彼らを「出雲道永」と呼びます。

 吉井派は備前国吉井に拠点を置いた備前伝の一派です。長船とは吉井川を挟んで西岸にあり、当然ながら長船派の影響を強く受けています。正平17年(1362年)に真則が作った刀には「吉井住」と「雲州住」の銘があり、これが出雲道永派による作刀の初見とされます。また至徳年間(1384-87年)に永則、応永年間に吉則、嘉吉年間(1441-44年)に清則、長享年間(1487-89年)に清則の子の永則が吉井から出雲へ移住したといいます。道永とは彼らのうち誰かの法名と思われますが定かでありません。これ以前に雲上という鍛冶が出雲から備前へ修行に来て基礎を開いたとも伝えられます。

 出雲道永派の居住地は、現在の島根県安来市広瀬町にありました。ここには南北朝時代から出雲守護代の居城とされた月山富田城があり、山名氏と京極氏が守護職を巡って争っていたため、武器の需要は充分にありました。明徳の乱で山名氏が出雲から駆逐されると京極氏が出雲守護職を占め、京極氏傍流の尼子氏が守護代となって戦国時代を迎えます。尼子氏は月山富田城を拠点として勢力を広げ、一時は山陰山陽11か国のうち8か国の守護を兼ねる大大名となりましたが、永禄9年(1566年)毛利氏に敗れて滅亡しました。

石見:直綱

 島根県西部の石見国邑智おおち郡には、建武年間(1334-36年)に相模から移住した直綱という刀工がおり、戦国時代まで四代にわたり活動しました。初代直綱は相州正宗の弟子ともいわれますが信憑性は低いようです。

 邑智郡は石見南部の内陸、中国山地の内奥にあり、南は安芸国に接しています。中国地方を東西に貫き、北の山陰と南の山陽を分ける中国山地は、標高200-500mの低山が連なり、高い山でも1000‐1500mに過ぎません。地質は風化しやすい花崗岩が多く、風雨や河川による浸食を受けてたやすく崩れ、花崗岩に含まれていた砂鉄を押し流します。人々は山々の狭間に点在する大小の盆地に住まい、古くから砂鉄を利用して製鉄を行ってきました。

 邑智郡出羽いずは郷(現島根県邑南町)では特に質の良い鋼が作られ、鎌倉時代に領主の出羽氏が各地へ輸出したことから「出羽鋼」と呼ばれました。直綱がこの地に来たのも良質の鋼があったことによります。出羽氏は南北朝時代に近隣の領主高橋氏と争いますが、大内氏や毛利氏に従って勢力を保ち、一時は毛利元就の子・元倶を養嗣子に迎えるほど重視されていました。

◆島◆

◆根◆

【続く】

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